***


 途端に変わった声色に、パーカスは一気に現実に引き戻された。
 口が滑った? そんなものでは許されない、クラーリィは顔を真っ青にして震えている……
「パーカス、き……貴様……!!」
 元々口数が多い方ではないし、上品に生きている彼に汚い罵倒の言葉の引き出しなんてないに違いない。どんな時もその感情を内に閉じ込め沈黙を守るクラーリィだからこそ、殺意を抱くほどに怒り狂っているだろう今もただ黙って拳を握り締めている。若い彼には、それしかできない。
 けれどパーカスは、怒りと憎しみに染まった翠の瞳ですら、心の底から愛おしいとそう思ってしまう。弁解を忘れてしまうほどに、ただあの美しい瞳が己を、己だけを映して揺らいでいる。己の言動一つにここまで心を震わせる、その希有性の何と美しいこと。
 クラーリィはそれ以上何も言わずにただ部屋を出て行った。深夜にも関わらず、ばたんと響くような大きな音を立ててドアが閉まる。それをパーカスはただ呆然と見つめていた。

 だって彼は本当に……「彼」に、そっくりなのだから。


 ***


 パーカスの持っていた攻撃魔法は野蛮だなんて印象を彼が吹き飛ばした。彼の指先から音もなく現れる炎の描く美しい軌跡が、彼の振るう錫杖の描く流線一つ一つが、誰よりも何よりも美しかった。彼の魔法は真に「魔法」と称するに相応しい何かを持っていた。畑違いであるパーカスですら理解できるほどの実力。そして、容姿の美しさ。使う魔法の完璧さ。どこをとってもこの国一番に違いはなかった。
 名を、レシク。若くして近衛師団に配属された、スフォルツェンド期待の星――彼はそう呼ばれていた。
 幻術系の名門・ミスタ家の出身ながらさほど秀でた才能があるわけでもなし、一兵卒としてその若き日々を費やしていたパーカスだったが、旧家同士の付き合いの中でそんな大先輩であり憧れの人・レシクと知り合う機会を得た。彼には実力も、それによる名声も、そして美しい容姿ですら揃っていた。それでもレシクは決して傲ることなく、どんな実力差のある者であっても共に戦う仲間として認めてくれた。そんな心の強さを持っていた。
 レシクは攻撃系魔法の名門・ネッド家の出身だったが、専門外となる幻術系についても深い知識を持ち、時にパーカスを導き、時に支えてくれた。レシクとは違うもののそれなりに背負うもののあるパーカスのことをよく理解し、ある時は友として、そしてある時は先輩や上司として、実によく付き合ってくれた。彼は優しかったし、勇敢だった。パーカスはそんなレシクの笑顔を見るのが好きだったし、彼が悲しそうな顔をするのを見るのが嫌いだった。

 きっと当時彼に抱いた感情は恋だと思う。終ぞそれを口にすることはなかったが、今思うにパーカスはそうであったと結論づける。ただ、気付いた時には遅かった。この感情がそういう汚いものだと気付いた時には既にレシクには家庭があったし、今更踏み壊すことのできない社会的な壁も多く存在した。
 だからパーカスは何も言わなかった。何も言わず、ただ彼の姿を視界に入れ、同じ志を持って女王に仕えることのできるこの身が幸せであるとそう考えていた。お互いに年を取り、配属も変わり、若かった頃のように顔を合わせることすら少なくなってしまっても、パーカスはただ彼が生きていればいいとそう信じていた。
 そして十六年前、あの運命の戦争がやって来た。
 レシクの息子夫婦が死んだ。孫が二人残された。そしてレシクが、姫を育てる為スタカットへ移住することになった。
 レシクだって人の子だ。彼は強かったが、同じほど優しかった。彼が子や孫へ注ぐ優しさは、確固たる女王や国への忠義とはまた違った輝きを持っていた。息子夫婦の死に目に会うことすらできず、可愛いだろう孫たちをも手放して「何も知らぬ老人」として姫を育てることになった彼の心の痛みは、きっと誰よりもパーカスが知っていた。姫を誰よりも理解しその保護者となるため、己の実の孫たちを他人のカテゴリに入れざるを得なかったレシクの哀しみをパーカスは理解していた。
 だからこそ、彼がスフォルツェンドに残していった彼の孫二人を彼の替わりに無事育て上げるとパーカスは誓った。別に、それで自分が彼によく思われようとか、そういう考えはなかった。彼の哀しみが少しでも和らぐよう、少しでも安心して己の孫の存在を忘れ、家臣として一心に姫の成育に力を注いでくれるようになればそれでいい。彼が己の孫の存在を忘れるまでの短い間、彼の胸が少しでも痛まないようにできればそれでいい。
 実際レシクはこの王都を去って後、実の孫二人に彼らの祖父として会うことはなかったし、幼いながらも理解してくれたのかクラーリィもそしてコルも、彼の姿を見に行くことはあっても声を掛けることはなかった。

