傲慢 1
 我が名は傲慢、汝が暗闇を黎明の如く照らす者。


 ***


 目覚めはいつだって最悪で、口の中に残るものは訳の分からない苦みばかりで、そして今日も腹立たしい朝日がこの部屋に差し込んでいた。
 目が覚めたのだ。俺は悪夢から解放された。
 寝間着は寝汗で湿っていて非常に不愉快極まりなかった。苛立たしさをそのままに脱ぎ捨てる。どこかにぶつかって何かが落ちたようだが、後々冷静になってから拾えばいいと考え何もしなかった。
 立ち上がる。少しふらつく。まっすぐなはずの板張りの床が歪み、奇妙な模様を作り出す。
 正気を取り戻せ。ここは現実、夢は終わった。今は朝だ。暗闇は追い出され、窓から僅かに聞こえる小鳥の囀りが輝かしい一日の始まりを告げている。
 自分に言い聞かせるように、朝だ、と声に出す。次いで「おはよう」と呼び掛けた。返事をする者は誰もいなかったが、その一言でこの場に留まる悪夢の余韻は吹き飛ばされたような気がした。

 服に袖を通す。思考はだいぶ正常を取り戻し、鏡に映る己の姿も至って正常で、陰りなるものは見あたらない。
 これでいい、とクラーリィは独りごちる。
 鏡に映る己の首もとを見つめる。無論無傷だ。いつだか分からない時期に付けた古傷は若干残っているものの、それ以外には何もない。綺麗なものだ。
 昨日は何が原因で死んだのだっけ、とクラーリィは記憶の糸を辿る。
 ぱあんと潔く首から上を吹っ飛ばされたのだったか。それにしては傷がない。そもそも鏡を見ているこの目はどこについていると思っている。無論頭だ。頭はきちんと首の上に乗っている。
 頭を打ったのだろうか? 盛大に陥没でもしたか? だが残る鈍痛なんてものもないし、鏡に映る己の頭は至って正常だ。血を流した形跡も見当たらないし、どこかが陥没しているということもない。問題はなさそう。
 では、胸を貫かれて死んだのだろうか? 服をまくってみても、首もとと同じく古傷が若干残るだけで、特に真新しい傷なんてものは見あたらない。致命傷に至る傷は胸に存在していない。胸の痛みも、どちらかというと心理的な要素が大きく、外傷とはかけ離れたものに違いない。
 手、足、とクラーリィは順番に己の身体を点検していく。手を吹っ飛ばされて失血多量で死んだ。大丈夫、そんな様子はない。両方の手はくっついているし、繋ぎ合わせた跡もない。足も同じだ。動かそうと思えば指の先であろうが思うがまま動かせるし、コッペリアの如き操り糸も見つからない。
 クラーリィはその全てを己が納得するまで確かめて、大丈夫だ、と結論づける。
 大丈夫、あれは夢だった。悪夢だったのだ。己は死んでいない。死んだのは夢の中の話で、現実そんなことは起こらなかった。記憶の糸の先に繋がっているのは「昨日」のものではなく、昨日と今日の境目の冥府におけるものだ。
 最近の己は、眠りと冥府がこんがらがっていて、眠りという名の死に足を突っ込んでいるのかもしれない。毎朝なんとかして地上に戻ってきてこれているだけ幸いではないか。あのまま冥府に留まっていては永遠に目など覚めないに違いない。そもそも、永遠の眠りなんて表現で死を演じるところからして、眠りと死とは境界の曖昧なものだ。一度眠った者がまた目覚める確証がどこにあるというのだ。朝になって冷たくなっていないという確証は一体どこに?
