血縁・5



***


「おはよう!」
「…おはよう」
 クラーリィは突如降りかかった元気な声に驚いて振り返る。先日までの挙動不審はどうしたのか、元気そのもののフルートがそこにいた。
「クラーリィ」
「ん」
 フルートが投げかけてくる笑顔が心に痛い。未だぐちゃぐちゃのクラーリィの心の海に更に石を投げかけられたかのようで、今度はクラーリィが狼狽する番だった。平常心、平常心、と彼は自分に言い聞かせる。
「何だ」
「その、この間はごめんね。なんだか落ち着かなくて、変な態度取っちゃった。別に、クラーリィが悪かったとかそういうことはないの。心配してくれたのに、ごめんね」
 フルートは精一杯笑った。いつもなら心から安心できるその笑顔が、今はクラーリィにとって何よりの毒だった。
 ああ、とクラーリィは抑揚のない返事をする。普段なら笑い返して「そっか、良かった」なんて言うのに、その笑顔がどうしても出てこない。
「大丈夫だ。気にしてない」
「…クラーリィ、怒ってない?」
 クラーリィの変化に勘づいたフルートが顔を覗き込んでくる。自然とクラーリィは視線を逸らす姿勢になった。
「いや、ごめん、その…寝不足なんだ」
 ごめんな、とクラーリィはもう一度謝った。疲れてるんだね、風邪引かないようにね、とフルートは言う。うんと頷いて立ち去るクラーリィの背を、じっとフルートが見つめていた。



 フルートは廊下に一人取り残される。
 いつまでも思い悩んだり、自ら生産性のないことをして関係を崩すことは自分の柄ではない。少なくともフルートはそう思っている。一度しかない人生なのだ。悩んだり、苦しんだりしても、精一杯楽しんで生きなくては面白くない。
 だから、いつまでも解決しない現実にくよくよするのは止めた。悩んだところで解決の糸口が見つかるとは思えない。解決するには、生まれる前からやり直さなくては。そんなことできやしない、ということはつまり、解決なんてできないということだ。

 クラーリィ、やっぱり怒っているんだろうか、と彼女はため息をついた。
 彼は前線から帰ってきたばかりで疲れているのにフルートの心配してくれた。なのに素っ気ない態度を取った。その後も戻ってきてまた心配してくれたのに、沢山悩み事を話す機会をくれたのに、フルートは一切それに応えなかった。秘密と貫き通して、片意地を張った。きっとクラーリィはがっかりしたに違いない。俺はまだフルートの悩みを共有できる相手ではないらしい、と。
 しかし常に前向きなフルートは信じている。きっと今度も、クラーリィは自分を許してくれるはずだ。小さい頃から一緒に育ったから、大小数え切れないくらい喧嘩をして、そして同じ数だけ仲直りをした。きっと今度も、クラーリィはその内許してくれるに違いない。そしてまた少しだけ距離を縮める。結果として少しだけ二人の距離を詰める、前向きな仲違いになればいい、とフルートは思っている。
 クラーリィがあの事実を知らない限り、フルートがあの事実を胸に秘めている限り、きっと叶うだろう。

 フルートは廊下の窓へ視線をやった。朝日が弱く差し込み、廊下に小さな日だまりを作っている。身を乗り出して行儀悪く空を眺めて、それからフルートは踵を返してその場を立ち去った。
 父さんには申し訳ないけれど、あの日記は今夜にでも処分してしまおう。きっとあれさえなければ、この事実が洩れることはないだろう。フルートが黙って墓まで持って行けば、それで済んでしまうはず。クラーリィとの間に、これ以上の影を落とすことはないはず。
 だから、今夜にでもあの日記を処分してしまおう。フルートはそう心に決めた。



 嘘だと言ってしまいたい、とクラーリィは本日何度目か分からぬため息をついた。まだ今日が始まって何時間も経っていないというのに、既に数え切れないくらいのため息がクラーリィから出ている。自分がため息の塊で、ちょっとでも突っつこうものならすぐに溢れるような感じ、と考えてクラーリィは笑った。
 窓に映った自分は力のない笑顔をしている。苦笑いか自嘲がいいところという顔だ。人の上に立つ人間がこれというのはあまり望ましくない。

 フルートは無事復活したらしい。彼女らしく、前向きに前向きに考えて立ち直ったのだろう。昔から彼女はそうだった。いつでも前向きな考えは時に喧嘩の種となることもあったけれど、大体において彼女を、そしてクラーリィ含むその周囲をも救ってくれる。
 ありがとう、とクラーリィは心の中で唱えた。それから、そんなおまえが大好きだよとも。
 もう一生その言葉を伝えることはできないのだけれど。

 彼女に笑顔が戻って良かった。彼女ならきっと、クラーリィが離れてもその内立ち直ってくれるだろう。クラーリィが居なくなったら、その内別の道を見つけるに違いない。ずるずると引き摺ったりせずに、幸せな光り輝く道を歩んでくれることだろう。
 …それを、果たして自分は笑顔で見守れるのか。いつまでもいつまでも、進展しないトモダチのままで居られるのだろうか…



 いつの間にか立ち止まってしまっていたらしい。クラーリィは深呼吸をしてからもう一度歩き出す。歩みは重かったが、何とか気を奮い立たせていつも通りの、何の変哲もない顔を作る。
 部下たちから伝えられた多々な情報を頭の片隅に、クラーリィは一人考える。この間リュート王子がもってきてくれた「父」の日記帳は該当部分のある一冊だけ。ぱらぱらと捲って確かに該当箇所を確認したけれど、やっぱり信じたくないという思いが強い。
 確かリュート王子は日記帳を元の位置に戻したはずだ。彼は隠し戸棚の出し方もぽろっと口にしていた。クラーリィがもう一度確認しようと思えば、できないこともない。

 クラーリィは一人廊下を進みながら、今夜にでももう一度あの日記を、今度は頭から終わりまで読んでみようと密かに決心する。
 僅かでもいい、その記述が間違っている可能性を探しに。自分ではないと考えられる記述を探しに。



Top Pre Nxt