物語



 ***


 いい天気だった。
 午前の執務を一通り終えたが昼食どきにはやや早い。本日は思いの外てきぱき進められたおかげで、予定を幾分早めての終了となった。午後の分を午前の残りに回すなんて手もあったが、本日のホルンにもクラーリィにもそのような気概はなかった。
 少し、根を詰めすぎて疲れていたらしい。
「あら、いい天気」
 ホルンのふいの声に、クラーリィは片づけをしていた手元から顔を上げた。ホルンは大ベランダに出て外を眺めている。いつの間にやら開け放たれた窓からはちょうど昼頃に相応しいぬるい風が吹き込んできていた。窓の外は予報通りのいい天気だ。
「本当に晴れたんですね。昨日はあんな大雨だったのに」
「そうね、昨日は雷も鳴っていたし……昨日雨が降っていた分、今日は空気が澄んで気持ちが良いですね。クラーリィ、こっちに来て深呼吸してごらんなさい? きっとすっきりすると思いますよ」
 最近お疲れのようだったし、とホルンは付け加えた。そんなところを見せた覚えは微塵にもないが、ホルンにはしっかり見通されていたようだ。
 すみませんと一言、クラーリィも同じくベランダへと出る。

 青々と広がる海原のような空に、ぽつりぽつりと離れ小島の雲々。この世界の各所で今も戦火があがっていることなど夢のような、そんな長閑な風景がクラーリィの眼前に広がっていた。
 城下の喧噪が大気に紛れてこの耳に届く。気分の悪いときには騒々しいと感じることもあるが、概してこの活気は嬉しいものだ。今日も多くの人が笑顔と共に大通りを行き交っているのだと思う。
 見下ろす町並みはとても小さく見えて、人の輪郭をしっかりと確認することはできない。だから笑顔がどうとかいうのは全て想像だけれども……きっとクラーリィの予想は外れていない。
 そしてそんな町並みを、大空を、隣に立つホルンはぼんやりと眺めている。
 言われたとおり、クラーリィは何度か深呼吸をしてみた。吸う。数秒息を止める。ゆっくり深く吐く。詳しいことは何も知らないけれど、腹式呼吸を意識してみたりする。
 肺の奥深くまで入っていく感覚のある、済んだ空気は確かに気持ちが良かった。部屋に吹き込んでいた風よりやや冷たい感じの空気が、ちょっとずつクラーリィの中の何かを掃除してくれる。
「ああ」とクラーリィが呟く。
「はい?」
「確かに……なんだか、すっきりしました」
「でしょう? ふふ、顔に出ていますよ。何かが落ちたみたいな顔をして。たまにはこんな時間も必要ですね」
 微笑むホルンはご機嫌のようで、その後もしばらく外を眺めてニコニコしていた。クラーリィに言わせればホルンも似たようなもので、やはり彼女もここのところの忙しさに参っていた節があったし、見せないようにはしていたもののどこか疲れを感じさせる細かな点があったし、そして今は同じく憑き物でも落ちたかのような顔をしている。
 たまにはこんな時間も、という彼女の言葉は何もクラーリィだけに向けられた言葉ではないのだろう。

 クラーリィは何も言わず、ただホルンの隣で何度か深呼吸を繰り返した。喧噪が遠くなっていくような、この空間だけ時の流れが遅くなっていくような、不思議な感覚。
 手すりに寄りかかり、城下を眺めるホルンの背をクラーリィはじっと眺めている。十数年前はそれに父よりも広いという印象をすら抱いたクラーリィだったが、側に侍るようになってからはむしろ切ない思いを抱く機会が多くなった。ただの無知な子供ですら「広い」とか「頼れる」とかいう印象を抱く彼女のその姿には、それだけの重圧が掛かっているということだ。そしてその重圧を彼女は受け止め、その上でしっかとこの地に踏ん張っていることを、踏ん張っていられるだけの覚悟が彼女にはあることを示している。
 女王としてなるべく産まれた彼女の細い肩に、一体これまでどれだけの重みが掛かってきたのだろう。これまで幾人もの兵が彼女の、そして国の為に命を落とした。その命を背負って、この国の唯一の女王として君臨すべく、彼女はどれだけの力でもってこの地に立っているのだろう。
 そして、凛々しくもどこか儚いその姿を、クラーリィは心の底から敬愛して已まない。

