運命の人



***


 ホルンには昔、恋い焦がれた人がいた。
 昔、それは比喩でなく昔だ。まだ十代の初めの頃、王宮近くで見かけた青年に恋をした。もし彼が存命なら、もうおじいさんかさもなくば死んでいるだろうと思う。

 ホルンが彼を見かけたのは一度きりで、その後その姿を見かけることは一度たりともなかった。たった一度の邂逅の後、何度も何度も「もう一度会いたい」と思っていろんな人に彼の消息を尋ねた。だが皆一様にこう答えた。「そんな人は知らない、ここにはいない」
 未だに彼が忘れられない。この年になり、結婚もして、二児の母となった今も、時折彼の姿を思い出す。もう詳細な表情を思い出すことはできないが、それでもあの優しい雰囲気だけは強烈に覚えている。



 女王修行に耐えかねたホルンはいつものように逃げ出した。やんちゃな娘と評判だった彼女は、先回りされていることを考えて、いつもいつも逃げる場所を変えていた。今日は北へ、明日は南へ、別の日には王宮裏の森の中へ。
 知らない道を選んで進んだものだから、よく迷った。それでも彼女は、女王修行の中で覚えた星読みを駆使したり太陽の動きを追って、日が陰る頃にはいつも元気な姿を見せていた。だからあまりとやかく言われたことはない。

 今日もホルンは逃げ出して、あまり立ち入らない森の方へを駆けだした。森の中は視界が遮られ追手を撒くにはちょうどいいが、同時に自分が帰ってこられなくなるという危険を孕む。だが今日は仕方ない、市街へ出る道にはたまたま警備の兵が立っていたのだから。
 少しばかり走って追手の兵が居なくなったことを確認すると、ホルンはふうとため息をついた。木にもたれ掛かり深呼吸を繰り返す。

 前に来たときから少し時期が開いていて、森の様子は一変していた。地面の色から、生えている草木から、何もかもが変化している。毎日無機物に囲まれているホルンにとってそれはなにより楽しい発見だった。時間が過ぎるのも忘れてひたすら地面や草木を眺めて過ごす。大きめの石ころをひっくり返して潜んでいた虫たちをいじめたし、枯れそうになっている花を日の当たる場所へ植え替えたりもした。
 気がつけば空は陰り始めていて、ああ、帰らなきゃ、とホルンは重い腰を持ち上げる。服に付いた泥やら何やらを払って、さあ、と顔を上げたとき、少し前方に見たことのない人間がいるのを見つけた。
「……だれだろう…?」

 ホルンは躊躇せずに彼に近寄って声を掛けた。もう少し彼女が世間慣れしていれば「変質者かも」という可能性から声を掛けなかったかも知れない。しかしホルンは王宮という人間の悪意からほど遠い場所で生活していたため、そのような知識がなかった。
「どうしてこんなところにいるの?」
 話しかけられた男は派手に驚いて、それからまじまじとホルンのことを見つめた。長い金髪が夕暮れる陽光を受けてきらりと煌めいた。
「君…どうしてこんな所にいるの?」
 全く同じ質問を返された。ホルンは少し頬を膨らませて、貴方が答えるのが先よ、と返す。男は少しきょとんとして、それから表情を崩した。彼は言う。
「また魔法の実験に失敗しちゃってね…変なところに飛ばされたよ。ここはどこかな?」
 参ったなあ、と男は笑った。その様子にまたホルンも表情を崩して、彼の台詞に突っ込みを入れる。
「ここは王宮の裏にある森よ。それより…『また』?」
 上目遣いに彼を見上げると、あ、しまった口が滑った、とでも言いたそうな顔をして彼が苦笑う。
「…うん」
「ふうん、へたくそなんだ、魔法」
 くすくすとホルンが笑う。はは、と男が少し情けなそうな顔をして弁護する。
「失礼な。こう見えても俺はこの国を守る重要な役についているんだぞ。君を守っているのだって、俺なんだから」
「へえ!」
 案外自分と身近なことをしているのだとホルンは声を上げる。凄い、とか格好いい、とかいうホメ言葉が自然と突いて出る。普段「国を守るべき者」として修行を強制され、尚かつそれがちっとも自分と身近に思えなかったホルンにとって、中々に貴重な人物の登場だった。

