<サックス編>



 ***


 帰って来たら、自分のベッドで既にクラーリィが寝ていた。

 何かと思った、とサックスは呟く。部屋の鍵が開いていて、しかも寝室から微かに灯りが漏れているものだから、てっきり怪しい人にでも入り込まれたのかと思ったじゃないか。
 ただし、そういうことをする人間は幼馴染み、主にクラーリィと相場が決まっている。だが敵国のスパイだとかそういう可能性も考えられなくもない。一見何もなさそうな布団の中に機密書類やら何やらを隠すというのは、得てして「普通」の発想だからだ。
 サックスも昔財布の隠し所をそこにしていて、いつの間にやら忍び込んだコルに見つけられて結構大変な目に遭った。原因は財布の中にこっそり忍ばせていたクラーリィの写真。その後はいろいろと勘ぐってくる彼女を言いくるめるのに大層苦労した。流石クラーリィの妹と言うべきか、コルは的確にサックスの弱いところを押してくる。この記憶が確かならば、結局あの時は機会を見て新作のアイスを奢ってあげる、ということで落ち着いたのだった。実際はなぜかクラーリィも一緒で、おまけにおかわり付きだったが。
 もっともサックスはその過程において、なかなか見られない部類の想い人の笑顔を存分に、それはもう飽きるほど眺めることができたから、コルが忍び込んだ理由については不問に付した。大方趣味の暗黒魔法の書でも探していたのだろう。サックスの趣味ではないから部屋にははじめから置いていないが。

 ……と、いう話は置いておいて。サックスはそろそろとクラーリィの顔を覗き込む。寝たふりではなさそうだ。規則正しい呼吸、力の入っていない瞑られた目。
 なぜか分からないが、クラーリィはサックスのベッドで安眠しているらしい。
「泥酔してて、自分の部屋と間違えたとか? ……いや、ない、それはないな」
 クラーリィに限って、自分を失うほど呑むなどほとんど考えられない。彼はきちんと自分の限界を知っていて、何があろうが他人に迷惑のかからない程度にしか酒を呑まない。お陰で何度潰されたことか。
 おまけに、彼の呼気から酒の匂いはしない。
「……あのー。クラーリィくーん」
 ダメ元で呼び掛けてみたが、案の定クラーリィはぴくりともしなかった。サックスの恋人は眠っている。とても幸せそうに眠っている。そんな彼を起こすのは如何なものかと思われるほど、すやすやと安眠しておられる。
 その寝息のなんと健康なこと!
「俺が入ったらクラーリィが落ちちゃいそう。けど、ソファで寝るのはやだなあ……」
 もともと一人分のベッドの真ん中で、クラーリィは本来の主の存在を忘れたかのような寝方をしている。十中八九起こしてしまうというのを理由に、サックスの頭の中からは早々に「クラーリィをずらす」だとか「上にのし掛かる」だとかいう選択肢は消え失せていた。クラーリィの貴重な安眠を妨害する気はもちろんないし、今日に限ってこれ幸いと手を出す気力も残っていない。
「まさかここまで見込んで今日一日俺をこき使っ……いや、クラーリィ結構体育会系だからなあ」
 可能性としては限りなく薄いだろう。サックスが言うのもアレだが、クラーリィは大神官のくせに、たまに脳ではなく筋肉でものを考えているところがあると思う。

 サックスは結論を出した。このベッドは諦める。幸い、主を見失ったベッドが近くに一つ空いているはずだ。今夜はそこにお邪魔することにする。
「おやすみ、……ってもうおやすみ中か」
 そろりと手を伸ばし、微かに頬に触れる。クラーリィは余程熟睡しているのか、やはり目覚めない。全く、人の枕を大事そうに抱え込んでいいご身分だ。できたらその枕と己の役割を交代したいところだけれど、生憎それは叶いそうにない。
 ほんの少しだけ前髪をずらした。薄い瞼の下、いつも強い光でもってサックスを射貫く緑の瞳が居座っているはず。
 急激に込み上げるこの暖かさを、人は何と言うだろう。愛情とか、慕情とか、愛おしさとか、そういう名前のそれ。疲れて帰って来たサックスの顔に自然と笑顔を浮かばせるだけの力を持つ、形はなくとも終わりもない奔流。
 最早物音を立てたくらいで起きるとは思えなかったが、サックスはそろそろとその場をあとにした。その足で無人であろうクラーリィの部屋へと向かう。元はといえば人のベッドを占領しているクラーリィが悪いのだから、文句を言われても反論する権利くらいはあるだろう。

