箱の中



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 恐ろしくなるほどに「恋」をした。
 相手はホルン女王。クラーリィは、この世で唯一恋をしてはいけない人物に恋をした。
 いや、言い方を変えよう。恋をするのは人の自由だ。誰が誰を想おうと、それ自体が罪に問われることはない。クラーリィはただ単に、恋の成就のために行動を起こすことを許されない相手に恋をしてしまっただけだ。だからたとえこのままこの想いが変わらなかろうが、じっとこの想いを胸に秘めている分には問題はない。口にさえしなければ、誰に咎められることもなく、美しいままのこの想いを抱いていられる。 
 クラーリィはどうしても動けなかった。動くわけにはいかなかった。相手が女王だから。身分の違う己が彼女に恋をすることは、恋心を持つことは、即ち彼女の気高さを貶めることとなってしまうから。
 臣下が主を恋愛対象として見てはいけない。愛情を持つことが許されたとしてもそれは「主従愛」と呼ばれるものに対してであり、男女間の肉体的な愛を含めてはいけない。それは古くからあるとても知られた規律であり、未だ覆すことを許されない掟に相違ない。
「愛している」と言うなど以ての外だ。それは不敬罪に値する。ホルンという一人の女性として魅力を感じると同時に、歴代稀に見る慈愛と覚悟を持った立派な女王であると確信しているクラーリィが、己の行動を通して彼女の女王としての品格を貶めるような行為を取るわけがなかった。取れるわけがなかった。
 彼女のことを愛し、その幸福を願っている。彼女が幸せをその手に再び掴む日を心待ちにしている。けれどクラーリィの想いを双方向のものとすることとはイコールにならない。彼女の幸福を願うことはできても、己との恋愛を望むことはクラーリィの立場からはできなかった。


 ホルンもまた、恋をした。以前にも似たような恋をした。皇族だった彼に、後に二人の子を儲けることとなる未来の夫に。
 何度も逢瀬を重ねたし、舞踏会で一緒に踊ったこともあった。勉学を共にした日々は楽しかったし、彼の美しい魔法の軌跡を眺めることは何より楽しかった。王宮の外に中々出られないホルンに代わり、彼はホルンの手となり足となって王宮外の様子を事細かに教えてくれた。彼はホルンが守るべき世界の美しさ、素晴らしさを教えてくれた。彼がいたからこそホルンは己の生まれを憎まずに済んだし、この世界を心から愛し、己の宿命を愛することすらできた。
 きっと彼も、ホルンのことを愛してくれていたと思う。けれど彼が己にプロポーズしてくれる日は永遠に来なかった。それは不敬罪に値する。女王になることを約束されている己に対しその言葉を言わせることは、やがて愛おしい彼を処刑台に向かわせることすら意味した。
 だからホルンは自ら動いた。わざわざ舞踏会を開き、皆の前で己の夫となり己を支えるよう、彼に頼んだ。

 彼は快諾してくれた。……彼に残された選択肢は一つしかなかった。そんな場面でホルンの「頼み」を断ることは、それはそれで未来の女王に恥をかかせた、品格を傷付けたと罪に問われる。だから、彼は快諾する他なかった。
 嬉しそうな顔をしていた。ホルンは死ぬまであの言葉を受けた夫の表情を忘れることはないだろう。きっと嬉しかったはずだ。王配殿下への道を手に入れた。スフォルツェンドという古く強い国の中で確固たる地位を手に入れる約束を取り付けた。そして、何より野望に心を燃やした何人ものライバルを蹴落とし、ホルンの心を掴むことに成功したことを確認した瞬間だったはずだ。
 けれど、本当のことは分からない。若いホルンには自信がなかった。だからあんな場面を選び、彼の選択肢を極限にまで減らした。彼の選ぶべき道が一つしかないよう、道を絞った。分かりきった答えしか来ないよう、ずるをした。
 彼が本当にホルンを愛してくれていたのか、妻とするに相応しい唯一無二の女性であると信じてくれていたのか、そしてもし身分が身分なら彼の方からプロポーズしてくれるくらい己は魅力的な女性だったのか、彼と死に別れてしまった今となってはもう永遠に分からない。