「ところで、君の方こそどうしてこんな所にいるの?」
 男が聞き返す。ホルンは少し考えてから、男に正直に話すことを選択した。
「…逃げてきたの」
「ん?」
 逃げてきた?と男が繰り返す。
「修行修行とか言って、つまらないことばかり。イヤになっちゃう。だから逃げてきたの」
 ホルンはそっぽを向いた。こんなことを言えば「オトナ」は大抵叱るものだ。だから多分この男もそういう返事をしてくると思う。それでもほんの少しだけ。この男だけは別の返事をして欲しい、とも思う。
 ふうん、と男は呟いた。そして少し考える素振りを見せて、そっと口を開いた。
「辛い?」
 うんとホルンが頷く。
「うん、修行って辛いよね。俺も昔辛かった。でもさ、それはきっと君のためになるよ」
「…私のため?誰かの、ためじゃなくて?」
「誰かのためにもなるだろうけどね。まずは自分のため、と考えて頑張ると良いんじゃないかな。ずっとずっと、他人のことばかり考えていては辛いよ。自分のことも大事にしなくちゃ」
 ホルンはじっとその言葉を聞いていた。慈悲ある王女、ひいては女王となる為の修行が自分のため。…考えもしなかった。

 男は少し当りを見回して、ホルンの方に向き直った。笑みを浮かべ、彼女にそっと囁く。
「飛ばされたのが近くで良かった。お嬢さん、君ももうおうちへ帰りなさい。もうすぐ夜だよ」
 はあい、とホルンが元気よく頷く。その様子に満足そうに頷いて男は少し体を回転させた。そしてすぐに思い直したように振り返り、ホルンの顔をじっと見つめる。
「ねえ、君」
「なあに?」
 無邪気に見上げるホルンに笑みを零し、男は言葉を続ける。
「君さ、きっと大きくなったら綺麗になると思うよ。期待株だな」
「!!」
 青年はそう囁くと、ホルンの頭を優しく撫でて、すぐに踵を返して森の向こうへ行ってしまった。陰り始めたその森に彼の影が同化するのは早く、影の消えた森の奥をホルンはじっと眺めていた。


***


「あれは、誰だったのかしら…」
 覚えていることといえば、彼の髪が長い金髪だったことと、割合気さくな話し方をしたこと、そして雰囲気、それくらいだ。話したのもほんの数分で、名前すら知らない。彼自身の個人情報など無いに等しい。強いて言えば、魔法の実験をする国防に携わる人間だということ…

 ホルンはちらりと奥で仕事をするクラーリィの姿を見やった。最近、彼は「彼」に似てきたように思う。
「(思い出が風化してしまっただけかしら?理想の彼にクラーリィを重ねているだけかしら?)」
 勿論彼がクラーリィの訳はない。ホルンの少女時代、クラーリィの父親すら産まれていないのだから。
「貴方だったの?」
 その呟きは存外大きく、クラーリィがきょとんとして振り返る。え?という間の抜けた声と共に。
「ああ、ごめんなさい、何でもないの…」
「は、はあ。…ホルン様?」
 どうかなさいましたか、とクラーリィが首を傾げる。その視線が大げさにホルンを心配しているのだということを物語る。
「いいのよ、ごめんなさい、独り言なの」
 はあ、ともう一度首を傾げると渋々クラーリィが仕事に戻った。納得していなさそうだが、話しても理解してくれるとは思えない。

 正直、ホルンにとって「彼がどこの誰だったのか」はもうどうでも良いことだ。知ったところでどうにかできることではない。ましてや、彼がその後結婚し子供を儲けていた…などという情報はあまり知りたくない。
 ホルンにとって重要なのは、今の自分が彼に誇れる自分であるということ。あの時の彼に、修行から逃げてきたと舌を出した自分を優しく諭してくれた彼に、自分頑張っていると胸を張れること。
「(本当は『ありがとう』の一つや二つ言いたいのだけど…)」
 恐らくその願いは一生叶うことはないだろう。自分はこの淡い初恋を墓の下まで持って行くことだろう。
「(さあ、頑張りますか)」
 最期の一分一秒まで誇れる自分であるように。ホルンは前を向く。
「クラーリィ、この間の件、どうなっているかしら?」
「あ、はい、それはですね――」