 せっかく新鮮な空気を満喫しているホルンには悪いが、時計の針は進み次の予定の時刻を指し示していた。このまったりとした休憩は切り上げ、食事をせねばならない。ホルンは忙しいのだ。
「ホルン様」
「はい?」
「そろそろ昼食の支度ができたかと思います。行きましょうか」
 振り返ったホルンは一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐにその顔を切り上げて「そうですね」と頷いた。ここで嫌がってもクラーリィを困らせるだけとホルンはよく知っている。
「綺麗な空気を吸うとお腹が減りますね。今日は……今日も、ね。おいしく頂けそうです」
「それは良かった。さあ、参りましょう」
 見かけとは違う実年齢がいくつ、という点ももちろんあるだろうし、成人男性のクラーリィとはあまり比べるべきではないとも分かっているし、将に成長期のコルともまた比べものにならないことも分かっているものの、やはりホルンは比較して食が細いのでクラーリィは心配になる。無理に食べて具合を悪くされるのも悲しいから、無理をせずちょうどいい量を食べてくれればそれが一番だとは思う。でもやはり、日によって明確に「今日はあまりお腹が空かない」と告げたり、何も言わなかったもののかなり残してしまい、悲しそうな顔をしながら「ごめんなさいね」なんて謝る日もときにはあるので、こうやって空腹を訴えられるとそれだけでもクラーリィの心は軽くなる。

 ホルンを先導する形でクラーリィは進む道を指し示す。部屋を出る直前に閉めた窓から伺える空は相変わらずの晴天で、眺める千切れ雲がまるで綿飴みたいだとふと思い、クラーリィは一人肩を揺らした。
 ホルンの言うとおり、自分もなかなかに腹が減っているらしい。


 ***


 昼食を終え、少しのお茶の時間をとった後、午後の仕事に着手した。今日のホルンは前言通り空腹だったようで、係りの者が作った昼食を世辞抜きでおいしそうに全て食べきっていた。クラーリィ以下部下たちがほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。
 部屋に帰ってきてすぐ、窓を開けた。昼食前よりさらにぬるい風が吹き込んでくる。そろそろ気温のピークが終わり、これから夕方にかけて肌寒くなってくるだろうか長時間開け放っておくわけにもいかないだろうが、ぎりぎりのところまで窓は開けたままにしておこうとクラーリィは考えていた。
 そんなクラーリィの予想通り、背後から「まあ、まだいい天気なのね。いい風!」という喜色の滲むホルンの声が聞こえてくる。
「空調を入れるより、こちらの方がお身体にもいいかと思いまして」
「ありがとう、その気遣いが嬉しいわ」
 ベランダに出こそしないが、ホルンは再び息を大きく吸い込み、何度か深呼吸を繰り返し、その後はしばらく目を瞑って耳を澄ます仕草をしていた。クラーリィはその後方で、極力彼女の邪魔にならないよう静かに書類を仕分けしている。
 ホルンもまた、城下の人々の喧噪や、あるいは長閑な鳥の声に耳を澄まし、つかの間ではあってもこの地にもたらされた平和や安穏に心を寄せているのだろうか。彼女はクラーリィが生まれるずっと前から、この地から一歩も動かずにただスフォルツェンドを、そして世界を見つめ導いてきた。同じ光景を眺め、同じ空気を吸い、同じように耳を澄ませても、彼女の引き出しの中にある思い出はクラーリィのそれとはだいぶ違うだろうし、その結果浮かんでくる言葉もまた違うものだろう。
 辛かったことも、楽しかったことも、悲しかったことも、嬉しかったことも、そのすべてがホルンの経験・軌跡となって今の彼女がここにある。その肩に掛けられた重圧や記憶がどの程度のものなのかクラーリィにはぼんやりと推し量ることしかできないけれども、……けれど一つだけ言えるとしたら、ホルンは決して後悔ばかりの人生を送ってきたわけではないということだ。もちろんゼロではないだろう。彼女は己の判断ミスを契機に国を戦争に巻き込み、夫を弔い、子二人も失う羽目となってしまった。けれど彼女の軌跡はそれだけではない。悪いこともたくさんあったけれど、彼女は世界の国々から「女王」と敬われるだけの功績を成した。だからこそ今クラーリィをはじめとした多くの部下が彼女を信奉し、彼女のために、ひいてはこの国のために命をも抛つ覚悟であると胸を張る。
 目を瞑り、何かに耳を澄ませるホルンの横顔はどこか晴れ晴れとしていた。クラーリィは彼女のこんな顔が好きだ。なんだか安心できる。彼女を信じ、彼女の判断に従うことが正しいことであると再確認しているような気分になる。
 やがてホルンは瞑想を切り上げ、くるりとクラーリィの方へ踵を返すと「さあ、頑張りましょう」と微笑んだ。



