それがあなたの 1



 ***


 鬱陶しかった? 恐らく違う。たぶんあの刃を研ぎ澄ませたのは嫉妬だった。憎しみ、嫉妬、復讐なんて甘い囁き。
 羨ましい、ずるい。あんな温もりを私も感じてみたい。あの女は双子の片割れである自分を捨てたのに、彼女には五人も子供がいて、けれど誰一人捨てたりしなかった。どうしてだ、多すぎたわけじゃない、況してや己は天使であったのに、どうして捨てられねばならなかった、どうして同じく生きている彼らは母親からああも愛されている、ああも命を捨ててまで守りたいと思われるような人間になれている! 抱き締められた時に感じたあの温もりを恨んで妬んで、そして何より母を思わせるその柔らかさが悲しくて仕方がなかった。だから殺した。……のだと、思う。
 ある意味冷静にこう考えられるようになったのは、彼女とその子供達を殺して十年を越えた頃。もう何もかもが遅すぎた。己は報いを受けたのだ、無差別に人を殺した罪。嫉妬なんて醜い感情で愛しあう母子を引き裂いた罪。たった一人、最後の瞬間にハーメルではなく己の名を呼んでくれた母のことを信じてあげなかった罪。
 裏切られたと知っても、彼はめげずに己の父を信じ続けた。サイザーにはそれができなかった。母が己を捨てた確証なんて何もなかったのに、勝手に「捨てられた」と思い込んで暴走した。あの瞬間己を抱き締めたパンドラの温もりが、今もサイザーを締め付けて殺そうとしている。苦しい、あの二度と手に入らない温もりが、今となっては何よりも愛おしく、何よりも苦しい。指先を掠めていったパンドラの感覚がまだ生々しく残っていて、時折腐ったかのような激痛が走る。できることならばもう一度この腕に。そうすれば、今度は決して離すことをしないのに。
 けれど、サイザーはその全てをもう二度と手に入れることができない。

 サイザーは一人、随分と小高い丘の上に棒立ちになっている。

 よい風が、吹いている。
 西の空が滲んできた。もうすぐ夜が来る。夜が来るといったところでサイザーに泊まる宿はないし、この純白の羽が人々を驚かす。ふらふらと、数年。数年ずっと旅をしてきた。己が滅ぼした国の跡地。魔族の脅威の届かなかった、平穏な村。そして、ハーメルとフルートの記憶を持った人々。サイザーとは違う軌跡でパンドラの足跡を辿った二人の記憶を持つ人々。
 サイザーは家族と過ごすことができなかった。この先もその可能性は限りなく低い。だから、今はこうして人伝に父や、母や、そして兄の話を聞いて回ることしかできない。といっても、パンドラを知る人は殆どみな殺してしまった……だから今できることは、その軌跡を追い己が何をすべきなのか、もう一度見つけること。母の、そして兄の旅の軌跡。それを追うように、サイザーの旅が続いている。

 箱はまだある。あの中にはきっとハーメルがいる。サイザーの兄があの中にはいる。……けれど、開けることが怖い。今はまだ「いる」という希望にしがみついていられるけれど、箱を開けた瞬間、その希望は現実にすり替えられる。サイザーには分からない、ケストラーが既に肉体を失っていたように、もしハーメルも同じように肉体を失ってしまっていたら? その存在が、大魔王という概念だけになってしまっていたら?
 開ければその答えは一つ。サイザーの希望通りかも知れない。今サイザーに残るたった一つの希望を、打ち砕くかも知れない。その現実を受け止める勇気が今のサイザーには足りない。どちらをも受け入れるだけの覚悟が、ない。だが、箱を開けなければその中には永遠に二つの相反した現実が存在し続ける。
 きっとフルートも同じ思いだろう。あの箱は、フルートにとっても同じように残されたたった一つの希望。例えこの先フルートが箱を開けることがあったとしても、それはまた随分と先の話になるだろう。だからこそサイザーはこうしてフルートに箱を預け、たった一人の兄を預け、ふらふらと旅をしている。