 そして今、同じように恋をしている。己の子より更に年若い青年に、あの時のような燃える感情を抱いている。兵団を率い、輝かしい明日へ向かって直進する彼の後ろ姿は頼もしい。そして何よりホルンに向ける不器用な優しさが愛おしい。
 けれどホルンは、やはり、同じように自信が持てない。
 古くさい国のしきたりやら規律やらは、時にホルンを守り時にホルンを傷つけた。時代は変遷し続ける。それら全てに国のしきたり云々を合わせていくことは難しい。
 けれど、それを見て見ぬ振りをしているようでは何も進まない。己の運命を呪うだけでは、幸せになどなれない。己に与えられた世界を否定することは不毛なことだ。あるいは奇跡によって変えられるかもしれないが、その前に人はいっぱしにその世界の中に幸福を見つけること、その世界の中で努力することを試すべきだとホルンは思う。
 やがて女王となるべくして生まれたホルンの運命は、ホルンには変えられなかった。嫌だと悩んだ日々もある。どうにかして普通の女性になれやしないかと脱出の途を探し続けたこともあった。
 結局ホルンは与えられた世界の中で幸福を見つけた。いや、その逆、ホルンはこうした試行錯誤を重ねて己の世界の中にも努力すれば幸福がいくらでも見つけられることに気づいた。女王に生まれたなんて私はかわいそうだとはもう思わない。女王に生まれたからこそ得られる幸福が己にはある。それを今のホルンは知っている。

 同じく「古くさい」国の将軍の息子としてホルンの前にふと現れたクラーリィは、はじめは頼りない少年だった。戦争を経て両親を亡くし、やがて家がどうのといって妹を貰い、長いあるいは短い年月の末にある時は兵団員として、ある時は兄として、実に頼りがいのある青年へと成長した。
 傷の多い人生を歩んでいるとホルンは思う。彼の知らない己の何十年分の人生をないがしろにする訳ではないが、どちらがより酷いと評価するようなものでもなし、純粋に「多幸な少年時代を過ごしてきた」とは言い難いように感じる。幼い頃より人の死を眺めてきた。常に誰かに守られているホルンとは違い、幼い頃から死と隣り合わせの人生を歩むこととなってしまった。
 けれど彼は、そんな己の処遇を呪ったりしない。ホルンの見えないところで呪っているかも分からないが、ホルンが見た限りそれはないように思える。彼はホルンの信条と同じように、与えられた世界の中を懸命に漕いでいる。溺れぬよう、光を見失わないよう、力一杯努力している。現実という世界の中に、実現可能な幸せを掴めるよう彼は弛まず努力している。
 主従という関係の中で、ある時は共感し、ある時は対立し、時に子供っぽい喧嘩までしながら長い年月を過ごしてきた。たくさんの思い出がある。かつての夫と過ごした日々のように、ホルンの中でそれらは色褪せることを知らない。幸福という感情と入り交じって滲んでいたとしても、鮮やかな色彩を保ち続けている。
 同じ道を歩んできた彼を、そしてこれからも同じ信条を背に歩んでいくだろう彼の支えとなりたい。そして同じほど、彼に支えとなって欲しい。この願いは、日を追うごとに強固になっていくばかりで際限を知らない。女王であるホルンの手の内にはそれを実現可能にするだけのカードがある。ただし、クラーリィ側にはそのカードが足りない。だからホルンはホルンの方からそのカードを提示する。そして、共有するよう呼び掛ける。
 クラーリィの返事は……どうだろう、分からない。

 ノックの音にホルンは顔を上げる。ちょうど、クラーリィが報告書片手にやってきたところだった。
 ホルンは彼の報告を真面目に聞く。そして報告が終わり下がろうとした彼を呼び止めて、今夜空いているかしら、なんて問い掛ける。忙しいことなど百も承知だが、話があると言えば彼も少しは無理をきかせてくれるかもしれない。
 誰も見ていない場所で。たとえ断ろうが、決して彼が誰にも批難されないような場所で。今度は最大限彼の選択肢を広げて、ホルンの想いを伝えよう。王配殿下の位が戴けるわけではない。大神官の任を担っている以上、更なる優遇措置を受けられることもない。打算の極限まで絡むことのない純粋な返答が貰えるはずだ。
 返答の如何は問わない。今度こそホルンは真っ当に勝負を仕掛ける。均等な条件で、対等な返答を期待する。生まれ持った宿命と身分を呪うことなく、精一杯に泳いでみせる。この中に、ホルンでしか実現できない最高の幸せを見つけてみせる。

「ホルン様、宜しいですか」とクラーリィは頭を下げる。
 ホルンは静かに「ええ」と頷く。彼女の心理戦はもう始まっている。


 ***END



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