悪夢



 ***


 目が覚めたら、すすり泣きが聞こえた。ホルンが己に縋る形で、ひたすらに泣いていた。
 どうしたのです、とクラーリィは問う。
「夢を見たの」とホルンは答えた。

「夢を見たの。酷い夢よ、本当に酷い夢だったの。……ごめんなさいクラーリィ、起こしてしまったみたい」
 若干寝ぼけているクラーリィの頬をさすり、ホルンは泣き続けていた。その手がしっかとクラーリィを掴んでいる。
「……ホルン様、あまり泣くと……」
「お願い、悪いとは分かっているのだけれど、もう少しだけこうさせて」
 ホルンはクラーリィを抱きかかえた。彼女の大粒の涙がクラーリィの寝間着に吸い取られ、彼に「冷たい」という感覚でもってそれを伝える。
 ホルンに泣き止む気配はない。クラーリィは「朝から酷い顔になる」と忠言しようと思っていたが、ホルンの様子がただならぬことにようやく気付いて言うのをやめた。一体彼女はいつから泣いているのだろう。泣きはらして頬が赤く染まり、擦った指もまた赤くなっている。前髪も涙を吸ってかしなりと垂れ、袖口もまた濡れている。
「……どんな夢を、見られたのでしょう」
 クラーリィはそんなホルンの背をさするか随分と悩んで、結局手は出さなかった。触れると壊れてしまいそうな、そんな気がしたから。
 彼女は未だ肩を震わせて泣いている。その震えが、彼女の底知れぬ恐怖と共にクラーリィに伝わってくる。
「どんな。……そうね」
 クラーリィの首もとに顔を埋め、ホルンは少し言葉を探していた。ひきつく呼吸を整え、ホルンはぽつりぽつりと語り出す。
「詳しい話は忘れたわ。とにかくこの国が攻められて、陥落したの。多くの兵が殺されて、その頭たる私やあなたが捕虜になった。そしてあなたが、……あなたが私の目の前で殺された」
「俺はここに居ますよ、ホルン様。分かるでしょう、ちゃんと生きていますよ」
 正夢とかいうのも迷信ですよ、とクラーリィは続ける。起きたばかりのクラーリィは、その動かない思考を振り絞ってホルンを慰めようとする。しかし、ホルンは首を振った。
「あなたは私を餌に随分虐げられたようだった。酷い怪我だった、……そう、目を背けたくなるほどに、酷い怪我をしていたの。恐怖を通り越して、心が凍った。言葉を掛けるどころか、目の前に『転がっている』のがあなただと認識することすらできなかった」
 クラーリィは黙ってホルンの「懺悔」を聞いている。どちらにせよ夢だったのだ。現実の己はホルンの腕の中、怪我をしたわけでもなく確かに息をしている。生きている。
「でもあなたは口を開いたの、私の名を呼んだわ。それから謝って、大丈夫ですなんて強がってみせた。あなたが謝る理由なんてないし、誰が見たって大丈夫なわけなかった。それに、これから殺されようとしている人間の言う台詞じゃなかった」
 ホルンは涙を拭った。クラーリィに震える彼女の表情を伺うことはできない。
 クラーリィの腕を掴むホルンの手が、細やかに震えている。その力が彼女にしては随分強く、クラーリィの腕に食い込むほどに込められている。
「怪我の理由が分かるほどに、あなたは酷い殺され方をした。私の目の前で。……そして、あなたは、私が見ていると分かっていたから、悲鳴の一つもあげなかった。最後の一瞬まで歯を食いしばって、私は、私は何もできずに……」
 ホルン様、とクラーリィが口を挟む。もしホルンが夢の中でクラーリィを見殺しにした罪悪感に駆られているのならば、それはただの杞憂に過ぎぬと言ってやればいい。それに、たとえそのような状況に陥ることがあったとしても、ホルンが女王でクラーリィがその臣下である以上、そのような死についてホルンが気に病む必要など何もない。それはクラーリィにとって名誉ある死だ。彼女が望む形ではないことは知っているが、彼女の「せい」ではない。
「あなたは悪くありませんよ」とクラーリィは言った。
 ホルンがゆっくりと顔を上げた。涙をいっぱいに湛えて、クラーリィの顔を見る。じっと見つめるその瞳の中に微かに非難が混じっていることに気づき、クラーリィは狼狽えた。
 違う、とホルンは言う。悪いのはあなた、とホルンが続ける。
「違うのよクラーリィ、私が言いたいのは」
 ホルンの震える腕がゆっくりと伸ばされて、クラーリィの頬を捉える。優しくさするその手に涙の湿り。そのすぐ側で、ぽろぽろと溢れる大粒の涙がベッドに一つ一つ染みを作っていく。
「……どうしてあなたは一言『痛い』と言ってくれなかったの? どうしてあなたは、私を批難してくれなかったの? 最後の瞬間まで、私の方を見て、私の心配ばかりして、『ホルン女王は悪くない』ってそればかりを主張して。
 今だってあなたは、私の様子を見ながら私を慰めようと手を拱いている。あなたが私の夢の中であのような死に方をするのはある意味当然だと思っているのでしょう。その上で、己も私も間違っていない、気に病む必要なんてないとそう思っているのでしょう?
 臣下として存分に私を愛してくれて嬉しいわ。私はあなたのような素晴らしい部下に恵まれて本当に果報者の女王だと思います。でもあなたは、私の恋人でもあるのよ。そこに優劣などない、今の私にとって掛け替えのないたった一人の愛すべき人なのよ。もっと自分を大切にして。お願いだから、私の命とあなたの命に優劣を付けないで。女王のために死ぬ? 素晴らしい心がけだわ。でも私は、そんなもの望まない」
 ホルンはクラーリィを抱き締めた。この腕の中にある命は、己のものであり、彼のものでもある。けれど、彼はきっと己「だけ」のものであると認識している。
 今クラーリィはきちんと息をしている。五体満足で、ちゃんとホルンの声が聞こえている。こうしてくっついていれば、彼の確かな鼓動が規則正しく聞こえてくる。
 それでもなお、ホルンの悪夢は払拭されない。

 クラーリィは言い返したい何百もの言葉を飲み込んで、その代わりに震えるホルンの体を静かに抱き締めた。そして、起き抜けの擦れた声で、こう呟く。
「……そんなの、あなたも同じではないですか」


 ***END



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