 クラーリィが提示した書類をホルンは目で追った。長い髪が優雅に揺れ、彼女の凛とした姿を際だたせる。
 すぐにホルンは新しい指示を提示することになる。彼女が誇れる自分であるために、この国を守るという職務を全うするために、「彼」に似てきたクラーリィと二人でこの国を守っていくために。


***


 クラーリィは独り森の中に立ち、走馬燈のように自分のこれまでの失敗について思い返していた。
「ふっ…何度目だ…今日の失敗は」
 失敗の原因には多分に焦りが含まれる。若干十五で世界にその名を轟かせた前任リュート王子のようになろう、強くなろうと誓って早十五年となろうとしている。クラーリィにとってその座は未だに未踏の地で、彼がいかに凄かったのか思い知らされる羽目になる。だからこそいろいろな古代魔法の発掘に身を乗り出すわけだが、まあ大抵は失敗する。こうやってどこだか分からない場所に飛ばされることも多々ある。そしてクラーリィの呪わしき弱点・方向音痴によって、何度か野宿する羽目になったことすらある。
「ここはどこだろうなあ」
 茂る森には特に特徴的なものもなく、クラーリィは諦め半分脳内の地図から世界中の森をピックアップし始めた。頭上を見上げても陰る太陽の陽光が目に染みるばかりで、肝心の太陽は姿を見せない。

 はああ、と大きくため息をつく。取りあえず方向を決めて、一直線に歩くことにしよう。そうすればいずれ森の終わりにたどり着けるだろうし、適当にワープして谷底にでも落ちたら目も当てられない。
 歩き始めてしばし、唐突に声が横から湧いた。
「どうしてこんなところにいるの?」
 心臓が止まりそうになるほど驚いた後、声の主を目視してクラーリィは二度驚くことになった。
 森とはあまり似つかわしくない、綺麗な装飾の入ったドレスを纏った少女。長い髪は丁寧に梳かされていて、下町で遊んでいるような子供とは身分が違うことを匂わせる。
 そんな少女がどうして森なぞにいるのかと、クラーリィは思わず聞き返してしまった。

 少女曰く、ここは王宮のすぐ裏手の森のなかであるらしい。とすると、この少女は貴族の娘とか、そんなところだろう。独り納得したクラーリィは、しばし少女との雑談に興じることにする。
 国を守る仕事をしている、というと少女の顔色が変わった。今まで「魔法がへたくそなのね」と馬鹿にしていたくせに、途端に「凄い、凄い」と囃し立てられる。あまりの少女の囃し立てっぷりに、クラーリィはその場で蹲りたくなるほどのむず痒さを味わった。小さな子供に憧れられるというのは仕事人の理想でもあるが、同時にとても気恥ずかしいものだ。ましてやこんな可愛い少女にヒーロー扱いをされるとは。

 もう帰りなさいと言葉を掛け、少女から離れようとしたときにふと感じたことがある。
「(ホルン様に…似ている…)」
 貴族筋というより、遠縁の王家の血筋を引く者なのかもしれない。ティンやマリーは王家の血筋を引くくせにあまり似ていないからそう思ったことがないが、この娘は何となくホルンの面影を負っている。
「(だとしたら…)」
 将来はきっと笑顔の似合う可愛い女性に成長することだろう。皆から愛される幸せな人生を歩めばいいと心から願う。
 その旨を少女に伝えると彼女ははにかんで笑った。笑顔はやっぱり、ホルンに似ていた。



 クラーリィは踵を返した。少し歩いたところで視界に靄が掛かり、それに違和感を感じて立ち止まったときには靄はなくなっていた。それどころか森すらも消え、視界が開けていた。いつの間にやらクラーリィは森の外に出てしまっていたのだ。
「…ん?…あ、」
 視界の先にホルン女王その人を見つけクラーリィは掛け寄る。クラーリィに気がついたホルンが手を振った。途端に押し寄せる慕情、二人の間に浮かぶ笑顔。互いに手を取り、二人は静かに王宮に戻っていく。


***END



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