おにぎり30・2



 ***


 こそこそと厨房に顔を出したら、なぜか執務室で頑張っているはずのサックスと鉢合わせした。
 うげっ、と彼は後ずさる。
「げっ、うげっ、クラーリィ……お、おかえり……?」
「ようサックス。何をしているのかな?」
 サックスは女官の方々と談笑しつつつまみ食いをしていたらしい。辛抱の足りない奴だ。まあ、クラーリィの姿でそれをやらないだけまだマシというもの。やっていいことと悪いことの区別くらいはついているらしい。
「パンケーキ……俺も食いたいなー……」
「真顔で俺に言わないでくださいよ怖いんだからおまえのその顔、あのー謝るからそのー」
 言い訳を開始したサックスを半ば無視して、クラーリィは「あらあら」なんて笑っている女官の方へ向き直る。表情を切り替え、物腰も柔らかく、悪いんだが、なんて切り出す。
 サックスが膨れっ面をして黙ったのが視界の隅に入った。
「至急三十個くらいおにぎり作ってくれないか。腹が減ったんだ」
 了解しました、なんて二つ返事で女官の方々は制作に取りかかってくれた。様子を伺っていたサックスが、素っ頓狂な声でもって「三十個も!?」と口を挟む。
「ああ」
「た、食べ過ぎじゃない?」
「サックス、今回のサボりについては無罪放免にしてやるから、俺のストレス発散たる暴飲暴食も他言無用だ」
「委細承知にございます……」
 納得のいかない顔をしていたものの、サックスは渋々頷いた。ちょうどその時「できあがりました」と声が掛かる。仕事が速くて助かる。
「どうもありがとう」とみんなに礼を言うと、クラーリィは軽くサックスの頭をぺしりとやって、何か反論が来る前に姿を消した。
 恐らく消えた後でサックスが「あの野郎!」とか叫んで、それを女官に笑われているに違いない。いつもの光景だ、実に鮮やかに脳裏に浮かぶ。それでもってため息をついて、またクラーリィに絞られることがないようおサボりを切り上げて執務室に帰るのだろう。

 そんなことを考えている内に戻ってこられた。今度は着地に失敗しないよう慎重に、慎重に速度を落とす。
 幸いにして成功し、ふわりと舞降りることができた。先程までとは違い何も壊さなかったし盛大に土煙が上がることもない。成功、と小さく呟くとクラーリィは周囲を見渡す。
 やっぱり、スフォルツェンドに比べて空気が埃っぽい。この地が廃墟となって以降誰にも手入れされていないからこうなってしまったのだろう。天気はいいし、見晴らしもそこそこだが、若干砂っぽい空気が深呼吸の邪魔をする。
 この地も数ヶ月前は、多くの人が生きて笑う温もりのある街だったろうに。

 探し人は案外すぐに見つかった。消えたときと同じ場所に同じポーズで、小さな魔族はクラーリィの帰りを待っていた。
 魔族でも約束を守ることがあるんだな、なんてクラーリィは少しだけ感心する。
「ただいま」と言うと、変な顔をした魔族が振り返った。彼は何も言わない。
「ただいまって言われたら、返す言葉はおかえりだろう?」
「なんで俺がそんなことしなきゃいけねーんだよ。おい、待っててやったぞ。寄越せ。寄越せ寄越せ」
「はい」
 女官が丁寧に包んでくれたおにぎり袋を手渡す。ある意味期待通り、魔族は乱暴にそれを受け取ると早速一つ目を取り出してもぐもぐやりだした。
 もし余ったら残りを俺が食おうなんて思いながら、相変わらずクラーリィは黙って彼の威勢のいい食べっぷりを見守っている。