 午後の仕事をある程度進めた時分、ちょうど切りの良いところでホルンは一度頭を上げ、ぐぐっと背伸びをしてみせた。瞑想が効いたのか、それとも天気が良かったのが原因かはわからないが、だいぶ効率よく進んでいるとクラーリィは思う。
「お疲れさまです。今日はなんだかいいペースですね」
「そうね。天気がいいからかしら? あとは……やっぱり一人で何かをするとなると、寂しいし、人目がないとどうしても怠けがちになってしまったりしますしね。今日は一日あなたと予定が合わせられて、私は少し嬉しいのですよ? その分あなたに迷惑も掛けるだろうから、ちょっぴり」
 んっ、とクラーリィが声を詰まらせる。慌てて背を向けたものの遅かった。
「赤くなっちゃって」なんて意地悪な声が背後から届く。
 ホルンが言っているのはごく単純に、デスクワークの日をクラーリィと重ねられたことが嬉しいという話だろう。クラーリィはホルンの護衛でもあるし、大神官でもあるし、魔法兵団の隊長でもあるし、やらねばならない仕事はたくさんある。宗教行事やら、兵団の育成やら、諸々のデスクワークやら、ホルンの警護やら。だからまとめてできるものはなるべくまとめるようにしている。どうしても自分一人ではこなせない事柄はパーカスやサックスたちに投げたりすることもあるが、まあそれはそれだ。
 今日はデスクワークとホルンの警護をセットにした業務。クラーリィのそれもホルンのそれも、決してお互いがいなくてはできない代物ではないが、一石二鳥というたったそれだけの理由でクラーリィがホルンのところへ己の仕事を持ち込んで作業している。
「あら、クラーリィは嬉しくないのかしら?」
「ホルン様、俺をいじめるのはやめてください。拗ねますよ。拗ねますから。拗ねてあっちの方に机持っていってその辺で作業しますから」
 クラーリィはホルンの対角に位置する部屋の隅を指さし、あっちへ行きますからね! とホルンに告げる。
「まあ」なんてホルンは笑っている。
「ケチね。謝るから許してちょうだい?」
「ケチって、今は仕事中なんですよ。俺真面目にやってるんですから、頼みますよホルン様。そりゃもちろん嬉しいですけど、嬉しくないはずがないですけど、実際結構頑張って予定をすり合わせたりしていますけど、俺そういうの顔に出さないように頑張っているんですからね!」
 若干眉をつり上げたクラーリィは、あまり可愛げのない低い声で「分かりましたか」と念を押した。
 でも、と真顔のホルンが言う。
「顔に出さなくても分かりますよ」
「……」
 憮然とした顔になってしまったクラーリィに苦笑して、ホルンはすぐに「確かに仕事中にこれは良くないですね」と付け加えた。クラーリィは変に堅物なところがあるから、もう少し彼に通用する冗談の境界を見定める必要がありそうだ。
「改めます」とホルンが言うと、クラーリィはむすっとした顔のまま「そうしてください」と呟いた。