 そうだ、きっと、冥府で死んでいるからこそまたここに戻ってこられているのだろう。あのまま冥府に居所を見つけ留まってしまっていては、いつまでもあの地に留まるばかりで、魂はやがて永遠に繋ぎ止められてしまう。どちらかというと追い出されているのかもしれない。悲しいことだ。
 クラーリィは考える。冥府は居心地が良い。殺される直前まで、本当に居心地が良くて最高なのだ。だからいつまでも留まろうとするし、ベッドに魔除けやそれに類似した何かを置こうともしないし、「彼ら」が己を殺そうと襲いかかってきても無抵抗で殺されている。
 ああ、俺は彼らに殺されなくてはいけないようなことをしてしまったのだな、なんて後悔をしながら。
 笑顔で斧やら鎌やらを振りかざす彼らの姿はなかなかにシュールだ。現実めいていて、けれどあり得ないくらいに非現実的。その笑顔の裏には驚くべき殺意が揺らめいているし、振りかざす軌跡に躊躇なんてものは見られない。彼らはクラーリィに寄せる信頼や親愛をそのままに、それと同じくらいかそれ以上の殺意でもってクラーリィに刃物を振り下ろす。だから大抵死ぬときは一瞬だ。痛みすらも一瞬で、次に目が覚めるとき己は何事もなかったかのような陽光の降り注ぐ自室にいる。
 生ぬるい血だまりの中に倒れるクラーリィを、大抵彼らは貼り付けた笑顔のまま見下ろしている。たまに目が残っているときは、鈍色に変色してゆく血液が彼らの足下を浸食していくのをずっと見つめている。喉が残っているとき、「靴が汚れてしまうよ」と声をかけることもある。彼らが答えてくれたことはない。ひたひたと凶器から血のしたたり落ちるのを、視界が暗転するまでずっと見つめていたこともある。
 綺麗な靴を履いているのに、勿体ないよ。俺の血なんかで汚してしまっては。血は落とすのがなかなかに大変な代物だ。後々苦労するよ、だからほら、そこを退いて。汚れてしまうよ。汚すべきじゃない、君は、あなたは、あなたたちは、そんなことで汚れるべき者ではなかったじゃないか。
 もし己が何か悪魔にでも取り憑かれているのなら、たまには大神官らしく仕事をして、眠りの前に祈祷文を読み上げるなり、寝所を聖別するなりすればよいのかもしれない。そうすれば悪魔はクラーリィの夢に入り込むことも、クラーリィの魂を肉体から引き剥がし冥府へと連れ込むこともなくなるのかもしれない。
「でもそれじゃ、寂しいよなあ」
 いつから始まったのか思い出せなくなった毎夜の悪夢は、悪夢であると同時に幸福な時間でもある。あまり眠った気がしないから身体には宜しくないだろうし、こうして朝正常な心を取り戻すまでにだいぶ時間を要することから精神的にも浸食が進んでいると思われるが、それでも何かクラーリィを惹き付けて已まない魅力が薄暗い冥府には存在する。悲しいのは、あんなにもはっきりと笑顔であると覚えているのに、当の相手が誰なのか、さっぱり思い出せないことだ。