 じっと見つめていたら、しばらく経ってようやくその視線に気付いたらしく、魔族は大層居心地の悪そうな顔をして「なんだよ」と呟いた。
「いや、別に」とクラーリィは言う。どうぞ引き続き食べてくれ、と手振りで示す。一瞬訝しんで手を止めた魔族だったが、すぐに思い直したのか食事を再開した。その上でもぐもぐやりながら「なんか用でもあるのかよ」と言う。
「うまいか? おにぎり」
「さっき、悪かねえって、あむ、言ったぞ」
「魔族ってものを食うんだな」
 先ほどと同じ位置に腰掛けて、頬杖をついたポーズでクラーリィは魔族を眺める。何度見ても見飽きない食べっぷりだ。実に爽快。
「これじゃ、寿命は、ん、延びねえけど。足しにはなる。腹減ると、動けなくなるし。あむ」
「味も分かるんだ」
 また一つ食べ終わった魔族が最後の一口を飲み込んで、数度ぽんぽん胸を叩き、また袋に手を伸ばす。あの小さい体に一体いくつのおにぎりをしまい込む心算なのだろう。
 新しい一口を囓る前に、思い出したように魔族はクラーリィの方へ視線をやった。
「馬鹿にしてんのか?」
「してないよ。ただの気まぐれだ。いつもなら出会い頭に頭を吹っ飛ばしてるところなのに、なんとなく気が向いておにぎりあげてる」
 美味そうに食うしさおまえ、なんてクラーリィは言う。聞いているのかいないのか、魔族は次のおにぎりを腹の中に吸い込むことに夢中なようで、反応らしき反応はあまりない。
 まあ、別にそれでもいい。反応や見返りを期待しておにぎりをあげているわけではないのだし。

 とてつもなく大きい器に微々たる魔力。力を出し切れず、思うように身体を動かすことのできない悲しさ。迫るものは寿命だ。クラーリィたちのような凡人とは違う形で、目に見える形で、寿命なるものが迫り来る。
 その条件が、ぼろぼろになった小さな身体が、なんだか祖国のあの方を思い浮かべさせるものだから。
 つい、優しくしてしまった。
 何もできないと分かっている。本当の意味で、誰にも彼にも平等に訪れる死を回避することは叶わない。それを狡猾に潜り抜けようとしても、汚い手を使って引き延ばそうとしても、代償のようなものはいずれ必ず払わねばならなくなるものだ。
 魔族に尋ねる前から答えを知っていた。それでも、もし万が一彼が別の方法を知っていたらと思った。何か少しでも、クラーリィにできる打つ手なるもののヒントでもいい、少しでも手に入れることができたなら。
 思い浮かぶ方法は全て人道を外れたものばかり。できないことはない。クラーリィが心の底から道を踏み外せば、その内のいくつかは実行できるだろうと思う。
 けれど彼女は、それを喜んでくれる人ではない。

「おまえ、このまま死ぬの」
「てめえを殺して聖杯にしたらしばらく生きられそうだわ」
「そりゃ無理な相談だ。やらなきゃいけないことがあるんだ。待ってる人もいるんだ。ごめんな」
「……意味わかんねえ。嫌がらせかよ」
 もしかして殺される気になってくれたのか、なんて魔族が考えたのかと思い、クラーリィは少しだけ笑った。それが叶うならこの魔族は大層喜んでくれるのだろう。喜ぶこいつは魔族。喜ばないだろうあの人は人間。
「違うよ。……さっきも言ったけど、俺はおまえに魔力をあげられない。でもご飯ならあげられる。おまえがこの先もここに留まるなら――」
「いらねえ」
 全てを言う前にぴしゃりと遮られた。これまでとは一変して取り付く島のないような声色。
 ん、とクラーリィが言葉に詰まる。
「んなもんいらねえ。今回だけでいい。人間に飼われるなんてまっぴらごめんだ」
「……そんなつもりは……いや、……ごめん」
 魔族の指摘ももっともだ。クラーリィにそのつもりはなかったけれど、深層ではいくらか「養ってあげる」とかいう気持ちがあっただろうし、似たような境遇の彼の命を繋ぐ手伝いをすることで少しは心を楽にしたいなんて思いもあったかもしれない。
 だいぶ失礼な申し出だったなと思い直したクラーリィは肩を落とす。
「……そっか。分かった。暖かくしろよ。そんなぼろきれみたいな服一枚じゃ寒いだろう。ここはだいぶ北寄りだし」
 クラーリィはきっぱり諦めることにした。大神官たる者が魔族を養うなんてことはあってはならないだろう。いろいろな理由をこじつけて、後ろ髪を引かれる思いではあるけれども、諦めよう、と再三己に言い聞かせる。
「これ、あげるよ。残りのおにぎりも全部あげる。ええと……痛まないように魔法を掛けとこうか。ん、……はい」
 クラーリィは自分の首に巻いてあったマフラーをひっぺがして彼に渡した。例によって何なのかよく分かっていないのか、魔族は布を眺めて首を傾げている。
 萌葱に近い色だから彼の趣味には合わないかもしれないけれど、この際堪忍してほしい。
「マフラー。あげる。意外と暖かいぞ」
 彼は黙って自分の首に巻いた。彼の身長と比較するに長すぎて、首に二度巻き付けても尚余る。けれどその分だいぶ暖かくなっただろうと思う。
「じゃあ、さよなら。小さな魔族くん」