 クラーリィの部屋の鍵は閉まっていたが、中は思った通り無人だった。勿論ベッドは空いていて、サックスは「お借りします」と一言、疲れたその身を投げ打つ。
 ああ、ほんのりクラーリィの匂いがする。物凄く落ち着く。
 サックスは目を瞑った。この広い部屋に一人であることは充分に分かっているつもりだったが、すぐ隣に恋人が寝息を立てているようで、いつもより早く意識の底に沈むことができた、ような気がする。
 目を瞑ってから先、寝返り一つ打った記憶もない。


 ***


 翌朝目覚めたサックスは、真っ先に己の部屋に戻った。ドアを開ける。ベッドに直進する。
 クラーリィが半身を起こして目を擦っていた。
「おはよーございまーす」
「……ああ、サックス、おはよう……」
 サックスがやって来たことに関し何も思うところがないのか、クラーリィはぼんやりと目を擦っているだけだった。サックスを気にしている様子なんてちっともない、憎たらしいほどにいつもの朝と変わりない。帰ってきた部屋の主に一言二言言うことはないのだろうか。
「どうだった、俺のベッドの寝心地」
 仕方がないのでサックス自ら探りを入れることにした。ないとは思うが、クラーリィがここを己の部屋と思っているのではないかという疑念を払拭するために。
 クラーリィは頷く。サックスの台詞に何ら引っ掛かるところはなかったらしい。
「安眠できた。……そういやおまえ、昨日どこで寝たんだ」
「……クラーリィくんのお部屋……」
「あっこらてめえ、人のベッドで勝手に寝るな」
「おまえにその言葉そのまんまそーっくりお返しするよこのバカ」
 思わず瞬時に罵倒が飛び出たが、今回に限ってはサックスは然程悪くないはずだ。クラーリィはむっとしたようだが、そこまで気を配る優しさは今のサックスにはない。
「だって仕方ないでしょ、帰って来たらおまえがここで寝てんのよ、俺の部屋に一個しかない俺のベッドで」
「だからってなんで俺の部屋に行くんだよ、おまえはおまえの部屋で寝ろよ」
「おまえが居ちゃー寝られないでしょ。俺のお布団定員一名! それともソファで寝ろっての? 勘弁してよ風邪引いちまうよ」
 むっとするどころかとうとうクラーリィはふて腐れ、返事の代わりに頬が膨らんだ。

 なに、とサックスが問い詰める。朝から悲しくなるほどに理不尽だ。
「酔ってたの?」
 クラーリィは首を振る。
「じゃあなに、嫌がらせ? それとも起こして欲しかったの、俺に?」
 クラーリィは一度首を横に振ったあと、今度は頷いた。どうやら後者が昨日のクラーリィの望みだったようだ。
「なんで?」
「……おまえのこと待ってた。けど、遅くなりそうだったし、どうせならぬくぬくしてたいと思ってベッドに居た」
「それ完璧寝るよね。ていうか、寝たよね」
 まあな、とクラーリィは頷いた。悪いとは思っていないらしい。
「なんだよおまえ、俺に気を遣いすぎ。おまえのベッド占領して寝てるんだから起こせよな」
「そっ……」
 サックスは口を噤む。
 続く言葉が出てくる気配はなかった。確かにクラーリィの言う通り、文句を言うくらいなら昨日起こせばよかったのだ。たったそれだけの話。
「だ、だって、なんか気持ちよさそうに寝てるし、起こしちゃ悪いかなって思っ……」
「寂しかった、俺」
 サックスの言い訳は、クラーリィのたった一言にかき消された。この程度で心臓が跳ねる自分は本当にバカだ。
「そりゃいきなりのし掛かって首を絞めてきたとかなら俺も怒るけどさ? おまえもう少し俺のこと信用したらどうなんだ。恋人になったんだろ、なって随分経つだろ。いつになったらおまえは俺に気遣うのを止めるんだ」
 おまえの中の俺はいつまで他人なんだ、とクラーリィは言った。

