おはよう



***


 不安げな顔をして見上げてくるクラーリィにホルンは思わず笑みを零した。こんな状況下で笑うと彼の不安を煽ることくらい分かっていたのだが、何にせよようやく心を開いてくれたことが嬉しくて、クラーリィが何の動作をするにもいちいち笑みが浮かんでしまう。
 案の定クラーリィはその顔を更に不安げに歪ませて、ホルン様、とたどたどしく問いかける。
「あの、…ボク、」
「大丈夫よ。さあ、もっとこっちへいらっしゃい」
 おどおどしている、という表現が似合う少年は恐る恐るホルンの側へと近寄った。

 それはちょうど狩人が獲物を、ウサギのような小動物を手に入れた時の感覚に似ていた。
 腕の中でもがく生き物の生殺与奪の全ての権限を持っているという優越。殺すも可愛がるも自由という、非常に烏滸がましい一方的な支配。
 たとえその首を絞めるために呼び止めようが、彼は素直にこちらへやって来て、その首を絞めるその瞬間まで己を信じて疑わないであろう、という一種の安心。

 近寄ってきたクラーリィを、ホルンはその腕の中に抱き留める。逃げられないように、すり抜けてしまわぬように、そして彼が人の温もりを存分に味わえるように。
 腕の中のクラーリィは、しばらく居心地悪そうに身動ぎしたものの、すぐに諦めて大人しくなった。規則的な呼吸音だけが聞こえてくる。
 ホルンはその細い首に手を伸ばす。するりと触れると、案の定びっくりしたらしいクラーリィから変な声が出た。また身動ぎを再開して、あのホルン様、なんて伺いを立てる。
「そ、その…」
 なあに、と優しい声。ホルンはまた手を回し、再び逃れられぬようクラーリィを抱きかかえる。クラーリィは最早諦めたのか、すぐに大人しくなって俯いた。
「あの、その、ま…“また”、するんですか」
「いや?」
 わざとらしく耳元で囁く。クラーリィが肩を竦める。
「えっ、ちが、その、そうじゃなくて、」
 クラーリィは顔を赤くしている。耳まで赤くなっているのがよく分かる。
「その、ボク、恥ずかしくて」
 ぐぐっと限界まで俯いてしまい、残念なことにホルンはクラーリィの表情を伺えない。辛うじて視界に入ってくるのは、ホルンの服をしっかと掴む手のほんの少しの震えだけ。
「すごくドキドキして、なんかボクがぜんぶ心臓になっちゃったみたいで」
 そう言ってまた顔を隠す。ぐぐっと身を縮め、よくもまあここまで小さくなれると感心する程に。

 金糸に隠れる耳を軽く食むと、分かり易い悲鳴。悲鳴と言ってはおかしいか。多分、出てくる動機は大差ないのだろうけど。
「耳まで真っ赤。可愛い子ねえ」
「あ、ありがとう、ございます?」
 褒められていると思ったのかクラーリィ。ホルンがくすくす笑うので、違ったかと肩を落とす。
「定期的にちょっかいを出さないとあなた、ちっちゃくちっちゃくなっちゃうのよね」
 だって、という言い訳代わりにクラーリィはホルンの首元に顔を埋めた。首筋に触れる柔らかな髪をぬい、ほんの少し石鹸の香り。健康的で結構だ。
「私は、クラーリィがいやだと言うなら、いつだって止めるわ。やってとも言わない」
 ね、とホルンは囁く。クラーリィが微かに頷いたのが分かった。
「でも、どうかこれだけは覚えておいて。私はあなたのことが、」
 ホルンは言葉を句切った。クラーリィが頭を上げ、至近距離で首を傾げる。ホルンはこつんと額を合わせ、それからクラーリィの目を見てこそっと囁いた。
「私があなたを、大好きだってこと」

 かあっと分かり易く赤くなるクラーリィを見てホルンはまた笑った。上機嫌のホルンはそのままクラーリィの上着のボタンに手を掛けたが、はっと気付いたクラーリィに阻止される。
「自分でできますっ」
「あら、そう? やってあげたかったのにな」
「えっ…あっ…」
 クラーリィはホルンの思い通り、困った顔をすると手を下ろした。どうぞ、と上目遣いの瞳が語る。
 ホルンはクラーリィの頭を優しく撫でると、「ありがとう」と耳元で囁き、目を瞑って首を竦めたクラーリィの上着を剥ぎにかかる。
 クラーリィは諦めたのか抵抗しなかった。それとも数度の経験がいい方に作用したのか、残念ながら今のホルンには分からない。
 露わになった白い肌に口づけを落とすと、微かな震えが伝わってきた。
 まるで羽化したての蝶のような。この場合、無理矢理羽化させたのは他ならぬホルンだけれども。



