傲慢 3
 我が名は傲慢、汝が暗闇を黎明の如く照らす者。


 ***


 下る階段は短かった。あの長い階段を反転させると、こうも短くなるなんておかしな話だ。生者が死ぬことは実に容易いが、その逆は許されぬ神の掟ということらしい。
 あの扉の先にどんな世界が広がっているのだろうかとか、もしその先が広大な荒れ地であったりしたらどうやってクラーリィを探そうとか、予想外に邪魔が入ってしまったらどうしようとか、いろいろなことを考えている内にあの懐かしい門の前に辿り着いた。
 この二十年間、シコードがくぐることを徹底的に拒んで逃げ続けた扉。逃げると追ってくるくせに、求める者の前には簡単に現れる。鍵はなかった。押せば扉は開きそうだ。
 シコードは覚悟を決めた。この門をくぐり、戻ってこられることを祈ろう。私は戻ってこなくてはならない。できたらクラーリィを連れて。そう、クラーリィは二の次だ。あくまでもシコードの掲げる第一目標は己の帰還。
 一見美しい装飾のなされたそれは、まるで冥府の門とは思いがたい。シコードは深呼吸を一度、澱んだ空気を力一杯吐きだした後、ゆっくりと扉を押した。
 ギギギ、と不気味な音が聞こえる。背筋に何かが這いそうな、独特な嫌な音だ。金属を爪で引っ掻いた時の音に似ている。けれどこの扉を押したクラーリィの横顔は確かに笑顔だった。
 扉の先、目の前に広がったものは、際限のなさそうな闇だった。
 足下は汚泥に塗れていた。だが、人の世でいう汚泥とは少し違う。これは人の魂が溶けて形を失ってしまったものだ。シコードは一番に、クラーリィが既にこの汚泥に呑まれてしまったことを考えた。汚泥は毒素のような妙な色をした瘴気を吐き出していて、シコードの魂をも溶かしてしまおうとその手を伸ばしつつあった。
 長居は無用だ。早くクラーリィを探し出さなくては。そして、探し回って見つからなかったら、とっとと諦めて上へ戻ろう。
 まだ命を保っているかのごとく、汚泥は微妙な揺らぎを見せていた。
「絶対に嫌だ……」
 二十年間あの扉から逃げ回っていて実に正解だったとシコードは思った。こんな所に来たいだなんて正気の沙汰ではない。こんな所に魂の一片ですらも持って行かれたくない。瘴気を振り払うように、シコードは一生懸命に汚泥の中を進む。足を取られぬようはじめはそれに気を遣っていたが、そのうち慣れて普通に歩けるようになった。視界も闇に慣れて、やがてその一帯を見渡せるようになってきた。
 ここに空はないようだ。太陽も、月も、星も、何もない。虚無の空間だ。死んだ人の魂がただ無へと帰って行くだけの空間。空間ですらない。光すらも吸い込まれて消える。