 返す言葉がなかった。サックスは黙って首を振った。
「他人」の一言がやけに胸に突き刺さってひたすらに痛い。恋をしていることだけは確かだというのに、この絶望的な距離感は一体何なのだろう。
 クラーリィの主張をすべて肯定する気は流石のサックスにもない。昨日クラーリィを起こさなかったのは、疲れているだろうからこのまま寝かせておいてあげようというサックスの優しさによるものが大きい。けれど、それで全てが片付くほど物事は単純じゃない。
 クラーリィはそんなことしないと言い切ったが、サックスの中のクラーリィ像は起こされたら理不尽に怒りはじめるし、最悪用件を聞き出すまえに喧嘩がはじまる。そこにひととは違う特別な対応はないし、ましてや恋人だからという甘えもない。
 そして最悪なことに、いくら考えても違うリアクションを取るクラーリィが想像つかない。

 いつからだろう、オフの時にまで仕事の癖が抜けなくなって、気を遣うのが当然のような関係になって、私的な会話にまで敬語が侵食するようになって。サックスの中で、一体いつから比重が狂ってしまったのだろう。
 はじめは真っ直ぐだったはずの想いの矢が、いつの間にやら迷走してうまく届かなくなっている。弾き出す力だけはむしろ、はじめの頃より強くなっているはずなのに。

 クラーリィは布団を引っ張って、半ば見えていた腹を隠した。気が変わったのか知らないが、彼はいますぐ起きる気力を失ってしまったらしい。
 他人のベッドで、もしくは恋人のベッドで、もう少し微睡むつもりなのだろうか。
「おまえのベッド、寝心地良かった」
「そう」
「……おまえの匂いがした」
 サックスはもう一度「そう」と返事しようとしたが、敢えなく失敗に終わった。絞りだした声が不自然に擦れて、慌てて咳き込む羽目になる。やけに喉が渇いたような変な感じだ。朝っぱらから何かおかしい。
 妙な咳をするサックスを、クラーリィは首を傾げて見やる。邪気のないその瞳にほんの少し、ほんの少しだけ混じる心配が、サックスの急所を的確に突き刺してくるのだからいっそ泣けてくる。
 クラーリィのベッドに潜り込んだサックスと同じように、クラーリィもまた安心して眠りに落ちていったのだとしたら。幸せそうに目を瞑って、価値のあるため息をついたのなら。
 それはきっと、何よりも幸福なことだ。

 清純の神様に心の中で謝って、サックスは手を伸ばした。クラーリィの頬に触れて、彼が一切嫌がる素振りを見せないのをいいことにそのまま引き寄せる。
 クラーリィは素直にサックスの腕の中に収まった。しばらくして、背中の方にクラーリィの腕の回った感覚。その部分が焼けるようにじんと熱くなる。
「なんで俺のこと待ってたの? 用事あった?」
「何もなかった」
「でも、待ってたんだ」
 首筋に顔を埋める。クラーリィは動じない。
「ああ、顔が見たかった。あと、」
「あと?」
「こうして欲しかった」
 自分の顔が赤くなったのがよく分かった。たぶん耳まで真っ赤になっていることだろう。思わず力が入ってしまったからか、クラーリィが肩を揺らして「照れるなよ」と呟いた。彼はそのままぽんぽんと背を叩く。分かり易く照れているサックスをあやしているつもりなのかもしれない。

 勝てないな、と思った。勝つ必要なんてないし、勝とうと思ったこともたぶんないけれど、サックスはクラーリィにこの分野においても勝てそうにない。幸いにして湧いてくるのは、痛いことは確かだけれども苦しいとは少し違う感情だけ。
 腕のなかのクラーリィは、一向に逃げようとしない。
「サックス」
「はい?」
「……おはよう」
 サックスは、クラーリィを解放した。今日一日を乗り切るだけのエネルギーはたぶんもう貰った。痛い目にも多少遭ったけれど、差し引きプラスのはず。
 おはよう、とサックスは返す。片足をベッドから下ろし始めていたクラーリィは、聞き飽きたよ、とでも言いたげに笑った。


 ***END



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