傲慢 4
 我が名は傲慢、汝が暗闇を黎明の如く照らす者。


 ***


「ああ、なあ、シコード」
「なんだ。あまり喋るな、余計魂が欠けるぞ」
 背負うクラーリィは何が楽しいのかケラケラ笑っていた。喉もどこか欠けているらしく、たまに不愉快なヒューヒューという呼吸音が聞こえる。背に回した手は彼の生ぬるい血でべっとりと汚れているし、感触の不愉快なこと極まりない。
 魂がこんなにも欠けるまで、一体何度彼は冥府で死を迎えたのだろう。
 背中に僅かな衝撃が走った。同じくらいに、クラーリィの小さいうめき声が聞こえた。たぶん矢でも刺さったのだろう。シコードの干渉によって、彼が即死しなくなったらしい。追っ手は来ていないものと思ったが、そうでもなかったようだ。ただ、これまでかなり大仰な殺害道具を使っていたところが矢になると、相手の殺傷能力も多分に落ちていることが予想された。シコードの邪魔をするような力は彼らにはないだろう。だとしたら、我慢しなくてはいけないのはクラーリィの方ということになる。
 痛い、とクラーリィが呟く。ようやく現状を認識し、同時に痛みという感覚を取り戻したようだ。そりゃあ、こんな現実的に見て何度死んだか分からないような状態になっていては痛くて痛くてたまらないだろう。それでもまだこの様子を見るに、だいぶ麻痺しているように思われる。
「リセット……」
「バカ、これ以上手間を掛けさせるな。第一リセットすればするだけ大幅に魂が削れるだろうが。そのうち本当にこの汚泥と同一化してしまうぞ」
「シコード、俺さあ」
 クラーリィはシコードの話や説教などに何の興味もないらしく、噛み合わない独り言を続けている。
「俺、冥法王になりたかったんだよ」
「おまえは嘘つきだ」
「本当だよ。もう地上は制覇してしまったからさあ、次は冥府かなーなんて、思っていたんだ」
「嘘つきはそのうち地獄に墜ちるぞ。……ああ、もう墜ちたか。そうか、そうだな。おまえはそうまでして真実を語りたくないわけだ」
「……なんの?」
「いいよ、お黙り。黙ってそこでじっとしていろ。じきに地上だ。私は振り返らない。冥府に未練なんてものはないし、私の欲しいものは一つも冥府にはないからだ。おまえが今ここで暴れて背から落ちたとしても振り返らない。私はそこまでおまえに執着していないからだ。今のおまえの顔、酷いからな。片目ないし。できれば視界に入れたくないから、ちょうどいい」
「……よく喋るなあ」
「腹が立っているんだよ。おまえにな」
 しばらくクラーリィは大人しくしていた。シコードは黙って階段を上る。光なんてものはなく、そのうち上っているのか下っているのかすら曖昧になってくる長い道。生から死への旅路は楽でも、その逆は過酷なんてものでは済まされない。本来は辿ってはいけない道なのだから。
 それでもシコードは振り返らないし、疑わない。一度は通った道だ。クラーリィが落ちたら見捨てる。地上に帰りたいから。ここまでしてなおクラーリィが冥府に留まりたいと願うなら、もう諦める。それだけのことだ。
 私は地上に帰る、とシコードは心の中で復唱する。