 下手人は単独のこともあるが、大抵の場合複数だ。貼り付いた笑顔が剥がれ落ちることはないが、クラーリィにとったら見慣れた笑顔であることだけは分かっている。けれど肝心の、誰なのか、という部分だけがすっぽりと抜け落ちて目が覚める。彼らの着ていた服の一片ですらも思い出せた試しがない。こうして毎朝記憶の糸を辿っても、思い出せることは己の殺害方法ばかりで、誰にやられたのかは毎度毎度さっぱりだ。
 君は一体誰なの、と問い掛けようにも相手がいない。殺される時には誰だか分かっているのだから、冥府においてその質問は浮かんできたことすらない。
 そういえば、なぜ殺すの、とも聞いたことがない。漠然と殺されるだけの理由がクラーリィにはあることだけを「知って」いて、それに対して疑問を抱いたことがないような気がする。相手が笑顔のまま凶器を振りかざすことだってよく考えれば奇妙な話だ。本来はあり得ない、殺意と親愛とが同居している。まあ、多くの場合そんな問いかけをする猶予なんてものは与えられず、突如彼らは笑顔の裏に殺意を宿し、いつの間にやら握り締めていた凶器を何の前触れもなくクラーリィの急所めがけて降り下ろす。
「なぜ?」と、クラーリィは鏡の中の己に向かって問い掛ける。返答は勿論ない。鏡の中の己もまた、その問いに対する答えを持ち合わせていない。
 鏡は鏡だ。馬鹿馬鹿しい。
「なぜ殺すの? 俺が冥府にいては困るから? 冥府に居残られては、困るから? 俺はまだこの現世に残ってやらねばならぬことがあるから?」
 答えが得られないと分かっているからこそ、気軽に言葉にすることができる。クラーリィは溜め込んだ疑問に一つ一つ、言葉という形を与えていく。
「なぜ殺すの? 追い返すにしても、もっと心優しい方法があるんじゃないか? なのにあんな鋭利な刃物を使って、あなたがたは俺が憎いの? 殺したいの? 追い返すついでに殺しているの? それとも憎いがために殺していて、その副産物として俺の現世への帰還があるとでも?」
 すう、と息を吸う。鏡の向こう側の己は、少しだけ困惑したような顔をしている。
「俺は何か、あなたがたに恨まれるようなことをしただろうか」
 今度ばかりはそうだと鏡の中の己が肯いた。クラーリィは知っている。なぜかは全く分からないけれど、己が殺されるだけの理由があることだけをクラーリィは知っている。恐らく夢の中の己はその詳細な理由をも覚えているのだろう。現世に戻ってくる際に、下手人の顔などと一緒にその理由も置いてきてしまう。きっと現世に持ってきてはいけない種類の記憶なのだ。
 クラーリィはじっと鏡を見つめる。深呼吸をする。
 そうか、と呟いた。
「……謝ろう。そうか、謝ればいい。ごめんなさいとか、済まないとか、とにかく謝ろう。俺は謝らなくてはいけないのか。その上で殺されよう。いつまでも話が進展しない理由はそれか」
 何度も何度も壊れたレコードのように、夢は同じ展開を繰り返す。変わることといえばクラーリィの死因くらいで、その他に変化は何一つとして見られない。
 はじめは和やかな談笑。穏やかな時間。望んだ幸福の時間。しかし突如として彼らには殺意が宿り、彼らの手には鋭利な凶器が握られ、クラーリィめがけてそれを降り下ろす。クラーリィは抵抗する間もなくすぐに死ぬ。その間、彼らはずっと笑顔だ。何も言わない。
 ……何も言わない?