 あの戦争で子二人を同時に手放すこととなったホルン女王は、虫の息であったネッド夫妻に子二人の面倒は己が見ると言い切った。ホルン女王の保護の元、家族を全て失ってしまったにも関わらず二人は捻くれることもなく素晴らしく実直に育った。流石は名門家の出身といったところだろうか、それとも流石はレシクの孫と表現すべきか、二人とも早くに頭角を現し、己を、そして身の回りの人々を助けられるだけの実力を身に付けた。
 だが、恐ろしいことに、その内クラーリィは……レシクに似てきてしまった。外見だけではなかった。レシクと同じ時間を過ごしたことなどあの戦争以前くらいしかないはずなのに、細かい仕草や筆の運び、笑い方、そしてあの美しい軌跡を描く魔法……上げればきりがないほど、細部に至るまでクラーリィはレシクに似てきた。似てきて、しまった。

 いつから彼に向けるそれが「レシクの愛し孫」から変わってしまったのか、忘れてしまったし今となっては思い出す由もない。確か、彼が大神官というレシクですら到達できなかった椅子を得たあとのことだ。普段あまり表情を変えず口数も少ないクラーリィが、珍しく上機嫌でいろいろと思い出を語ってくれた。彼にまだ「家族」があった頃の、慎ましやかで暖かい家庭の話。パーカスの知らないレシクの話……その横顔に、普段見ることのない柔らかな笑みが浮かんでいた。遠き過ぎ去りし日を思う、どこか高潔で汚すことの許されない笑み。ああ、そう、レシクも、彼もこんな笑い方を。
 パーカスは咄嗟に手を出してしまった。その手を、無意識のうちにその横顔に伸ばしてしまった。哀しみと愛おしさと、自己嫌悪といろいろなものが混じってその手は震えていたけれど、クラーリィの目にはそれが緊張のようにしか映らなかったようだった。
 レシクに似て素直で、人の良心を信じていたクラーリィは、きっとパーカスの深い淀みの存在について想像したことすらなかっただろう。彼は己に向けられた好意をただ純粋に喜んで、そして応えてくれた。


 ***


 ようやく得た安眠はたったの五分ほどで切り裂かれ、クラーリィは通信室へと急がねばならなくなった。待っていようとしたパーカスを彼は押し止める。そして何も言わずにパーカスの付けたライトを消した。
「いい。時間の無駄だ」
 しかし、なんていうパーカスの弁解を待たずにクラーリィは部屋を出て行く。もし機嫌が良ければ「そろそろ老体に近いんだから無理して起きるのは止めておけ」とか「すぐに帰ってくるから寝ていればいい」とかそういう類の言葉が聞けたはずだ。しかし普段無口な彼はあまりそういった言葉を発することはなく、ただその海のように深い翠の瞳だけがそれを物語る。
 心配してくれているのだ。彼が己に向けてくれるそれはいつだって暖かい。畑違いであってもレシクと同じように理解を示し、幻術をただのまやかしと見下すことは絶対にしない。彼にできず己にできる数少ない魔法を、実に純粋な瞳でもって「凄いな」とそう表現する。
 パーカスは身を倒し目を閉じた。クラーリィの薦めに従っておいた方が賢明だろう。どうせすぐに帰ってくる、あまり生真面目に待っていては逆に彼の心配を煽るというもの。せめてと思い、足下の明かりだけは付けたままにしておいた。
 帰ってきたときにクラーリィがきちんと潜り込めるだけのスペースを開け、深呼吸を一つ。部屋の中は静かだ。ベッドの下からぼんやりと光る明かり一つが心地よい。適度な暗闇はあっという間にパーカスを眠りへと誘った。

 しばらく後にクラーリィは帰って来たが、パーカスは若干寝惚けていた。おそらく眠っているであろうパーカスに気を遣っているのか、その長身をやや屈ませた格好でそろそろと部屋を進んでいる。足音をたてないよう涙ぐましい努力をしているのが明らかだ。半ば無理矢理目を開ける。ほんの少し、眩しい。
 狭い視界に柔らかい金色が滑り込んできた。黙ったままのクラーリィがパーカスの顔を覗き込んでいるらしい。
「おかえりなさい」
「寝ていろと言ったのに」
 振ってくる優しい声と、それに見合った優しい眼差し。美しい金色の髪がはらはらとベッドに落ちてくる。その髪に見え隠れする、美しい魔法を描き出す微かな傷の残る指先。パーカスの心を刺激する、どこか「懐かしい」その姿。
 そしてパーカスは、愚かにも彼に向かって「レシク」と、そう呼び掛けてしまった。