 クラーリィは立ち上がり、一歩後ずさってくるりと中空に円を描いた。魔法を唱える。そういえば、ここには調査目的でやってきたのだ。いつまでも油を売っているわけにはいかない。
 結局、クラーリィが消えるまで魔族は一言も喋ってくれなかった。さよならくらい、言ってくれても良かったのに。こちらをじっと見つめる紫色の瞳が、視界が転じるその瞬間までクラーリィの脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……結局、名前も聞かなかった」


 ***


 厨房に残されたサックスは一人冷や汗をかいていた。どうしてこのタイミングで厨房に顔を出すのだろう。そのうえ、昼食を確かに持って行ったのに更に三十個もの追加注文。どれだけ腹が減っていたのだろう。
 それはともかく、この展開となってしまった以上、サックスは一刻も早く執務室に戻ってクラーリィのご機嫌を取り戻さないと後々大変なことになる。
 じゃあ、と呟いて踵を返した。最初の一歩を踏み出したものの、どうも心に引っ掛かりがあって歩みが止まる。
「……いや?」
 サックスは足を止め、その辺にいた女官に声を掛けた。あら、と彼女は振り返る。
「帰らなくていいんですか? またクラーリィ様に怒られ……」
「三十個って普通にやばくね?」
「えっ? そ、そうですね、多いですね……」
 サックスの出す存外真面目な声に驚いたのか、女官は慌てて居住まいを正した。いや、いいんだけど、とサックスは呟く。
「あー、えっと、怒られるから帰る。いきなり変なこといってごめんね。ありがとパンケーキ、おいしかった」
 なおも畏まる女官にもう一度詫びを入れて、サックスは今度こそ厨房を出た。昼時なので廊下にはやや人が多い。いつもなら聞き耳を立てながら歩いて本日の話題を収集するところだけれども、本日のサックスはそんな気分にはなれなかった。
 いくらなんでもあの身体に三十個も入るわけない。かといって、わざわざ「三十個」と注文を付けてきたクラーリィが残して捨てるような真似をするとも考えがたい。その上、本日の出掛け先はほぼ廃墟となってしまったエリアで、誰か人と会うということもまずないだろう。もし人が戻ってきているのならばその旨事前調査の際にきちんと連絡が入るだろうし。サックスもあの書類には目を通したが、そんな記述は一切なかった。
 進ませる足がどうにも重い。
「なんかやだな。あいつ、食って吐いてやってんじゃねえだろうな……」
 この足でそのまま執務室に戻る算段だったが、サックスは予定を変更した。執務室に向かう道を外れ、角を曲がる。少し遠回りにはなるし、無用な心配を招く羽目になるかもしれないが、やはり耳に入れておいた方が良いと思った。
 サックスは一路女王ホルンのもとへ急ぐ。


 ***


「ホルン様!」
 挨拶もそこそこに近寄ると、どうしましたとホルンが心配そうな顔を覗かせてきた。クラーリィと違ってサックスにあまり彼女宛の用は発生しない。早速なにか悪い知らせでも入ったのかと思ったのかもしれない。
 女王はゆったりとした肘掛け椅子にその身体を休めていた。立ち上がろうとしたのを慌てて制止する。ホルンは浮かせかけた腰を下ろし、サックスの方へ視線をやった。その瞳に僅かに不安が走っている。
「お休みの所申し訳ありません」
「いいですよ。何かありましたか?」
 読みかけだったらしい本が閉じられ、横のローデスクへと置かれた。サックスはちょっとだけ本のタイトルを見ようとしたが、小難しい学術書のようだったので早々に諦めた。休むときくらいもっと砕けた本を読めばいいのに、やっぱり女王ホルンも上手く休めない人らしい。
「実は、こっそりお耳に入れたいことが」
「どうぞ。もっとこちらへいらっしゃい」
 一礼するとサックスはホルンの膝元に侍った。この距離から小声で喋ればこの部屋の衛兵にも声は届かないだろう。無用な噂こそ一番の敵だ。もしかしたら、サックスのただの杞憂かもしれないのだし。