 ここでクラーリィの機嫌を損ねてはまずいと思い、ホルンはより一層真面目に仕事に取り組むことにした。雑念を払い、視界から余計なものを追い出しにかかる。しばらくクラーリィはそんなホルンの気配を窺っていたようだが、ホルンがきちんと真面目に取り組んでくれたことを数分後にようやく信じてくれたようで、その内視線を感じなくなった。
 ペンを走らせる音と、たまに紙を捲る音と、微かに衣擦れの音。どの位経った頃だろう、ホルンはふとそれらの音がクラーリィ側からしなくなったことに気付いて顔を上げた。
 クラーリィは手を止め、壁にかかる時計を気にしているようだ。釣られてホルンも時計を見上げる。
 いつの間にやら結構な時間が経っているようだった。ホルンも手を止めたことに気付き、クラーリィが時計からホルンへと視線を移動させる。
「そろそろお昼寝の時間です。どこか切りの良さそうなところはありますか」
「あと数枚でちょうど区切りが付けられそうです。そこで一旦切り上げようかしら。嫌ね、体力が落ちてしまって。午後もフルで働きたい気持ちは大きいのですけれど」
「きちんと体調管理していただいた方が、私をはじめ臣下としては助かります」
 やっぱりまだ機嫌は元に戻っていないのか、クラーリィの言葉尻が若干冷たい。「私」を使うことももちろんそうだし、何より見えない「仕事中です」という一文がクラーリィとホルンの間にふよふよ浮かんでいる。
 確かに無理をして倒れればその分クラーリィやその他の人々の仕事が増えるし、大勢の人の心配を煽るだろうし、自己管理も自分の大切な仕事のうちの一つだ。己を心配する多くの人々の制止を振り切り、無理して働いて悲劇のヒロインの如く倒れたとしても、そう同情は得られない。むしろ自業自得というものだ。
 だから、クラーリィや多くの部下のことを思うならなおのこと、ホルンは休んだ方がいい。

 残った数枚を終わらせ「取り敢えずここまでで切り上げます」と告げた。
「お疲れさまでした」
 立ち上がったクラーリィが「机はそのままでいいですよ」と言ってくれたので、おそらくこのままホルンの寝室へ案内してしまう心算なのだろう。
 クラーリィについて隣室へ移動しようとしたホルンがふと歩みを止める。視線は開け放たれたベランダの方へ向いている。迷い込んだ風が薄いカーテンをふわりと浮かし、日の光を浴びてまるでオーロラのようだった。
「……どうされました?」
 ホルンがついてこないことに気付いたクラーリィが戻ってきた。じっと窓の外を見つめるホルンを見て「外に何かありましたか」と首を傾げる。
「いえ、……いい天気だなあと思って」
「はあ」
「お昼寝、たまにはベランダでしたらダメかしら? おなかがいっぱいになると眠くなるでしょう、あなたもご一緒にどう?」
「はあ?」
 久しぶりに色気も敬意もなにもない素の状態の突っ込みを貰った。しくじったことにクラーリィも瞬時に気付いたようで、あ、いや、すみません、なんてペコペコ謝っている。
「すみません、何を言っているのかと思って。つい口が滑りました」
「あんまりフォローになっていませんよ。いいじゃない、昔みたいに、たまには。昔よく絵本を読んであげたわね」
「読みませんよ。俺は」
 嫌ですよ、とクラーリィは言った。今日のクラーリィは随分はっきりと物を言う。珍しいけれど、たまにはこれくらい不満を口にしてくれた方がホルンとしてもありがたく思う。恐らく先ほどクラーリィを怒らせたのが直接の原因なのだろうけれど、いくらでもいつまでも我慢ばかりをさせていてはホルンとしても心苦しい。ホルンはこの程度の物言いならば全く気にしないのだし、怒ったり無礼だと思ったりもしない。もともと無理なお願いをしているのはこちら側なのだし、毎日昼寝する分クラーリィには女王としての仕事までやって貰っているのだし。
 たまに、自分がクラーリィを苛めているような気分になる。だから本当はもっといろいろと文句を付けてくれてもいいとホルンは思っている。ただ恐らくは性格故に、クラーリィはあまりはっきりとものを言ってくれない。パーカスならは即座に指摘してくれそうな事柄を、彼は内側に不満として溜め込んで黙っていることがあるように感じる。
 その膨らんだ風船が破裂する前に、ぷすぷす刺してちょっとずつ萎ませることができればいいな、なんて思う。ホルンには都合の良すぎる話かもしれないけれども。
「読んでくれなんて言いませんよ。言わないし、……あなたには私と暢気にお昼寝するような時間もないことくらい分かっています。けれど、そうね、ここで寝ていたらあなたの目の届く範囲に収まっていられることだし、警護もこなせて一石二鳥ではないですか?」



