恋になるまえの



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 こういう考えは烏滸がましいと怒られる気がするが、クラーリィは己とホルンとの関係を少なくとも主従以上ではあると思っている。では実際どういう関係なのかというと、それに対する答えを持っていないのが現状だ。
 理想は恋人。しかし現実は違う。違うといっても、なにやら微妙な空気が流れることもあり、それに対するホルンの対応がまた絶妙で、クラーリィはその度発狂寸前になるほどやきもきしている。
 クラーリィは勝手に「友達以上恋人未満」というレッテルを貼っているが、果たしてそれが正しいかどうかは誰にも分からない。

 クラーリィは、ホルンとの絶妙な関係を保ったままで一生が終わるならそれでもいいかと思っていた。それはつまりずっと彼女のもとに傅けるということだし、身分違いということは重々承知だからあまり高望みするのはどうかと自分でも思っている。
 なのに、このささやかな幸福すら脅かす因子が現れた。
 憎きその男の名はハープ・シコード。

 どうも世界会議での気丈な一面と臣下に対する態度のギャップに惚れてしまったらしく、クラーリィの目の前で分かり易いアプローチ。ホルン女王が大変鈍いお方で、求愛されていると思っていない点だけがクラーリィの救い。どうせ期間限定の滞在なのだと甘く見ていたところ、見る間にエスカレートしてしまった。
 殺してやろうかと本気で思った。会食時に毒を盛ってやる、寝込みを襲って首を絞めてやる、行く先をありとあらゆる手を使って阻んでやる…!
 しかしそんなことが実行できる相手ではなく、クラーリィは涙を呑むしかなかった。更にクラーリィの涙を煽ったのは、シコードの言葉とホルン様の反応だ。
 クラーリィが思いつかないような美麗語句を並べ立ててホルン女王を褒め称えるシコードと、そしてそれを満更でもなさそうな顔で聞いているホルン女王。言い直そう、満更でもなさそうというより嬉しそうだ。
 女性は己の容姿を褒め称えられると思った以上に喜ぶと言うが、生憎クラーリィにそういった語彙は少なく、この呪わしい性格も相まってホルン女王に世辞を並べ立てることはできそうにない。
 ということは、ホルン女王のあのような素敵な笑顔を引き出すことも己にはできない。シコードにはできるのに。俄もののシコードにはできるというのに!


「ご機嫌斜めのようだ大神官?」
「貴様に俺の機嫌を心配される謂われはない師団長…」
 自分でもびっくりするほど重低音の声が出たが、最早怨敵と言うに相応しいシコードを前にして平静を保っていられる程クラーリィは大人ではなかった。
「それ以上近寄ってみろ、どうなっても知らんぞ」
「国際問題に発展させる気か? そういうのは宜しくないと思われるぞ」
 飄々と返すシコードが憎たらしくて仕方ない。世界に数人しかいないクラーリィが手を下せない人物、そんな輩がまさか恋敵になろうとは!
「国際問題? 貴様人の主に手を出そうとしておきながらよくもまあそんな口をきける。国際問題にしたいのはこっちの方だ」
「…まだ手を出したわけではないぞ。ただ彼女の美しさをそのまま伝えているだけ。まあ、あれほど内面外面ともに美しい女性もそういないと思うから、この先の可能性について否定するのは止めておく」
 ぎりり、とクラーリィが歯ぎしりをする。おお怖、とシコードが肩を揺らす。
 クラーリィにここまで睨まれても動じない男はそうそういない。
「必死だな?」
 そしてわざとクラーリィの怒りを誘う。
「う、うるさい…」
「先程は何とも思っていない顔をしたから、てっきりおまえも応援してくれるのかと思ったよ」
「ホルン様のまえで醜態を見せられるわけがなかろう、あのお方の心配事を一つでも増やすようなことは絶対にできん」
 ほう、とシコードが笑った。
「『醜態』だという認識はできているらしいな」
「こっ、殺してやるっ」
 シコードは一歩退いた。壁に寄りかかり、実に余裕の面構え。お互い手を出せないことが分かっているので実にやりにくい。
 クラーリィの拳がふるふると震えている。
「おまえなんか…ホルン様のなにも知らないくせに…あのお方がどんなに苦労されているのかちっとも知らないくせにっ…!」
「その苦労を労うも良し、苦労を忘れるほどよい思いをして貰うも良し。だろう、大神官殿」
 別に考えなしに美麗語句を並べ立てているわけではない、とシコードは語った。その自信たっぷりな様子に、とうとうクラーリィの心の方が先に折れる。
 不甲斐ない、あまりにも不甲斐ない自分。この先もきっと自分はホルン様のことをあくまでも臣下としてでしか支えていけないだろう。こうしてなんやかんやと恐れを抱いてこの先に進むことを躊躇している。
 語彙が少ないのが何だ、親子関係にあったのが何だというのだ、本当に心の底から思っているのならシコードのようにまえへ進めた筈では? まえに進めない自分は、ただ単に覚悟が足りないだけ。女王として気高く生きている彼女を汚してしまうことが恐ろしいだけ。
 リスクが恐ろしくて、そのリスクを背負う覚悟すらせずに、現状に甘えていただけ。