 案外あっさりとクラーリィは見つかった。まだ汚泥に呑まれてはいなかったようだ。数十メートル先に、小さく蹲っている。この闇の中でも金色の髪が目立った。けれど、地上で見たときのような光はない。
 彼の回りには、濃い瘴気が漂っていた。そして彼は笑顔だった。
 急いで近寄り、シコードは声を掛ける。何と呼ぼうか一瞬迷ったが、面倒くさくなって「おい」とだけ声を掛けた。人違いの可能性も少しだけある。まあ、こんな所にいながらも笑顔でいられる者なんてそういないだろうから、やはりクラーリィなのだと思う。
 振り返った顔は、確かにクラーリィ本人のものだった。ただ、瘴気で覆われていてぼんやりとした輪郭しか確認できない。
「クラーリィか?」
「そうだよ」
 続く言葉を言おうとした途端、視界が一転、明るい部屋に移動した。移動した、というよりそういう風に認識した、という表現が正しいかもしれない。ここは冥府、全ては幻だ。
 クラーリィの見ている幻に引き込まれたのだろうとシコードは瞬時に判断した。下手に動くことはせず、辺りの様子を窺う。どうもここは彼の居室のようだ。私物と思われるものが転々と部屋に転がっている。目が眩しい。折角闇に慣れたというのに、この部屋はやけに輝かしい。一見するとごく普通の私室のように見える。
 ただ、少しばかりの気がかりもあった。ものが散乱しているような気がする。少なくとも人を招き入れる部屋ではなさそうな雰囲気だ。
 違和感。
「珍しいな。おまえが訊ねてくるなんて」
「珍しいなんて話ではなく、私がおまえを訊ねたのは正真正銘これが一度目だ」
「そうだったか? 俺はもう、何度かおまえを迎え入れた気がしたけど……まあいいか。記憶が曖昧なんて毎度のことだ。それよりおはよう、どうだ、紅茶の一杯でも?」
「……クラーリィ、おはよう、は私の台詞だよ。起きるんだ」
「起きているよ?」
 クラーリィは部屋の中央に突っ立っていた。じっと上から下まで眺めてみたが、特に異変はなさそうだ。といってもこれすらも幻、クラーリィの魂本体がどうなっているかは分かったものではない。
 少なくとも、クラーリィが未だ他人をここまで鮮明な幻に引き込むだけの力を持っていることだけは分かった。
「何がいい。アッサム、ダージリン、ディンブラ、キャンディーなんてのもあるぞ。最近来客が多いから、いろいろ取り揃えてみたんだ」
「とりあえず、こんな風にいろんな人間を引き込むことはしてみたわけだ……」
「何を言ってる? それよりどれにするんだ、それともコーヒーがいいか?」
「要らないよ。クラーリィ、話をしよう。大事な話があるんだ」
「でも」
「クラーリィ、座ってくれ。話がしたい。おまえに――」
「やあ! 今日は君か!」
 突然クラーリィの顔が明るくなって、シコード以外の誰かに向かって話し始めた。声も少し喜色に上擦っている。
 シコードは彼の名前を呼んでみたものの、効果はなかった。
 クラーリィは最早シコードを無視して、シコードの隣の空間を見つめていた。周囲を伺ってみたがシコードには何も見えない。恐らくクラーリィにしか見えていないのだ。存在すらも怪しい。
 クラーリィの話しかけている相手の捜索は諦め、シコードは黙ってクラーリィの方に向き直った。クラーリィは一方的に話をし続けている。会話から、なんとなく相手方の返答はなさそうだと見当が付けられた。
 クラーリィは、返答のない来訪者にずっと話しかけているらしい。一瞬シコードを追い返すための演技かとも思ったが、それまでの紅茶のくだりを考えるにその可能性は薄そうな気がした。
 ここはクラーリィの幻の中で、壊れかけの魂ばかりが存在する冥府だ。地上での常識に囚われない方がよさそうだ。
 シコードは黙ってクラーリィの顔を見つめる。
 何という笑顔だろう。こいつ、ここまでいい笑顔のできる男だったのか、とシコードは思う。前情報とはだいぶ印象が違う。なんて……なんて、そう、なんて無邪気な笑顔なのだろう。嬉しそうで、楽しそうで、今が幸福ですという感情が表にいっぱい溢れ出しているこの様子。
 冥府でこの男は、一体「なに」の幻を見ているというのだろう。
「そりゃまた綺麗な鎌だね。装飾が綺麗だ。燻し銀かな? 風情があっていいね。なあ、ところで」
 笑顔で何を言うのかとシコードは己の耳を疑った。クラーリィは、シコードの隣にいると思わしき人物に向かって手を伸ばす。
「ごめんな」
 それと同時に派手な血しぶきがシコードの視界を遮った。きっと、隣に立っていた人物が、クラーリィ曰く燻し銀の鎌を振り下ろしてクラーリィのことをばっさり真っ二つにしてしまったのだろう。血しぶきの先に、どう考えても即死だと思われるクラーリィの屍体が見えた。