 ***


 涙が溢れて溢れて止まらなかった。こんなに悲しい思いをしたのは久しぶりだ。こんなに人を殴りたいと思ったことなんてなかった。
 廊下を駆ける。何事かと問い掛ける夜勤の警護兵を振り切って中庭へ。近衛兵の立っているであろう大門を通るのは諦め、裏口から城外へと走り抜ける。
 頬を深夜の冷たい風が切り裂いていく。涙の跡が乾いてひりひりする。その上をまた新しい涙が流れ余計に痛みが増す。走っても走っても、拭っても拭っても、涙は止まってくれない。
 最悪だ。最悪の気持ちだ。こんな目に遭うために今まで頑張ってきたわけではない。吐き気すらする。よりによってあの人と見間違われるようなことだけはあってはならなかった。それだけはどうしても嫌だった。いっそ泣き叫んでしまいたい。それ程にクラーリィには耐え切れぬ仕打ちなのだ。

 あの人は、あの男は、俺も妹も捨てて国に命を捧げた愚かな男。国と家族を天秤に掛け、片方しか取れなかった不器用な男。どうして父も母もいないのか、どうしてたった一人残る肉親であった祖父が「家族」ではないのかと泣きじゃくるコルを抱き締めていた俺の気持ちが分かるのか。ただ柱の影から王女の祖父として女王に報告をする祖父の背を見ていることしか許されなかった俺の気持ちが分かるのか。
 あの日あの時あの戦争で、ホルン女王の微笑みどころか父も母もそして祖父ですらも一遍に失ってしまった俺の気持ちが分かるのか!
 俺はそんな人間にはならない、俺は国と妹両方を守ってみせる、そう決めたのに、そう心に誓っていたのに、この仕打ちは何よりも酷い。

 けれど本当は知っていた。パーカスの部屋、隅の方に大事そうに飾られている写真。当時スラーが写真技術を開発したばかりで出来はかなり悪いものの、そこに若いパーカスと俺に似た誰か……決まっている、祖父レシクが写っている。古びた写真なのに、いついかなる時も埃を被ることなく大事そうに飾られている。その写真をじっと見つめるパーカスの背を眺めていたこともある。彼は声を掛けると慌てて振り向き、なんでもない話をいろいろと振ってきたが。
 知っていた、知りたくもなかった、パーカスが隠し通す限り俺は黙っているつもりだった。
 だって嬉しかったんだ、己に向けられる好意が何よりも嬉しかった。差し伸べられる温もりが、己に掛けられる暖かな言葉の数々が、涙が出るほど嬉しかった。嬉しくてたまらなかったんだ、だから黙っていてくれさえすればそれで良かった。気付かないふりをし続ける気持ちは確かにあった。俺に向けられているように見えた好意は別人へ向けたものであったことを。それがよりによってあの男へのものだということも全て、黙っていてくれさえすればそれで良かったのに!

 真っ暗闇といえど知り尽くした場所、クラーリィは躓くことなくひたすらに駆けていく。長いことここで生きてきた。スタカット村を離れたあの瞬間から、ずっとこの国で、この場所で、ここから一歩も動くことなく。ここから一点も視線を逸らさずに。
 ああ、はじめての恋だったのに、とクラーリィは吐き出す。血を吐くような胸の痛みは嘘ではなかった。ひりつく頬の痛みも幻ではない。全て現実。失った家族も、その思い出も、そして、恋した相手に愛されてなんかいなかったというところまで、全て。


