ひとりごと



 ***


「おまえも物好きだよね」と、サックスは言った。

「俺?」
「そ、おまえ。ていうか、おまえ以外に誰がいるの? 俺はおまえにしか話しかけないのに」
 頬杖をついてサックスはクラーリィの顔を覗き込んでくる。クラーリィは少しだけ鬱陶しそうに顔をしかめて、すぐに視線を戻して残りの仕事と向かい合った。
 誰も助けてなんてくれない。だから自分でやるしかない。誰もクラーリィを助けてくれない。
「なぁサックス」
 うん、とサックスが小首を傾げる、クラーリィの仕事内容を覗き込んでいるそぶりを見せながらも、決して手を出してきたりしない。
 いや、正確には違う。彼は手を出せない。出してはいけない。その一線を、越えてはいけない。
「俺の仕事の邪魔しないでくれよ。邪魔だよ」
「じゃぁ、無視すればいいじゃない。俺のことなんか」
「……無視なんかしないよ」
 クラーリィはまた顔を上げた。
「どうして俺がおまえを無視するんだ?」
「邪魔なんでしょ?」
「仕事のな。仕事。俺には仕事しかないとでも思ってるのか?」
 サックスは寂しそうな顔をして首を振った。それから、一呼吸おいて今度は頷いた。
「そうだね、クラーリィ。今のおまえには仕事しか残ってないね」
「やめろ、その、憐れむような目は」
「間違ってないよ。伝わった? 俺はおまえを憐れんでるの。俺を構っちゃうおまえを憐れんでるの」
 叩いてやろうと思ってクラーリィはサックスに手を伸ばした。伸ばそうとした。けれど、あと一センチというところで手を止めた。
 サックスはぱちぱちと手を叩いた。
「その判断は、正解」
 クラーリィは何も言わなかった。不愉快はきっと顔に出ていたと思う。サックスはまたあの、クラーリィの嫌いな憐れんだような顔をして笑った。だめだよ、と彼は言う。
「さぁほら、仕事に戻りな」
「……」
 クラーリィは黙っていた。腹が立って仕方なかったのに、何も反論すべき言葉が浮かんでこなかった。
 サックスが何を言いたいのか分かっている。サックスがどうして自分を憐れんでいるのかも分かっている。
 言葉にならない感情を抱えて、クラーリィはじっとサックスの顔を見つめる。だめだよ、とサックスは繰り返した。
「ああ、クラーリィ、俺はね、どっちかというと『俺のこと無視した方がいいよ』っておまえに言ってるんだよ」
「……嫌だよ」
 サックスの顔を見ていられなくなってクラーリィは視線を落とした。
 嫌だ。そう、嫌だ。何もかもが嫌だ。胸に留まるぐちゃぐちゃの感情のうちの一つがようやく言葉になった。
 嫌だ。
 怖くて手も伸ばせない。いいや、伸ばした先の現実を、答えをクラーリィは知っている。そしてそれを見て見ぬ振りをしている。気付かないふりをしている。
 サックスは、そんなクラーリィのことを憐れんでいる。

 クラーリィはもう一度手を伸ばした。ばかみたいに手は震えていた。
 随分昔に生身の腕を亡くした。だからこんな作り物の手で、温もりなんて測れるはずもなかった。奇跡を起こすことなんてできるわけもなかった。
 あの日から亡くし続けたいろいろなものを継ぎ接ぎしている内に、クラーリィは残っていたはずのものまでどんどん失っていってしまったようだ。
 サックスに触れることなんてもちろん叶わず、腕は虚空を裂くだけだった。彼が立っているはずの場所に質量なんてない。あるのは空気と、クラーリィの願望のような幻だけ。
 作り物の腕が鉛のように重い。いつもはそんな重さを感じることなんてないのに、今夜はやけにそれが重い。
 サックスは「ばかだね」と言った。
「わざわざ現実を再認識してどうするのさ」
「おまえが死んで、俺がこの国の中でどんどん孤立していって、いつの間にやら独裁者としてこの国に君臨するようになって、その権利があるわけでもないのに女王の権限を振り回して、もの凄い数の部下を死なせまくって、生徒まで死なせて、人の足を漬け物にしてみたりいろいろ足を踏み外して、そのうえとうとうおまえみたいな幻を見るようになって、毎晩毎晩夜更かししてはこうやってお喋りしている現実をか」
「分かってるんなら、そろそろこういうの止した方がいいと思うな。止せよ、やめろよ、この辺でやめとけよ。人間止める前に踏み留まれよ。俺はそんなの望んじゃいねぇよ」
「……せっかく出てきたのに、おまえを無視したら、また、見えなくなっちゃうじゃないか……」
「人の話を聞けよ!」
「おまえこそ、俺が望んで出た幻なら大人しく俺の話相手になってろよ」
「……それがおまえのためにならないから俺はおまえに説教してるってんだよ」
 キッ、とクラーリィがサックスを見据える。その瞳に宿っているものはただ一つ、怒り。
「おまえにその資格はない」