 返答することなく背を向けたクラーリィを、敢えてシコードは追わなかった。


 シコードが心の底から妬ましい。
 ホルン様のあんな嬉しそうな顔を拝むことができて幸せだった。でもできることなら己の力で引き出したい。己の行動がゆえに、彼女にあんな笑顔が浮かぶようにしたい。
 でもそれは、今のところクラーリィにはできない。どうしたらいいのかも分からない。いっそ自己啓発セミナーに通ってみたり語彙力を高めるために恋愛小説一気読みとかすればいいのだろうか。…そんなことをする時間はない。
 実行したところで、付け焼き刃の知恵がつくだけで効果がないことくらい分かっている。ホルン女王は、歯に衣着せぬ物言いで己の容姿やら性格やらを褒められて喜んでいるのだ。きっとクラーリィが実行したら、あまりの不自然さに逆に嫌な印象すら抱くかもしれない。
 はあ、とため息をつく。開けた缶ビールが3本目になった。やけ酒もいいところだ。明日の仕事がどうとかいう話はもう忘れた。忘れることにする。

 いっそ、身を退いてしまおうか。
 身を退き、シコードの邪魔をするのは諦めて、むしろ彼の恋路を応援した方がいいのだろうか? 己の微かな希望に最後の止めを刺して、彼の隣で幸せそうに笑うホルン女王を眺めるべきなのだろうか?
 今己がしている行為は、まさかホルン様の幸せを遠ざける愚行中の愚行なのではないだろうか? 原点に立ち戻り、ホルン女王の一番の幸せの実現という点を考えて、潔く身を退くべきではないのだろうか?
 でも、それだけは嫌だとすべての考えを吹き飛ばして首を振る自分もいる。
「ううっ、ホルン様あ〜…」
 クラーリィはとうとう机に突っ伏した。相手をしてくれているサックスの深いため息が聞こえた。サックスはむっつりと空缶を集めている。
「俺しーらね。明日二日酔でも知らん振りしよ」
「ホルン様あ〜」
 うるさいな、というサックスの冷たい突っ込みが入る。
「十五年以上そばにいながらなにをぐだぐだ言ってるの? シコードサンが俄もんだと思うんならそれでいーじゃん。俺にはシコードサンにはないこれこれがあるぜ! っての一つも無いの?」
「俺は、俺のホルン様を想う気持ちは誰にも負けんぞ、負けてたまるかちくしょうシコードなんて死んじまえ」
 サックスが肩を揺らしている。一応大物が相手なので爆笑は避けているらしい。
 クラーリィから「死んじまえ」系統の言葉が出るのは大切な相手を守るためというのが大半だから、今回もまあ分からなくはない。だが相手が選りに選ってグローリアの師団長なのが笑いを誘う。
「それに俺は、ホルン様の欲しがっているものがだいたい全部分かる…!! あ、今寒がってて膝掛け欲しがってるとか、あ、ちょっと座りたがってる椅子が欲しそうとか」
 それって冗談抜きで凄いよ、とサックスは思った。一歩間違えるとストーカーになるような気がしたが、そこには触れずに「そういうのがちゃんとあるならそれでいいじゃん」と言う。
「同じ土俵で勝負しなくてもさあ、別に。ホルン様の受付窓口は一つじゃないでしょ」
「で、でももし俺のしてることがホ、ホルン様の幸せの妨げになったら…」
「てめえうぜえな。『俺はシコードよりホルン様を幸せにできる!』って叫べ。ハイ復唱!」
 クラーリィはぶんぶん頭を振った。
「わ、わからない、自信がなくなった」
「じゃあどうすりゃ自信つくの」
 面倒そうなサックスはクラーリィから4本目のビール缶を取り上げた。いい加減酒臭い。
「そ…それが分かったら苦労しない…」
「げっ」