 我に返ったパーカスは慌てて部屋を飛び出した。生憎クラーリィの行きそうな所を知らない。こんな深夜に逃げ出す先などそうないだろうが、パーカスはそれらを一切知らない。恐らく目撃しているだろう警備の兵に尋ねるのも手ではあるが、同時に「大神官が行方不明」なんて尾ひれの付いた噂を流すことにもなりかねない。そうなってしまっては最後、己とクラーリィの痴情の縺れに留まらず多くの人に迷惑を掛けてしまうだろう、あまり好ましいとは思えない。もう一つ、探査魔法を使うという手もあるが、残存法力の少ない己が使うとどうなるか分からない。最悪倒れてしまう可能性もある。この場合も同様、二人の枠を超えて他人に迷惑を掛けてしまうだろう。
 この足でクラーリィを見つけ出すほかなさそうだ。パーカスはクラーリィの逃げ出し先に選ばれそうな場所をあげはじめ、レシクの行きそうな所なら知っているのにという思考に行き着いたところで考えるのを止めた。己を殴れるのならどんなにか楽だろう。
 まずは逃げ出してしまったクラーリィを探し出さなくてはならない。こんな深夜にあんな薄着で、きっとどこかで震えているに違いない。寒さで、怒りで、そして悲しみで。最悪の方法でクラーリィを傷付けた己に何か言葉を掛ける権利があるとはとても思えなかったが、とにかくパーカスはクラーリィを探し出さなくてはならない。そして彼が寒さに風邪を引かないよう、この上着を届けなければ。
 パーカスは城外へ出る。風が冷たかった。指先がしんしんと冷えてくる。暗闇のなか、ざわざわと木々の掠れた囁きが耳に届く。闇色の空に、闇色の木々が溶け込んでいる。その中にぽつんとパーカスが一人。周囲に人の気配は感じられない。
 しばらく門に立ち尽くした後、パーカスはとぼとぼと墓地へ向かった。

「……残酷とはこれを言うのでしょうね、レシク師団長」
 ざくざくと丘を登る。城外裏手の森のそばにある、戦没者の慰霊碑群。その中にある真新しい石碑は、先日スタカット村で戦死した者のための慰霊碑。
 一番上にネッドの名。パーカスの恋した相手。クラーリィの祖父の名。その昔クラーリィが生まれた村の人々全ての名が刻まれた、魔族の爪痕。クラーリィは村人の顔を覚えているのだろうか。覚えていたのだろうか。彼に生まれ故郷の思い出はあるのだろうか?
「私は何てことを……」
 石碑の前に立ったパーカスは、じっと羅列された村人の名を目で追っていく。どの者もみな、レシクを長に据えた近衛師団の精鋭たちだった。彼らは十五年間、この国に残す家族との縁を一切絶ち、「余所者を受け入れない」という掟の存在する村人として生きた。国に何度か報告に訪れたレシクを除き、国に戻ってくることはとうとう一度もなかった。レシクだって報告をしただけで、結局クラーリィやコルと言葉を交わしたことは一度たりともなかった。パーカスからすれば、こんな精鋭として選ばれる素晴らしい家柄の者たちがとてつもなく羨ましかったが、縁を切ることを余儀なくされた縁者たちはまた別の感想を抱くだろう。
 クラーリィがあまりレシクを尊敬していないことを、パーカスはなんとなく知っていた。
「あなたが過去あなたの子や孫を愛していたことを私は確かに知っていました。だからこそ、あなたのために、あの子たちを育て上げると誓ったのに」
 パーカスは独り言を続ける。
「いつからか彼はあんなにもあなたに似てきて……あなたの死を聞いたとき、私は気が狂いそうだった。だから、なんて言い訳ができないことくらい、分かっているのですが」
 パーカスは不意に振り向いた。そして紛れる闇の中、「クラーリィ様」と呼び掛ける。