 ぷつん、と電気の切れたような音がした。
 クラーリィの死とほぼ同時、幻が溶け先程の暗闇へとシコードは戻された。足下にクラーリィが蹲っている。目が慣れたのか、それとも先程の幻で耐性でもついたのか、相変わらず瘴気塗れではあったが先程よりは鮮明にクラーリィの姿を目視することができた。
 うえ、とシコードは素直な感想を漏らす。
「おまえ、気持ち悪いな」
「なにが?」
「足が片方ない。手も片方もげているな。頭は血だらけだし、その様子だとどこか欠けていそうだな。凝視するのはやめておくか……片目がないぞ。前が見えているのか? 周りは血だらけだし、どこの陰惨な殺害現場なんだか」
「何を言ってる? 俺はこの通り、五体満足だし怪我なんて一つも」
 クラーリィは何事もないかのように、きょろきょろと手や足を見て回った。なるほど、この怪我の具合はクラーリィには知覚できていないらしい。元々冥府は肉体の存在しない、魂だけでうろつく場所だ。だから大半の者は、地に蠢く汚泥に取り込まれ、次第に一体化していってしまう。残された先は「無」だ。死の先の、意識すらもなくなる無。存在のなくなる無。
 なのでシコードは見ているクラーリィは、すなわちクラーリィの魂の状態ということになる。
 手や足、頭から溢れ出す黒ずんだ血液は、足下でうねる汚泥へと吸い込まれて一体化していく。黒ずんだ血液は、黒ずんだ大地へと。土塊は土塊へ。こうして少しずつ人の魂は冥府へと捕らわれる。
 まだクラーリィとしての意識があるうちに来られて良かったか、とシコードは一人溜息をついた。こいつは愚か者だ。どこまで欠けても痛みすらも感じない。それは、本人がそれを「嫌だ」と思っていないからだ。
 積極的に汚泥に飛び込もうとはしていない。むしろそれには反抗している様子だ。しかし、いざ己が砕かれてその一部が汚泥に吸い込まれそうになると、それについては反応を示さない。それどころか、そうやって己が欠けていくことにすら気付いていない。
 クラーリィの目的は、ただただ冥府への長居であって、自殺願望のようなものではないのだろうとシコードは考えた。これならば説得も容易いかもしれない。少なくとも、帰らない、俺はここに残ってこのまま消える、とは言わなさそうだ。
「はあ、おまえはさっきみたいに何度も何度も殺されているわけか」
「……ああ、そうだが、……うん、あれ? ここはどこだ?」
「冥府だよ。おまえの幻の、外の」
「……」
 クラーリィはまるで分からない、という顔をしてみせた。シコードは彼の理解が追いつくことを待つことにする。このまま瘴気から引っ張り上げて抱え上げ、扉へと逃走してもいいような気もしたが、とりあえず話はして一応の納得を得ておかないと面倒そうな気がした。
 おそらく冥府にいる間は安全だ。だが、扉を出た瞬間にタブーが発動する。振り返ってはいけない。その手を離してはいけない。つまり、クラーリィに手を振り払われてしまっては一環の終わり。
 不意にクラーリィが顔を上げた。「あっ」と彼は言う。
「ごめん!」
 シコードが何か反応を示す前に、残っていた片腕が派手な血しぶきと共に宙へと飛んで消えていった。

「あーあ」
「おい、腕が消えたぞ」
「うん? 今、また一回殺されただけだよ。死因は何だったかな。忘れたけど」
「おまえ今、両腕もげているぞ」
「だから、俺は五体満足なんだって」
 シコードは早々に会話を諦めた。こいつはダメだ。とりあえず、現実だけを話して理解するかどうかは本人に任せよう。まともに会話をしようとすればするだけ、疲れるだけで実りもない。
 クラーリィにも、シコードとまともな会話をしてくれる気はないような感じだった。どこまでも招かれざる客。
 何にせよ、足下からじわじわと這い上がってくる瘴気がシコードを焦らせていた。ほんの少し冷たい空気に似たそれは、やけに重苦しい「なにか」を背負って蠢いている。元は人の魂なのだろうから、その中でも特に心残りだとか怨念だとか、そういう負の感情が浮かんでは形を失い、浮かんでは漂い、こうして未だに生を保っているシコードに嫉妬しているのだろう。
 取り込まれるのだけは嫌だ、とシコードは決意を新たにする。