 自分を見上げてくる不安げな瞳がたまらなくて、自分以外に頼るものの居ない彼が必死に自分にしがみついてくるのが微笑ましくて。
 つい、手を出した。

 本当に出来心だったのだ。最初の内は。
 不安げな彼が自分の腕の中に飛び込んで、幸せそうな顔をすればそれで満足だった。…最初の内は。
 少し“仲良く”なれたら昔のように主従に戻って、いささか平凡な日々に戻る予定だった。…最初の内は。
 その腕を、飛び込んできた彼を抱き締めたその腕を解きたくなくなったのは、別段つい最近という訳でもない。もしかしたら、本当に初めから、それこそ一番最初の邂逅の時から、この表現しがたい何かの芽が出始めていたのかも。

 かわいそうだから、もう逃げることはできないのよ、とは言わないでおいてあげよう。籠の鍵はとうの昔に捨ててしまったのだから。


***


 ホルン様、とクラーリィが声を掛ける。
 ホルンは少し重たい瞼をこじ開けたが、目を差す日光に痛みを感じてすぐに閉じた。眩しかったですか、とクラーリィの慌てた声。ホルンはよいしょと身体を持ち上げる、角度を変えればそこまで眩しくは感じないだろう。
 ぱっちり目を開けてクラーリィを見た。例によって彼はほっと胸を撫で下ろしている。

 クラーリィ、と小さく呼びかける。
「はい」
「懐かしい夢を見たの」
「…どんな?」
 素直に首を傾げるクラーリィには、確かにあの頃の面影が残っていた。随分と懐かしい夢を見たようだ。今の輪郭に昔のそれを重ねて、ホルンは笑う。
「ホ、ホルン様?」
 笑われたクラーリィの方は深刻だ。己が何か、朝っぱらからミスをやらかしたのかと手を見て、足元を見て、一度立ち上がって、きょろきょろして、そしてもう一度ホルンの枕元に跪いて。
 理由が分からなかったのか、クラーリィは申し訳なさそうにあの、と呟く。
「あの、何か」
「懐かしいの。…ええ、とても懐かしい…」
 ホルンはそっと手を伸ばし、クラーリィの頬を挟んだ。挟まれたクラーリィは幾分肩を強ばらせてじっとしているが、その顔がすぐに赤くなる。
 寝起きの少し冷たい手のひらとクラーリィの頬は、温度差があった。



「そ、そうですか。それはまた…懐かしい夢を…」
 ホルンから夢の詳細を聞いてクラーリィは更に顔を赤くする。少しばつの悪そうな顔をして枕元から立ち上がり、朝のコーヒーを取りに行った。
「折角だから、もっとロマンティックな起こし方をしてくれても良かったのよ」
 湯気の立ち上るカップを受け取り、ふうふうしてからコーヒーを啜る。相変わらず完璧だ。子供の頃教え込んだ甲斐があった。
「いえ、それは…」
 クラーリィは苦笑して首を振る。
 あら、とホルンはカップから口を離した。予想した反応と少し違う。
「…止まらなく、なりますから」
 いつの間にか彼は仕事用の顔から、恋い焦がれる一青年のそれに変わっていた。ホルンの髪に口づけをし、いかにも後ろ髪引かれていますといった風に身体を離す。
「朝。今は朝ですホルン様。惚けている訳にいきません」
 左右に顔を振り、分かり易く理性を奮い立たせている。ホルンは朝じゃなければいいのかしら、という意地悪な質問をしたくなったがやめておいた。あんまり朝からクラーリィを弄ると、その日一日の仕事ぶりに支障が出てしまう。
「ホルン様、今日は忙しいですよ」
「あら、何か用があったかしら?」
 日々変わらない平凡な予定しか入っていなかったと思ったけれど、とホルンは呟いた。万が一大事な用を忘れると困るから、とホルンは確認を求める。
 クラーリィは少し気まずそうに笑った。
「夜、“お暇に”なりたいのでしたら、…忙しいです」
「まあお上手になったこと」
 ホルンは表情を崩す。ホルンの反応に安心したのか、クラーリィは肩の力を抜く。

 しばらく見つめ合って、それから触れるだけの軽いキス。そしてもう一度幸せな視線を絡め合って。
「「おはよう」」


***END



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