 どこから話すべきか迷って、サックスはまず最初に自分の怠慢を謝ることにした。でないと厨房にいる理由が見つからない。ホルンはほんの少しだけ顔をしかめたものの、それがサックスの本題ではないと悟ってすぐに真面目な顔に戻ってくれた。

「……それで、クラーリィが……あいつストレスを内側にため込むタイプだし、もしかしたら中が結構大変なことになってるんじゃないかと思いまして。顔見ただけじゃ分かりませんけど」
 そうね、とホルンはサックスの見解に同意してくれた。クラーリィはホルンに限らず他人に自分の弱みを見せたがらないし、自分でできると思ったことは請け負って実際無理をしてでもやり遂げてしまう男だし、逆にやり遂げられる能力があるからこそ厄介なところのある奴だ。何回言っても、何百回言っても、誰が言っても、なかなか人に頼ろうとしない。
「なのでホルン様、あの、ちょっとクラーリィの食事内容とかに注意された方がいいんじゃないかと」
 ここ数日何度か食事を一緒にする機会があったが、クラーリィにそんな暴飲暴食の様子は見られなかった。けれど、本当にそうだとしてもあのクラーリィのことだ、誰もいない場所でのみやっているなんて可能性もある。今日だって廃墟でやっている分には目撃者がいないのだから十分だろう。むしろサックスに見られてしくじったとでも思っているかもしれない。
 今になって、クラーリィの「他言無用」なんて釘差しがサックスの脳裏をぐるぐるして止まらなくなってきた。
「俺、その、心配で」
 三十個なんてどう考えてもおかしいとあの場で引き留めるべきだったかと後悔し始めた頃、ホルンの「分かりました」という声が頭上から振ってきた。
 見上げたホルンは、女王らしい凛々しい表情をしている。頼もしい、というか。けれど「サックス」と呼びかける声は優しかった。彼女の全人に向けられる愛情は本当に素晴らしいと思う。自分はクラーリィほど偉そうに語れる口ではないけれど、彼と同じようにこの女王についてきて良かったと感じる瞬間が今だ。
 片膝をついた姿勢を崩さぬまま、サックスは「はい」といらえをする。
「今回は、あなたの友人想いの心に免じて怠けたことは不問にします」
「申し訳ありません」
「私はいいのですが、帰って来たらクラーリィに一度は謝っておきなさいね。きっとあまり怒らないだろうとは思うけど」
 はい、とサックスは頭を垂れた。己の不真面目さがまさにクラーリィのストレスの一端になっているのなら目も当てられない。クラーリィに見えないところなら、なんて甘い考えは捨ててもう少し真面目になろう。今は世界が緊迫してきている時分。そろそろ本格的に覚悟を決めねばならぬ時がいずれ必ずやってくる。
「ですが……そうですね。クラーリィには一度私の方から声を掛けます。サックス、あなたしばらくはクラーリィを誘って一緒に食事を取ったらどうかしら。見張るというと言い方は悪いけど、何かシグナルのようなものは見つかるかもしれませんよ」
「了解です」
 最近忙しいものね、なんてなんでもないことのように言うホルンの横顔が寂しい。クラーリィは以前一度自決しかけている、彼を臣下とする女王ホルンにもいろいろと思うところがあるのだろう。長いこと付き合ってきた。ただの子供に過ぎなかった彼が大人になり、一兵士として戦場へ身を投じる姿をじっと眺めてきたホルンには、クラーリィの親友という立場のサックスとはまた違った視点で物事を感じ取っているのだと思う。
「あなた……は適度に息抜きしているようだからまだ安心できますが。でも、気を付けなさいよ」
「ホルン様も。無理はなさらないでくださいね」
 クラーリィも、俺も、みんなが悲しみますから、とサックスは小さく付け加えた。ホルンの笑顔に苦みが交じっている。
「気を付けます」と呟くホルンの声にはどこか嘘っぽいいろが塗り込められていて、侍るサックスをひたすらにやきもきさせた。