 じわじわ涙目になっていくクラーリィを見て、サックスは心の底から逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。面倒とかそういう領域を凌駕する。この状態のクラーリィに泣き付かれるのだけは勘弁して欲しい。どうせ第三者のサックスに、現状に対し効果的な何かを提示することなどできやしないのだから。
 クラーリィはゆっくり俯いた。ふるふる肩が震えている。これはまずい展開!
「あーもう分かった、じゃあ諦めちまえ! とっとと諦めてシコードサンのこと応援しちまえ! そんなおまえを俺は応援してやる。おまえに見合った彼女を探せるように協力もしてやるよ。それでいいだろ?」
 ぱっ、とクラーリィが顔を上げた。涙は引っ込んでいる。
「え?」
「諦めちまえよ、どうせおまえなんてホルン様からすればただの部下だよ。ホルン様はできる部下と仕事ができればそれでいいの。お前以外の誰でもいいの」
「ただの部下…?」
 うん、とサックスは頷いた。このまま諦める方向で結論を出して酒を呑むのを止めてくれると嬉しいのだが。
「そ、それはない」
 あれ。
 クラーリィはぐっと握り拳を作って、引き気味のサックスに向かって勢い良くまくし立てる。
「そ、そんなことないホルン様は俺が居た方が嬉しいに決まってる、俺の代わりなんて居るわけない、だって俺みたいに気の利く男はそうはいない、そうだろサックス、寒いなと思って後ろを振り向いたら既に膝掛け持って立ってる俺がいるなんて最高だろ!?」
 それはちょっと怖いかな、とサックスは思ったが剣幕に負けて何も言えなかった。
「俺以外の誰にもできないんだよあれは! シコードみたいな俄ものには絶対できないんだよ!! だから、だから…!!」
 続く言葉が出てこなくなったのか、クラーリィは肩を上下させながら下唇を咬んでいる。若干泣きそうな顔をしていたが、先程の“泣きそう”とは種類が違うようで先程ほどサックスは危機感を覚えなかった。
「…だから、…俺はホルン様のことを諦めきれない…やっぱり好きだ。あの人のこと愛してる」
 馬鹿だな、とクラーリィは呟いた。最初から結論が出ていたのに。
「ごめんなサックス、付き合わせて」
「…まー結論が出たのはいいですけど…今度からは手のひらとかに書いといてね、『俺のホルン様への愛は揺るぎない』って。シコードサンがアクション取る度これやられると付き合いきれないんで」
 そうする、とクラーリィはようやく微笑んだ。サックスは嫌みったらしく、盛大にため息をついて返事のかわりにした。


「…というわけでホルン様、あまりシコードを近づけるのは好ましくありません」
 シコードの接近っぷりが不愉快であることに変わりはないので、クラーリィはホルン女王に直接苦言を呈することにした。勿論理由は「ホルン様にちょっかいを出していて不愉快だから」ではなく「いつ敵国となるか分からぬ国の人間だから」とか「あなたに近づいて機密情報を聞き出そうとしているかもしれない」とか、至極真っ当な意見を考えた。
 …つもりだ。
 しかし一通り聞いたホルンは口元に手を持ってきてそれはそれは楽しそうに笑った。
「あら、妬いちゃったの? クラーリィ」
 お見通しだったようだ。クラーリィはぶんぶん頭を振って否定したが、恐らく顔が真っ赤になったのでバレバレだったに違いない。
「やあね、大丈夫よ。若い子に煽てられて嬉しかっただけだもの。それにクラーリィは…」
 珍しく台詞を溜めるホルンを、クラーリィは首を傾げて見守る。言い当てられた恥ずかしさで心の中はいっぱいだったから、ホルンが何を言わんとしているのかちっとも分からなかった。
「クラーリィもパーカスも、あまりお世辞の類を言ってくれないしね。新鮮な体験って言うのかしら?」
「そっ、…」
 それは、と言い訳をしかけてクラーリィは何とかその言葉を飲み込んだ。世辞を言わぬ言い訳なんて醜態もいいところだ。踏み止まれて本当に良かった。
 クラーリィは「すみません」と頭を下げる。玉座に収まるホルンは、「何を言っているの」とからから笑った。
「あなたはそういう人でしょう? 謝ることなんてないの。
 いいことクラーリィ、思いを伝える方法なんて、言葉だけじゃなくごまんとあるわ。あなたが一生懸命私に尽くしてくれること、私はちゃんと知っていますよ」
「ホ、ホルン様…」
 クラーリィは込み上げる涙を堪えることに必死だった。己の生涯一人の主は、何と素晴らしいお方なのか!
 急いで彼女の足下に駆け寄って跪く。驚くホルンの手を取り、微かに忠誠のキス。
「私は、私は生涯誇れる最高の主を持ちました」
「まあまあ、クラーリィの口からお世辞が飛び出しましたよ」
「世辞などでは…!」
 必死で抗議するクラーリィをまえに、やあねとホルンは笑った。分かっていますよ、とクラーリィの頭を撫でる。
「照れちゃったのよ。面と向かって真顔で『最高の』なんて言われると恥ずかしいわ」
「あっ、そ…それは、すみません」
「また謝るのね。よしなさい、別に怒っていないんですから。ここはあなたの良いところなの、真面目な顔して恥ずかしい台詞を言ってしまうところも全部ね」
 クラーリィの胸にずしりずしりとホルンの言葉が届いた。
 例えこの想いが彼女に届くことが永遠になかろうと、己の永遠を彼女に捧げようとクラーリィは決意を新たにする。彼の胸にもう迷いはない。