 今夜も森で野宿になる。長い髪は束ねられ、黒のコート一枚の下に包まれている。パンドラの面影を追い切ることのできない髪が、今のサイザーを象徴しているかのようだ。己はパンドラに似ている。この顔に、確かにパンドラの面影を背負っている。湖面に映る己の姿を眺める度サイザーはそう思う。そして募る慕情がゆえに髪を切ること一つできない。まるでパンドラとの繋がりをまた一つ失ってしまうかのようで、悲しくてできやしない。
 羽を隠すのに大柄のコートはちょうどいい、たが少し風が吹き込んで寒い。そろそろこの旅装では寒さに耐えられなくなってきそうだ。早めにどこか風を凌げる洞でも見つけねばなるまい、とサイザーは黙って踵を返す。
 そして森の奥の人影に、足を止めた。
 来た時は誰もいなかった、ぼうっとしていたのは確かだが気配に全く気付かなかった。サイザーは身構える。この辺りは随分王都から離れてしまっている、夜盗の類の可能性もあるだろう。加え、サイザーは鎌を手放して久しい。
 一方相手側は特にサイザーに対し敵対心は持っていないようで、何ら負の気配は感じられない。警戒する様子も見せず、人影はやや聞き覚えのある声で「相変わらず美しい」なんて言って笑った。
「お……おまえ、確か……」
「私が殺したはずなのに? 二度あることは三度ある、と言うじゃないか」
 人影はフードを取って、その顔を覗かせる。スラーの王子。サイザーが二度も殺した。
 名を確か……コキュウ。
「噂話をたくさん聞いた。下の町で話を聞いてまさかと思ったが、本当にいるとは」
「私に復讐しに来たか」
「復讐? 馬鹿馬鹿しい、俺はただ見知った姿を見掛けたから立ち止まっただけ」
 コキュウの形容の仕方にサイザーは少し疑問を感じる。彼は十年もずっと己を憎んで生きていたはずなのに、その張本人をただ「見知った姿」と言った。その上彼は復讐を「馬鹿馬鹿しい」と一蹴した。
「十年……復讐に身を費やしたのではなかったか」
 そうだな、とコキュウは呟いた。その表情がやけにあっさりしていて、どうも上辺だけの表現ではなかったのだとサイザーに感じさせる。どこか吹っ切れたような……今のサイザーには、少し眩しい。
「年数で言えばおまえの方が泥沼に身を沈めた年月は長いのではないか」
 コキュウの言い分も尤もだ。サイザーは小さく首を振った。本を正せばサイザーの憎しみが彼の一度目の死を招いた。彼の憎しみの発端は、既に狂気の縁に達していたサイザーのそれになる。
「話せば長くなるが、そうだな……取り敢えず、今更おまえに飛び掛かろうとかそういうつもりはない。今は特に理由もなくふらふらと旅をしているだけ。
 旅は楽しいな、サイザー。世界とは美しいものだ、俺の知らなかった美しいものがこの世界には沢山ある」
 サイザーはしうる返答を持たなかった。相槌を打つこともできなかった。
 旅をしてきたといっても、サイザーはこの世の美しいものを探して旅をしていたわけではない。ただずっと己の失ったものの面影を探し求めて各地に残る爪痕を舐めるように過ごしてきた。この視界にそんなものが映り込んだことはない。この世界を美しいと思ったことはサイザーにはない。血の滲むような暮れ方をする空はいつでも悲しみに満ちている。そして今は、復讐という言葉にすら美しさを感じることができない。
 何もかもが空疎だ。