 ことの顛末を簡単に説明したところ、意外にもクラーリィはあっさりと「そうか」と呟いた。
「じゃあ今のお前には、俺がそれはもう酷い姿に見えているというわけか」
「そうだ」
「手も足もない?」
「片足だけかろうじて残っているかな。残りはない。頭も欠けてる」
「そうかあ。そりゃ、不便そうだなあ……」
「クラーリィ」
「うん」と、やたら覇気のない返答をした。目に光がない。
「帰るぞ。連れ帰ってやる」
「そうか分かった。だけど、ちょっと……ああ、ごめんよ、おもてなしもできなかったね」
 ぱしゅんとやけに軽い音がして、今度は残っていた最後の足が汚泥の中に沈んでいった。どうやらクラーリィが己の幻にシコードを引き込んだのは最初の一回だけで、残りの二回はシコードを幻の中に引き込む余裕すらもなく、死と生とを繰り返していたらしい。
 彼らとクラーリィは、壊れたレコードのように生死を弄んでいる。
「あっという間に欠けたな。もう残り時間が少ないということか。背負うぞクラーリィ、その短い手を少しでもいいから私に回せ。支えてやるから。それでもって、とっととこの陰湿な冥府から出ていこう」
 クラーリィは大人しくシコードに背負われてくれた。冥府に留まるとか、そういう駄々を捏ねる気はなかったものと思われる。
 さあ、とシコードが声を掛けると、クラーリィは実に素直に「うん」と頷いた。
「重いかな」
「魂の重さは一説によると21グラムだそうだ。つまり、どうでもいいくらい軽いってことだ。気にするな」
 シコードはクラーリィの収まり具合を確認すると、黙々と前へ進み始めた。扉のところへ。扉を開けて、門をくぐって、あの長い長い階段を上って地上へ。その間振り返ってはいけない。クラーリィを振り落とせばクラーリィは今度こそ助からない。
 クラーリィが何か背後から唆してくる可能性もなくはなかったが、元々希薄な関係の二人だ。シコードの心を揺るがすような言葉をクラーリィは知らないし、仮に言い当てたとしても事情を知らぬはずのクラーリィに言われたところで大したダメージにはならない。
 だから問題は、門を開けること、その後の長い階段を力尽きる前に登り切ることのたった二つだけだった。この冒険にはさほど影響はしないと思うが、クラーリィの魂の大怪我もそこそこ問題点ではある。肉体ではなく魂が傷付いているわけで、この先酷い攻撃でも受けなければその魂が無残に散るという可能性は少ないだろう。ただ、彼の魂の状態をわかりやすく明示する外見は、最初にシコードが目視した時よりも更に酷いものになっていた。
 べっとりとした生ぬるい血が、支えるシコードの腕に絡むようにして下へと流れ落ちていく。失血多量という概念もないのだろうか。この量が常に出ていたら、あっという間に失血死してしまいそうな様子だが。
「おい、しっかり掴まっていろ。門を開けるぞ」
「『開けゴマ!』と言ってごらん、シコード」
「何をバカな……」
 シコードの呆れ声を無視し、クラーリィは一転明るい声で「開けゴマ!」と唱えた。
 ギギギ、という錆びた音を立てて目の前の大仰な扉が独りでに開いていく。
「嘘だろう」
「なんだ、手が空いていないから俺が代わりに開けてやったのに。この扉は俺の言うことを聞くんだよ」
 なぜ、と問いかけたもののクラーリィから返答がくることはなかった。彼は、扉の先に広がる長い細い、先の見えない階段に目を奪われたようだ。
「長い」という独り言が聞こえてきた。
「降りてきたときと違う……」
「来るのは良いが、逃れるのは許さないという神の思し召しだ……とか、言うんじゃないのか。おまえらの文化だと」
「そうかもしれない。さあ、早く行こう。扉がしまってしまう」
 歩くのは私だぞ、なんて軽口を叩きながらシコードはその一歩を踏み出した。覚悟していたほど辛い出だしではなかった。背中のクラーリィも、背負い心地が最悪という点を除けば嫌がる様子も見せないし、前言通り感触が気持ち悪いだけで重いわけではないからそこまで苦痛にも感じない。
 心を強く持ち、この長い階段を上りきるという決意さえ崩さなければ何とかなるような気がした。幸先がいい、とシコードは独りごちる。
 扉の先は、踏み慣れた乳白色の霧が漂う虚無空間だった。生でも死でもない者が司る、世界と世界の境界。シコードが二十年間走り回っていた場所でもある。
 さあ、こことも本当にお別れだ。シコードは背後に扉の閉まる音を聞いた。追いかけてくるような輩はいなかったらしい。ますますもって幸先が良い。
「さあ、行こう」と半ば己に言い聞かせるようにシコードは呟いた。
 ここでようやく、クラーリィが「頑張れ」とシコードを労う言葉を呟いた。その言葉に心は籠もっていないような気がしたが、それでもそんな言葉が飛び出すようになっただけ前進と考えようか。なにせこの二人の仲は決して宜しくないのだから。
 とす、とす、とシコードは一歩一歩踏みしめるように、道筋にクラーリィの血痕を残しながら階段をゆっくりと上っていく。



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