 パーカスたちには見えないのかもしれないがそれをクラーリィは知らない。サックスは決まってこういう、深夜のこの執務室にしか現れないから。パーカスが居るときに姿を現したことはない。
 聞いたことはないけれど、きっとパーカスが一人の時にパーカスの前に姿を現したこともないのだと思う。こいつの成分比も、サックス本人の残留意志が半分、もう半分はクラーリィの妄想といったところ。話している「サックス」は、たまにクラーリィしか知らないはずのことを知っていたり、逆にサックスしか知らなかったはずのことを教えてくれる。だから、きっとパーカスたちの前にはそもそも現れられないのだと思う。
 本人のようで本人でないのが「彼」なのだとクラーリィは考えている。魂を呪縛している? 知ったことか。土壇場でクラーリィを裏切ったサックスが悪い。あの時クラーリィの命令をきちんと守っていればサックスは死ななかった。だからこれは罰だ、彼の罪だ。
 未来永劫苦しめばいい。地上に繋ぎ止められてどこへも行けないことを苦しむがいい。そして身を落とすこの俺を見て笑えばいいじゃないか。切っ掛けの一つはおまえが作った。作ったのは確かにおまえ!
 罪悪感だってきっとそのうち甘い蜜になる。

 サックスはしばらく何も言わなかった。そのかわりじっとクラーリィの顔を眺めていて、その内ふと口を開いた。クラーリィ、とサックスは呼び掛ける。
「なにその目。おまえ、よりにもよって俺に救いを求めちゃうわけ?」
「何か不都合でも?」
「大神官のくせに、司聖官のくせに、葬祭なんてお手の物のくせに、弔い一つしないおばかさん。俺はともかくシコードの弔いくらいしてやれば? なんで漬け物なんかにしてるのさ。だからこんなことになっちまったんだぜ、きっと?
 ……まぁいいや。ねぇ、クラーリィ。俺にはね、もうおまえを助けてあげられないんだよ」
 おまえが一言弔いの言葉を呟けばそれだけで俺は消えるのに、とサックスは言う。もうそれは何度も聞いた。クラーリィに実行する気があるのならとっくに実行している。実行に移す気なんて最初からない。この先もきっと永遠にない。
 なぁ、とサックスは諭すようにクラーリィの顔を覗き込む。頑なな子供をあやすかのような柔らかい声色で話しかける。
 そんなもので絆されるクラーリィはもうとっくの昔に死んでしまった。
「思い出してごらんよ。俺はね、最後の最後でおまえの命令を無視ったクズな部下だった奴だよ。そんな奴の幻に縋ってどうするんだよ。どうにもならんよ。そんなの頭のいいおまえのことだ、分かってるだろ? あーだめ、いつか愛想尽かすだろうって話しかけ続けた俺がばかだったよ。もーなんも言わない。黙ってる」
「嫌だ」
「……黙ってても、おまえの意志がある限り、俺は消えられないの、クラーリィ」
「そう、だから、暇を持て余してさっきみたいに俺に話しかけてくればいいんだよ。それがおまえの地獄の仕事。どうせおまえ地獄に堕ちたんだろ」
 言った後すぐに「ああ、まだか」とクラーリィは呟いた。サックスの魂を呪縛して離さないのは紛れもなく自分だった。己が彼を忘れない限り、思い出にしない限り、彼は天国にも地獄にも行けない。目の前に現れるまではどこかにいたのだろうけれど、別にそんな話に興味はない。
 いや、とクラーリィは少しだけ思い直す。自分も堕ちるであろう地獄の話なら少し聞きたい。でも、死んだ後のお楽しみに取っておきたい気持ちもある。やっぱりサックスの話に耳を傾ける価値なんてなさそうだ。
 視線を落とす。デスクには先日のグローリアの襲撃で大破した物品の修繕に関わる書類が山積みになっている。そういえば、あちら様は随分と便利なものをこの二十年間で開発したらしい。道徳を忘れた人間なんて、魔族と何も変わらない。その境界は実に曖昧だ。けれど、だからこそクラーリィは彼らを魔族のようだと糾弾することができるようになった。