 ぽっきりクラーリィの折れる音が聞こえたような気がした。クラーリィは黙って窓際の方へ移動する。すれ違いざまに真顔で「仕方のない人ですね」と言い、何やらぶつぶつと唱えると腕を一振りした。ぽむっという軽快な音の後、窓際に真白いベッドが一台出現する。
 ホルンはベランダで、と言ったはずだがベッドが出現したのは部屋の内側だ。
「ベランダ……」
「これから寒くなってきますし、そのうち窓も閉めますから、日光だけで我慢してください。安全上の問題もありますしね。部屋の中じゃなきゃダメです」
 じゃなきゃ却下です、とクラーリィは言う。ここが彼の妥協点なのだろう。頷く他ないホルンは黙って首を振った。
「寝心地は、あまり保証できませんが」
「いいんですよ、そんなもの気にしなくても。ただでさえ我が儘を聞いて貰っているのだから、贅沢は言えません。ありがとう、クラーリィ。無理を言ってごめんなさいね」
「……いいえ」
 じゃあもう寝ます、とホルンはいそいそベッドに潜り込んだ。クラーリィは少し離れた位置で黙ってそんなホルンを見守っている。
 何度かもぞもぞして、定位置を見つけると、ホルンは肩までしっかり布団の中にしまい込んだことを確認してから目を瞑った。おやすみなさい、と呟く。クラーリィは何も言わなかったが、微かな音でどうもこちら側へ近寄ってきたらしいことが分かった。相変わらず、黙ってこちらを見下ろしているようだ。ホルンは目を開けるかどうか迷って、結局やめた。ぱっちり開けたその瞬間にクラーリィと目が合い、「早く寝てください」と言われてしまうのが容易に想像できたからだ。見下ろすクラーリィが一体どんな顔をしているのか気になるものだが、仕方がない。
 クラーリィがどんな理由でただじっとホルンが寝入るまで待っているのかは分からない。彼のことだから、呼吸音でホルンが狸寝入りをしているのか本当に寝入ったのかの区別は付けられることだろう。だからきっと、ここでじっと動かずホルンが寝付くのを待っているに違いない。物音を立てないように、ホルンの入眠を妨げないように、じっと。
 人の気配はいいものだとホルンは思った。過去、戦時下などは逆に気配が恐ろしくて何かの気配を感じ取るなり目覚めてしまうようなこともあった。けれど今は違う。近くに感じる彼の気配が、逆にホルンに安心という名の感情を連れてくる。クラーリィだからこそ、だろう。彼は必ずホルンの盾となってくれるし、何があろうとホルンの味方だ。肉体的にも、精神的にも、彼はホルンの大切な柱の一つ。ホルンがこの先も立っていくために、彼はいつの間にやら欠かせない存在となった。
 深呼吸。ゆっくりと意識が遠くなっていくような感覚はあるものの、まだ眠るには至らない。早く眠らないとその分クラーリィの仕事の邪魔をしてしまう、なんて考えが余計にホルンの入眠を妨害している。
 そのとき、上の方から小さな「昔々」なんていうクラーリィの言葉が聞こえてきた。
 そういえば、絵本を読んで、なんて先程言ったのだった。律儀だ。ホルンがなかなか寝付いてくれないことに気付いてしまったのらしい。
 クラーリィの、独り言のような小さな声は続く。
「昔々。……あるところに、ええと、……女王様が。それから、真面目な臣下が一人」



 どれくらい話していただろう。すうすうと規則的な寝息が耳に届いたので、クラーリィは呟くのをやめた。成就することのない、切ない恋の物語はこれにて閉幕。続きは……永遠にやってこない。
 めでたしめでたしに代わり、「おやすみなさい、ホルン様」と彼は呟く。


 ***END



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