 気配を消していたらしいクラーリィは驚き、しばらく躊躇してからその姿を現した。途中から背後にいたことをパーカスは知っている。そしてそれを承知の上で、あんな独り言を言ったことも認める。
 どんなに言い繕おうが、パーカスがクラーリィにレシクの面影を見て手を出したことは事実だ。どんなに残酷だろうと事実は事実。それについて、今更言い逃れしようとパーカスは思わない。
 クラーリィはパーカスから数歩離れた位置で立ち止まり、静かに「言い訳を聞く」と言った。
「先程の、聞こえましたでしょう。その通りです」
 パーカスはそれ以上何も言わなかった。正確には、続けようとしたもののそれが成就することはなかった。泣いたのか、赤く腫れたクラーリィの頬にまた一筋流れる美しい涙を見つけてしまったから。暗闇の微かな光を受け、パーカスの目にそれは恐ろしい程に美しく輝いて見えた。
 そして彼の喉から、千切れんばかりの悲痛な声色でもって、精一杯の叫びが紡がれる。涙を拭おうとはしない。
「……ハ、どうせ俺はこの程度だ。たった……たった一つホルン様の微笑みを取り返すためだけに生きてきたのに何もできなかった……! 軍王一人満足に倒せない! たった一人の肉親である妹も満足に守れないようなクズだ! だから……」
 最早隠すことの叶わない涙をいっぱいに湛え、許される憎しみですらも己への刃に変え、クラーリィは恐らくは彼の知っている最大限の罵倒でもって己を虐げている。
「……だからはじめて好きになった相手にすら俺として認めて貰えない」
 クラーリィは淡々と、おまえが初恋だったと語る。怒っているのだろう、そして悲しんでいるのだろう、固く握り締められた手が震えている。けれどここでパーカスを憎んでしまわない彼が、……哀れなほどに優しい。
「人を好きになるってどういうことか分からなかった。親に死なれた日から俺は一人で生きてきたつもりだ。ホルン様のために身を削った、コルのために身を削った、国のために身を削った。残ったものなんて何もないとそう思っていた。
 ……おまえに好きだと言われて嬉しかった。何も残っていない俺を好きになってくれる人なんているんだと思った。おまえに言われて、はじめて、っ……」
 クラーリィは涙を袖で拭った。ぼろぼろと溢れてくる涙が止まる気配はない。いっそ憎むことができるのならここまで苦しい思いをしなくても済むだろう。一度パーカスを殴ってしまえれば、それでいくらかこの怒りや悲しみは晴れるだろう。
 けれど彼はそれをしない。
「はじめて、自分で自分のことを好きになれたんだ、なのに、なのにおまえはっ……」
 パーカスに言うべき言葉は何一つとしてなかった。そっとクラーリィに近寄る。彼は動かない。そろそろと手を伸ばしても、やはり動かない。ただ黙って俯いて、止まらない涙を拭っている。パーカスがそんなクラーリィの手を掴み彼の動きを止め、代わりに己のハンカチで涙を拭ってやっても、しばらくは黙ったままだったし抵抗する素振りも見せなかった。
 やがてクラーリィは絞り出すかのように「また俺は俺のことが嫌いになりそうだ」と呟いた。その言葉を受け、パーカスは手を止める。
「一つだけ言い訳をさせてください」とパーカスは言う。クラーリィは返事をせず、黙って地べたに座り込んだ。子供のように膝を抱え、大きく何度か深呼吸を繰り返す。そして髪と暗闇に隠れる潤んだ翠の瞳が、小さくパーカスを捉える。パーカスはそっとその肩に上着を掛けてやった。
「クラーリィ様。先程の言葉が事実であるように、今私があなたとしてあなたをお慕い申し上げていることもまた事実です」
 確かに彼はレシクに似てきてしまった。パーカスは寝惚け眼でクラーリィとレシクを見違えてしまった。けれどパーカスは、決してクラーリィをレシクと同一個体と認識したことはない。パーカスはレシクとクラーリィの微かなる違いを知っている。クラーリィの理想がレシクのそれとは違うこと、彼の定義する「忠義」や「愛情」がレシクのそれとは違うこと、そしてごく似ている二人の魔法の軌跡の微かな違いを、パーカスは知っている。
 そしてその上で、己はクラーリィを慕っているとそう定義する。クラーリィとレシクに対して抱いた感情が同じ「恋」という名を持つ感情であったとしても、それにはきちんと細やかな違いがある。パーカスはレシクが逃げ出しそうな場所を知っていてもクラーリィが逃げ出しそうな場所を知らないし、そもそも「同じではない」ということをよく分かっている。二人を慕っているが故に、その違いを確かに知っている。
 ただ、それをクラーリィが信じてくれるかどうかは別の話だ。彼の信用を打ち砕く真似をパーカスはしてしまった。それは今更どう取り繕えるものでもない。

 クラーリィはしばらく考え込んだ後、「俺はおまえを許さない」と絞り出した。
 はい、とパーカスは答える。クラーリィの声が震えている。
「俺はおまえを絶対に許さない、一生……一生こき使ってやる……!」
 本望です、とパーカスは言う。クラーリィはその表情を変えない。
「覚悟しろ、一生俺に頭を下げ続けろ、……俺は……俺はおまえを……」
 パーカスは黙って跪いた。クラーリィが一生己を許さないと言うのなら、パーカスは一生クラーリィに許して貰えるよう尽くさなくてはならない。いつかパーカスがレシクに抱いたそれが羨望と嫉妬であったように、人の心は移ろうものだ。その中の「一生」なんて言葉は甘い。けれどパーカスは、この言葉を命をも捧げる覚悟で受け止める。移ろう中の揺るがない決意とは、どんな形であれ価値のある美しいものだ。クラーリィがそれを己に向けてくれるというのなら、パーカスは甘んじて受け入れるその覚悟がある。
 クラーリィは黙って左手を差し出した。パーカスは迷いなくそれを取って、忠誠のキスを落とす。寒さ故か、怒り故か、それとも悲しみ故か、その手は震えている。
 パーカスはその手の震えが収まるまでずっと、両手でそれを支えていた。


 ***END



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