 記憶に齟齬がある、とクラーリィが首を傾げたところでドアがノックされた。時計を見る。定刻を過ぎている。時間になってもやってこないクラーリィを心配してデビットが様子を見に来てくれたのだろう。
 おはよう、とドアに向かって呼びかける。はい、とデビットの声がした。クラーリィはすぐに「心配をかけて済まない」と謝罪し、踵を返してドアへと向かった。
「遅くなって済まなかった」と謝りながらクラーリィはドアを開けた。目の前にはデビットが立っていたが、一番に視界に入り込んだのはデビットではなく、デビットと己の間に存在するそれはそれは美しい、銀色のナイフだった。
「あ」と、クラーリィが呟く。違った。ここは出口ではない。
 首が飛んだ。


 ***


「おや、おかしい。今度は下手人の記憶があるぞ」
「どうされましたか」
「やあ、おはようパーカス。実はおまえに殺されてしまってね」
 笑顔のまま物騒なことを言うクラーリィを、怪訝な顔をしてデビットは眺めていた。きっと寝ぼけているか、寝ているうちに頭でも打ってしまったか、あるいは疲労が蓄積してやや精神に悪影響でも与えているのではと考えているのだろう。
「夢の中でね」とクラーリィは付け加えた。
「私は何か、悪いことでもしましたか?」
「いいや、全く」
「では隊長の方が、私に何か殺されるほどの後ろめたい記憶をお持ちで?」
「……ううん、それもなさそうだ。おまえに多々迷惑を掛けていることは自覚しているが、殺されるほどのことはしていないと思うんだが、どうかな」
「私が隊長を恨んだことなど、一度も」
「そう。どうもありがとう、パーカス。おまえにはいつも感謝しているよ」
 クラーリィはそろりと首筋を撫でる。まだ食い込んだ刃物の感覚が少しばかり残っている。一瞬刃物に触れたときのあの冷たさが、背筋をぞくりと這い上がる。冷たさと、生ぬるさと、妙な現実感と浮遊する非現実感。
 よくよく考えるに、あんな小さな刃物一本、しかも片手で、物理的にクラーリィの首を飛ばせるはずがない。だからあれはやっぱり夢で、起きたと思ったところまで全て夢だったのだ。夢の中で目を覚まし、この際限のなさそうなループに陥った原因と、これからどう脱出できるかと考えて、出口を見つけたと思ったもののそれは間違い、呆気なく再び殺されてしまった。
 でも、とクラーリィは考える。下手人のうちの一人が分かったことだけでも進歩かもしれない。確かにデビットのことを己は信頼していて、その直前まで談笑していようと問題はなさそうだ。不思議なのは、彼は決して冥府の人ではないから、そもそもクラーリィが迷い込んでいる冥府に彼の魂は存在しないだろうという点。
「……まあ、いいか」
「大丈夫ですか?」
「んん、大方俺に原因があるのだろうしね。真面目に魔除けだの何だのしようとしない俺が悪いんだろうと思うよ。夢魔に取り憑かれでもしたかな」
 大丈夫だよ、と言おうとしてクラーリィは顔を上げた。そのまま立ち上がって本棚の本を取ろうと思っていたが諦めた。
 そんなことをしている余裕は自分にはないらしい。冷や汗が伝うのが分かった。黙って立ち上がる。デビットが不思議そうな顔をする。
 時間。時間がなさそうだ。
「ところで、パーカス」
「何でしょう」
「これは夢かな。それとも、現実だろうか」
 デビットが首を傾げる。クラーリィはこの時点で半ば諦めていた。己の敗北が目の前に見える。
 さっきから、と呟く声が掠れた。
「さっきから、おまえの横でずっと黙っている人影が気になるんだ。その人は、どうして黙っているのかな」
「……? 何のことです? 誰も、いませんが」
 デビットがまるで分からないという顔をして、クラーリィの指さした方を見やる。彼にとってその場には何もなく、クラーリィの言う人影なんてものは勿論見あたらないし、気配すらも感じない。
 しかしクラーリィには見えている。クラーリィはデビットとの会話を切り上げて、人影に向かって話しかけることにした。
 これもきっと出口ではない。けれどまた一つ前進だ。彼らはいつだって何も言わないから、仮に気付いた状態のクラーリィが話しかけたところでやはり返事はないに違いない。
 それでもクラーリィは話しかける。久しぶり、と言ってみた。本当は昨夜も会っているのかもしれないし、もしや毎夜会っていて相手からしたらクラーリィの顔なんてうんざりするかもしれないほどに見飽きているのかもしれないが、クラーリィにとったらきっと久しぶりに違いはなかった。
 無論、返答はない。
「素敵な笑顔だ。やっぱり笑顔がいい。その方が似合っているよ」
 俺、と思うがままに言葉を繋げてみる。下手に考えて話していると、話し終わる前に殺されてしまうかもしれない。時間がない、はやく言い終わってしまわないことには。
「俺は、おまえの、君の、あなたの、その笑顔が、好きだったよ」
 デビットが不安そうな顔でクラーリィのことを伺っている。しかし時間がない、早く、早く言いきらないと。
「なのに、笑っているのに、どうして泣いているの、どうしてその目には涙が溢れんばかりに溜まって、」
 今にも泣きそうな顔をしているの、と続けようとしたが叶わなかった。涙目のその人は、躊躇することなく金色の斧を振りかざし、クラーリィの脳天めがけて力一杯振り下ろした。
 朝日を受けた金色の斧の美しさといったら見事と言う他なかった。デビットの悲鳴が遠くに聞こえた。

 そんなわけで、俺は何度目か分からぬ死を迎え、恐らくまた殺されるために目を覚ます。
 何度も何度も、出口の見えぬ冥界を、俺はどうやら漂っているらしい。



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