 滞在期間の終わったシコードに、とうとう帰国の日がやってきた。クラーリィは祝杯をあげたい気分だったが、それは夜のお楽しみに取っておくとして、仕事中は至って真面目な顔をして応対に追われていた。
 去り際、シコードがクラーリィを呼び止める。
「世話になった」
「俺はおまえに苦しめられた」
 シコードが笑った。素直でいいなおまえは、と肩を揺らす。
「楽しかったよ」
「俺はちっとも」
 帰ってくれて嬉しいとまでは言わないが、クラーリィの言葉尻にははっきり現れてしまっている。「派手に嫌われたな」とシコードはため息をついた。
「噂に聞く英明クラーリィ大神官の百面相が見られて楽しかった」
「…俺ってそんな評価なのか?」
 英明かあ、とクラーリィが呟く。スフォルツェンドから一歩も出ないクラーリィに他国の己の評価を知ることは基本的にない、しかも良い評価なので悪い気はしない。
 加え、先日のホルン様の言葉によって、かなりクラーリィの溜飲は下がっていた。更にシコードは今日を最後に視界から消える、流石のクラーリィにも今のシコードにこれ以上追い打ちを掛ける理由はない。

「ホルン女王は素晴らしいお方だと思うのだがな、実に残念だった」
「な、何がだ」とクラーリィが慌てる。シコードは内心上手い具合にクラーリィの表情を操れている気がしているが、表情には出さなかった。
「既に心を決めた方が居られるらしい、残念だったな…まあ、私にはおまえと違って次があるが」
 恋とは素晴らしいものだ、なんてシコードが呟いたがクラーリィはそれどころではない。
 既に心に決めた方? ホルン様にそんなお方が居られるのか? 亡くなって久しい王配殿下以外のお方が?
「な、誰…」
「私よりおまえが良いなどと、どう捻ったらそんな考えが出てくるのだか? まあいい、失礼する」
 クラーリィは口をあんぐり開けたままシコードの背を見送った。残念ながら呼び止めて聞き直すことも、口を閉じることすらできなかった。
 顎が外れそうだ。なんだって、ホルン様が心を決めた方とは誰のことだって?
 ようやく口を閉じることに成功したクラーリィは、真っ先に神に「夢ではありませんように」と祈った。


 次の日クラーリィは、ホルン様にこっそりお伺いを立ててみることにした。昨日は目が覚めて覚めて、とてもではないが眠れなかった。このままではいつか目を開いたままばったり死んでしまうと思われる。死因は不眠という何とも情けないことに。
「ホルン様」
「はい?」
 自然体でお茶をすすっていたホルンは、申し訳なさそうに話しかけるクラーリィに「何かしら」と問いかけた。首を傾げる微かな仕草だとか、自然と浮かぶ柔らかい笑みに「いいのよ」の一言が込められていて、クラーリィはここでもまた素晴らしいお方だという認識を新たにする。
「ホルン様はあの、私のこと…その、どう思って…」
 最後まで言い切れなかった。恥ずかしさと不安から、言葉の最後の方は吸い込まれて消えてしまった。
 ホルンはこれ以上言葉が続かないと判断して、「あら」と呟く。
「もしかしてクラーリィ、シコードから何か言われたのかしら?」
 ギクッ、と分かり易くクラーリィが竦み上がった。
「好意を寄せている旨伝えられたのだけれど、あなたのそういう気持ちには答えられないと返したの。気持ちは嬉しかったのだけれど…なんでかしらね、彼の言葉を聞いて私、クラーリィといる方が楽しいわなんて失礼なことを思ってしまって。あの子には本当に悪いことをしました、彼が怒ってあなたに八つ当たりしても仕方がないわ」
 そうですか、とクラーリィは返した。それから、シコードに八つ当たりされた訳ではありませんから大丈夫です、と一応彼をフォローしておく。
 クラーリィの視界はぱああっと、それはもう花が咲いたかのように明るくなった。無論その中心には微笑みながら湯飲みを片手に玉座に座るホルンが治められている。世界が輝いているような気がした。自分の寿命が3年は延びた気がした。

 恋になるまえの、この純粋な気持ちはきっといつまでも汚れない永遠の愛に違いない。


 ***END



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