 コキュウがふと喋るのをやめたので、サイザーは顔を上げた。もう一人分の気配が近付いてくる。ざくざくと大雑把な足音に混じり届く声は、どうもコキュウの名を呼んでいるようだ。
 少し長居しすぎた、なんて他人事のような呟きがサイザーの耳に届く。
 やがて木々を掻き分けて現れた女は、サイザーの姿を見るなり「ひっ」と怯えた声を出して立ち止まった。こちらにも見覚えがある。ややふくよかな体型をした、母の歌を歌っていた唄うたい……名は知らない。
 サイザーが微動だにせぬうちに、コキュウは彼女に手を差し出した。
「大丈夫だよ、確かにサイザーだが、三度も俺を殺したりしないさ。君を追い掛けることもない。
 ……だろ?」
 妙に確信めいた笑い方で尋ねてきたコキュウを見、サイザーはやや慌てて頷く。今の己に殺意はない。もし復讐の名の下に刃を振りかざされたら……その時にならないと分からないが、サイザーが抵抗する可能性は半々だと思う。
 攻撃の意思がないことを示そうとサイザーは両手を広げる。バーディはしばらくサイザーの様子を窺っていたが、コキュウに全く警戒の意思がないことを確認し、やがてそろそろと距離を詰めてきた。
 コキュウの影に隠れるかのような位置で彼女は立ち止まり、もう一度サイザーの様子を窺う。そしてそろりと顔を覗かせ、小さく「バーディです」と挨拶してくれた。
「ごめん、少し話して戻るつもりだったんだけど」
 君を心配させるつもりはなかった、なんて優しい声色。コキュウは何度か「大丈夫だよ」と繰り返した。けれどバーディはそれ以上サイザーに近寄ろうとはしない。
 
 あの時サイザーは、半ば彼女を切り裂くつもりで追い掛け回した。戦闘能力を持たぬ彼女にあの仕打ちは酷だったろう。鎌を振りかざし必死の形相をした赤い羽根の女が追い掛けてくるのだから、さぞや恐ろしかったに違いない。嫌われるのも肯けるというもの。
 羨ましかったのだとか、幼稚な独占欲があんな行動に駆り立てたのだとか、今更弁解するまでもない。己があの歌こそ母にたった一つ与えられたものと思っていたことも、だからこそその歌を知っているバーディに嫉妬したことも、己があの時までずっと孤独に苛まされて生きてきたことも、募る慕情が振り切れて憎しみへと形を変え国を滅ぼして回ったことも、全てバーディという女には何一つ関係のないことだ。たとえサイザーが「可哀想な生い立ち」だとしても、バーディという女を殺そうとしたこと、そしてその隣に立つコキュウやそのきょうだい、父母を切り裂き故国を滅ぼしたという事実は変わらないし、それ故の罪が消えることはない。己の生い立ち云々と、彼らは全く関係もない。彼らが広い心でもっていつか赦してくれることがあったとしても、可哀想な己を赦してくれなんてサイザー本人が言うことはできない。

 行こう、とバーディは微かにコキュウの袖を引っ張る。そうだな、なんて少し残念そうにコキュウが言う。
「じゃあな、サイザー。よい夢を」
「ま、……待ってくれ!」
 立ち去ろうと踵を返しかけた二人が、サイザーの声に立ち止まる。我ながら馬鹿馬鹿しいとも思ったけれど、誘惑に負けてしまった。きっともう二度とない。罪深きサイザーの手のひらから失われていくものを繋ぎ止めることができる機会は二度訪れることはない。きっとこれは神の与えたもうチャンスだ。サイザーはそんなことをすら思った。
「その、頼む、バーディ……だったか? もう一度、あの、歌を……」
 母が、今は亡き母パンドラが、己のためにずっと歌っていたあの歌を。己を想って歌ってくれていたあの歌を、もう一度聴きたい。母が確かに己を愛していたという証。攫われたという主張を裏付ける、己のための母の子守歌。今はもういない、サイザーを抱き締めてくれることも二度とない母が、確かに存在したという証。
 サイザーの必死な顔に驚いたのか、バーディは少しきょとんとした顔をしたものの、すぐに「いいわよ」と言ってくれた。


 ***


「あ、……ありがとう」
 人の世に降りて初めて覚えたこの言葉をようやくサイザーは口にする。しかしコキュウは「礼が言えるようになったのか」なんて言って笑った。
 ぱちぱちと燃える焚き火の周りで、三人分の影がゆらりゆらりと揺れている。
 今夜は道を急ぐ予定だったらしく、丘から少し森に入ったところに二人の荷物と馬が一匹、主の帰りを待ち侘びていた。そこから荷物を解き「今夜は野宿に切り替える」と二人は言い、サイザーの為に敷物まで出して火を焚いてくれた。その炎の上で随分質素な鍋が踊っている。どうせ何も食ってないんだろう、ちょうどいいし、とコキュウが勝手に夕食の準備までし出した。
 そしてサイザーは「そこは違う」とか「いい加減覚えて!」なんて叱るバーディといちいち謝るコキュウの二人を、じっと眺めていた。
 黙るサイザーの隣でぱちぱちと、暖色の炎が踊っている。