 ***


 サックスが退出してしばらく、クラーリィが報告のためにホルンのもとへと顔を出した。調査結果の書かれた書類を抱きかかえ、恐らくはホルンへの説明用に作ったのだろう薄いファイルも一緒に持ち込んできた。ホルンのためだけにそんな労力を割く必要はないし、実際「普通の書類を抜擢して読んでくれればそれでいい」とも言ったのだけれど、クラーリィは断固として譲らなかった。ホルンに言う資格はないかもしれないが、クラーリィも頭が固い。
 クラーリィは一礼をするとホルンの元へとやって来た。「ただ今戻りました!」と言う彼の声は明るい。
「おかえりなさい。怪我などありませんか」
「平気です。特に問題もなく……少し遠回りをして時間がかかってしまったくらいです。遅くなって申し訳ありません、陛下」
 なら良いのですが、とホルンは返した。クラーリィ曰く、三十個のおにぎりを戴く時間は遠回りで済んだらしい。まあホルンに何から何まで真実を伝える必要はないし、彼は今日心配そうなサックスがやってきたことを知らない。
 報告を読み上げるクラーリィをじっと眺める。特に変哲は見られない。声色はいつもの通りだし、表情が暗いということもない。動きも普段通りのきびきびとしたもので、怪我を隠しているということもなさそうだ。血の臭いも特にしない。
 ページをめくる瞬間、ふと見上げた視界にじっと己を見つめるホルンが入ってきてしまったようで、クラーリィの声がぴたりと止まった。
「……ホルン様、何か?」
「いいえ、ごめんなさい、何もないの。どうぞ続けて」
 少しだけ訝しそうな顔をしたものの、クラーリィはすぐに頭を切り換えて報告に戻ってくれた。
 一見、変わりはないように見える。けれどサックスの心配が事実ならいつからその状態になってしまったのか分からない、つまり普通と判断していた状態が既に異常だったということも考えられる。それに、上辺の表情では何も量れないことをホルンはよく知っている。
 人は嘘をつくものだ。その笑顔の仮面の奥底で何を考えているのかなんて、ホルンには分からない。何かがあるかもしれないし、何もないかもしれない。だから、ホルンにできることはいつだって少ししかない。
 報告が終わった頃を見計らって、ホルンは彼を呼び寄せた。こっちへいらっしゃい、と言う。
 クラーリィは若干首を傾げた後、素直にホルンの膝元までやってきた。
「何かご用件が?」
「いいえ、特に何かがあるわけではないのです。虫の知らせというものかしら。なんとなく、あなたの体調が気になったから」
「……俺は、大丈夫ですよ。ご心配には及びません。ありがとうございます、ホルン様」
 間近で見てもやっぱりクラーリィは健康そうに見えたし、何かを隠している素振りはなかった。けれどホルンの心に大丈夫と伝える前の彼の若干の沈黙が引っ掛かる。嘘をついている。あるいは、何か思い当たる節がある。……別のことを、考えていた。いろいろな可能性があるけれども、ホルンにそれを断定できる材料はない。
 結局ホルンは「そう」と呟いた。今はクラーリィの主張を受け入れるしかない。
「クラーリィ、私はいつだってあなたの味方ですから。何か困ったことがあったら言いなさい。私に言い辛かったらサックスでもいいのよ。一人で何もかも背負い込もうとするのは、おやめなさいね」
 クラーリィは一瞬変な顔をした。なぜホルンがこんなことをいきなり言い出したのか、きっと分かっていないのだろう。それでいい、もしサックスの心配が杞憂で終わったとしても、いつかどこかで行き詰まって、その時にこの言葉を思い出してくれたのならそれでいい。性分もあるから矯正は難しいだろう。それでも、己のキャパシティを越えると思ったその時にこの言葉があるだけでだいぶ違うだろうとホルンは思う。孤独は人の毒となる。今のホルンだって、大勢の己を慕う部下に支えられてこそ立っていられるのだから。
「どんなにくだらないことでもいいの。相談に乗りますからね」
 やや遅れて、クラーリィは「はい」と言った。その声にあまり元気がない。何か言いたそうな顔をしたのでホルンが黙って待っていると、彼はじきにこう切り出した。
「じゃあ……ホルン様。俺からのお願いです。お身体を……大切に、なさってください」


 俺は道を踏み外せないから、という言葉は終ぞ音となって外に出て行くことはなかった。
 クラーリィはうつむく。こんなに力を手に入れたのに、できないことが多すぎる。こんなに頑張ったのに、報われないことが多すぎる。都合の良い奇跡を己は起こせない。
 動かなくなったクラーリィへホルンの柔らかな手が伸びる。まだ幼かったあの頃のように優しく撫でる手の温もりを感じ、クラーリィは一人涙を必死で堪えている。


 ***END



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