 自分のことを棚に上げて。
「あ、そうだ、なぁ、この間のあれ、見ただろ、グローリアの連中のあの細胞みたいのを使ったら、おまえが、」
「俺はさっき人間止める前に踏み留まれって言ったはずだ!!」
 珍しく激昂したサックスがクラーリィの言葉を遮った。クラーリィは口を噤む。つい、言うはずだった言葉を飲み込んでしまった。
 言うタイミングを逃した、最後まで言い切ってしまうつもりだったのに。
 ああ、名案だと思ったのに。
 それを素直に口にしたら、この世の終わりとでも言うべき顔をされた。サックスの顔には失望が浮かんでいた。勝手に幻想を抱かないで欲しいものだ、実に迷惑。
 おまえも、周りも、「クラーリィ」なんていうただの人間一人に何をそんなに期待しているわけ? この世には、ほんの一握りのクラーリィの味方になってくれる人間と、残りの大多数、クラーリィに責任やら面倒ごとやら全てを押しつけてヘラヘラ笑いながら生きている人間の二通りしかいない。
「クラーリィ、もう俺の言葉はおまえには届かないの」
「届きそうにないな、死人の言葉なんて、最後に俺を裏切るおまえの言葉なんて、信用ならんな」
「……見事なブーメランだ。クラーリィ、おまえの勝ち」
「いつだって、時代は生き残った者の勝ちなんだよ。俺は生き残った。おまえは死んだ。だからもうおまえは俺に手を出せない。俺はおまえを貶めることができるが、おまえはもう俺を貶めることはできない。
 なぁ俺、あの細胞欲しい。あいつらは滅ぼして、あの技術だけ欲しい。欲しいんだ。絶対役に立つよな」
「クラーリィ、それをしたらおまえは本当に地獄に堕ちる。やめろ、道を踏み外すな、踏み外さないでくれ。かつて友人だった俺からの心の底からのお願いだよ」
「……サックス」
 先程の『俺の言葉はおまえには届かない』というサックスの言葉をクラーリィは実感した。こんなにも心に響いてこない訴えがこの世にはあるのだとよく分かった。サックスの必死そうな顔色や、声色はよく分かる。心の底から彼が己に話を聞いて欲しいと思っていることも、この訴えを聞き入れて欲しいと願っていることもよく分かる。
 なのに、この言葉に対する感情は何も沸かない。クラーリィの心は微動だにしない。微塵にも動かない。
 申し訳ないなとすら思った。目の前のサックスの姿をした亡霊の必死の訴えを、受け流して心にも留めないことを。この胸の内に、その言葉を受け止めてやる余裕も優しさも既に失って久しいことを。
「俺の前にもう道なんてものはないよ。俺は随分昔に路頭に迷ってしまった。俺が歩むべき道はない。誰かを巻き込むつもりもない。……パーカスにこれ以上心労を掛ける気はないんだよ。だから話相手はおまえでいい」
「クラーリィ」
「うん?」
 笑顔を浮かべたつもりが、窓ガラスに映ったクラーリィの顔は随分と引きつっていた。あんまり幻相手に独り言を言っていると、その内本当に現実に戻れなくなってしまう。
 サックスはクラーリィの手元を覗き込んだ。積み上げられた書類の山は、いつ片付くのだか検討もつかない量だ。手を出したって、触れられやしないのだからどうしようもない。ただ彼は、黙って目の前でいろんなものが壊れて失われて消えていくのを眺めていることしかできない。
「……ごめん」
 そう、とクラーリィは言った。不思議と晴れ晴れした気分だった。
「俺はおまえを許さない」と言ったら、サックスは泣きそうな顔をしてまた「ごめん」と謝った。
 自業自得だ、と付け加えようと思ったけれどこれ以上苛めるのは趣味じゃないと思い直して言うのを止めた。

 カチカチと時計の音だけが響く深夜の執務室。中にはクラーリィしかいない。



 ***END



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