「ス、スラーの王子。下のきょうだいは……」
「名はコキュウ。もう王子ではない」
 俺が長兄だって覚えてたのか、光栄だな、なんて言ってコキュウは鼻で笑った。サイザーはどう返事をしてよいか分からず黙っている。実の所彼のきょうだいの順列なんて殆ど覚えがなかったし、何かと率先して動いていた彼が長兄だろうという憶測を立てたに過ぎない。かといって、それを正直に申告すべきではないということくらいサイザーにだって分かる。
 困った顔のまま黙り込んだサイザーを見かねたのか、「いじわる言わないの」と若干呑気なバーディの声が薪の爆ぜる音に重なる。サイザーが薪を集めることを手伝ったのが要因なのか、バーディは先程のような怯えた様子を見せることはなくなった。順応の早い女のようだ。それとも、一番にサイザーを憎んでいるはずのコキュウが攻撃の意志を見せないことに何かを察してくれたのだろうか。
 軽い破裂音と共に火花が踊る。
「目覚めて真っ先に墓を作った、親父様と、お袋様と、それから俺のきょうだいたち。三度も死の苦しみを味わうこともなかろうと」
 また木偶人形になるのも考え物だ、なんてコキュウは呟く。確かに自虐めいた表現なのに、言葉尻からあまりそういう感情は感じられない。コキュウに表情はなく、彼はそれきり黙って鍋をかき混ぜている。
 掘り下げて事情を聞く気にはなれなかった。
「で、サイザー。おまえは何をしてたんだ。下の町の人々は『天使を見た』と随分嬉しそうだった」
「私は……その、」
「あれえ?」
 サイザーの続く言葉をバーディが遮った。あら、なんて彼女は頬に手を当てる。
「あなた……羽根、赤くなかったっけぇ? あら?」
 バーディはマントの裾から覗いた羽根を指さしている。黒いマントから少しはみ出た羽根は真白く、更に焚き火の明かりを受けて美しく橙に染まっている。
「え? あ、ああ、これか……その、……白くなった……」
 説明のしようがなく、サイザーは困った顔をしてマントをめくってみせる。憎しみを知ったその日から血を吸ったかのように暗い赤に染まってしまったこの羽根は、すべてを失ったあの日を境に生まれた頃のような純白に戻ってしまった。それきり元に戻る気配はない。いや、これこそが「元に戻った」状態なのだからそんな表現はおかしいのかもしれないが。
 バーディの唐突な声ににしばらく目を丸くしていたコキュウは、サイザーの求められたものと違う回答がおかしかったのか、その内随分と楽しそうに笑い出してしまった。
「見れば分かるな。見れば分かる。そんなもの見れば分かるぞ!」
 コキュウに釣られ、バーディも笑い出した。そんな二人を困惑した表情でサイザーが見守っている。
 白く戻った理由が分からない。サイザー本人はぼんやりと「憎しみという感情を失ったから白くなったのだ」と思っているが、それと色が失われることはあまり繋がらない。
「はは、は、いや済まないサイザー。何かまともな理由はないのか」
「理由……」
 笑い飛ばされて終わりそうだと思ったが、サイザーは先程の仮説をぽつりぽつりと語った。ベースに、己はパンドラに捨てられたのだと吹き込まれたあの日の話。直後走って逃げ出した己の姿が通路の大理石に映ったのを見た。羽根が血のように赤く染まっていて、子供心に恐ろしくて仕方がなかった。その後戻りそうな気配はなく、結局箱を閉じられてしまったあの瞬間に急に戻ったのだということ。そして今、過去を振り返って一人ずっと旅をしているというところまで。
 その間二人は黙って話を聞いてくれた。一見おかしなサイザーの話に真面目な顔をして耳を傾け、黙々とサイザーの分まで夕食をよそってくれた。冷気に当てられて凍えたサイザーの指先をやや塗りの剥げた椀がじわりじわりと暖める。身にも心にも、暖かな食事をしたのなんてしばらく振りだ。
 一人語るサイザーの吐く息が、白く変わった。



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