 やがて、背から小さく嗚咽が聞こえてきた。痛いのか、辛いのか、ようやく自分のしたことの意味が分かってきたのか、それとも冥府への未練で泣いているのか、シコードにはさっぱり分からなかった。
 もともとクラーリィのことなんて知らない。掛けるべき言葉も勿論知らない。何かが違う気がして、どうした、とも問いかけなかった。
 ひっく、ひっく、と嗚咽だけが長く細い階段に響いている。
「う、う、うえっ、うう……」
「帰りたいならご自由にどうぞ。私はおまえがどうなろうが見捨てて地上に戻る。おまえのことはもう二度と迎えに来ない」
 ひっく、と背後の男のしゃくり声が聞こえる。シコードの言葉には無反応だ。別に冥府への未練から泣いているわけではないのだろうか、とシコードはぼんやり思う。
「できないんだ……」
「なにが?」
「俺は、あんな風に笑いながら涙を零すことが、できないんだ。できないんだ……」
「下手人の話か?」
 そうだ、と背中のクラーリィは答えた。相変わらず泣いている。鬱陶しい、と少しシコードは思う。
「笑いながらおまえを殺していたのか?」
「そうだ」
「笑っているのに、涙を零していたのか?」
「そう」
「ふうん、変な話だなあ。で、なぜお前が泣くんだ?」
「俺にもできるのかなと思って。そしたら、彼らの気持ちが少しは理解できるかなと」
「バカな奴」
 真面目な話をしているのかと思い、真剣に考えてやったことが非常に腹立たしく思えた。シコードの罵倒にクラーリィは何の反応も返さない。
 こんな実のない無駄口でも、長い旅路の暇つぶしにはなるだろう。反応が返ってこないとつまらない。アプローチ法を変えよう、とシコードは考える。
「落ち着いたか」
「……ああ。すまなかった」
 クラーリィの呼吸が落ち着いたことを確認してから、シコードは新しい切り口を探す。
「おまえ、なんで下手人が笑っていたと思うんだ?」
「……俺に会えて嬉しいから。もしくは、俺を殺せて嬉しいから」
「ま、おまえ様はいろいろと恨みを買う立場にあるようだからな。続けようか、おまえ、じゃあその下手人は、どうして同時に泣いていたと思うんだ?」
「……俺が死んだら会えなくなってしまうから。もしくは、俺を殺したくなかったから。自分の手を汚すことが嫌だったから」
「その中でおまえが有力候補だと思うものは?」
「何もない」
「は?」
「……何もない。強いて言うなら、そこに理由はあるのかということ自体が疑問だ」
 クラーリィの声色が真面目だった。彼なりに真面目な見解を述べているのかと、シコードはその言葉の理解に一定の思考力を割くことを余儀なくされる。
 考えたものの、はっきりとした答えは導き出せなかった。疲れが溜まってきたのか、たまに荒い息を吐きながらでないと階段が上れなくなってきた。クラーリィを重いと思うことはない。あの瘴気に纏わり付かれていたのが祟ったのか、足にだけどうも疲労が溜まっている。
「もう少し、優しく解説を頼む」
「そのままだよ。物事全てに原因があって理由があって結果があるなんて考える方が傲慢なんじゃないかと。そのものの裏側には、原因や理由どころか中身すら何もないかもしれないじゃないか。空っぽ。だから仮面を被る、俺が心を許す見慣れた笑顔の仮面、俺が見たくないと感じる涙顔の仮面」
 シコードは咄嗟に何の返事もできなかった。
 まあ、冥府だしな、と思う。仮に誰かクラーリィの顔見知りの魂に遭遇したとして、クラーリィ以上にその者は魂としての姿形を失っていることだろう。クラーリィの記憶を頼りに顔を作ることがギリギリできる程度で、中身なんて精神的で高潔なものはとっくのとうに汚泥の中に吸い込まれて同一化してしまっていたのかもしれない。溶け出したそれは相互に混ざり合い、最早誰だったかすら分からなくなり、最後には輪郭すらも消えてしまう……残ったものはわずかな記憶だけ、そして集合意思となった彼らは口を揃えて言う、こちらへおいでと。
「ま、いいか。おまえ、こういう話はあんまり興味ないだろ」と言い、クラーリィは一方的に話を打ち切ってしまった。
 しばらくクラーリィの目の前に表れた下手人の話を聞きたい気持ちもあったが、その度あの気持ち悪い姿を思い出してしまうので掘り下げて聞き出すことは早々に諦めた。
 重苦しい沈黙。足下がふらついてきそうな気がして、シコードは必死に新しい話題を探す。
「クラーリィ」
「うん」
「おまえの名誉を考慮して、私を無視して一心に冥府へ駆け下りていったことは秘密にしてやる」
「別に、ばらしても構わないが」
「パーカス一家の苦悩を考えろ」
 クラーリィはしばらく黙っていた。やはりこいつの頭からは、日頃世話になっている彼らへの、根本的な感謝の念が消え失せている。感謝しているとか、苦労をかけて済まないと思っているなんて言葉は、いつだって上辺だけの虚しい言葉だったに違いない。
「反省しろ」とシコードは言った。
「分かった。……そういえば俺は、おまえを助けるなんて口実でここに来たんだった。この階段を下りきった頃には、おまえのことなんてすっかり忘れていたよ」
「だろうな」
 おまえ、いい笑顔だったよ、とシコードは言う。クラーリィは意外そうな声色で「見ていたのか」と呟いた。
「横からな」
「ああ、それで、一度は地上への出口を見つけられたわけ……」
「そう。まあ、おまえのお陰だ。なのでおまえには恩がある。それを返そうと今踏ん張っているわけだ」
「恩というか、単に利害が一致しただけのような」とクラーリィは笑った。
 シコードは何も返さなかった。クラーリィの表現の方が適切であるという点に間違いはないと思ったが、それを肯定してしまうと己の矜恃に若干の傷がつくような気がしたからだ。

 そういえば、とシコードは呟く。クラーリィの笑顔の話で思い出した。
「エウリュディケには会えたのか」
「は?」
「おまえのエウリュディケ。冥府にいたんじゃなかったのか。あわよくば連れ戻そうとか……」
 クラーリィはきっぱりと、そんな者はいない、と言い切った。迷いはなさそうだったし、その言葉に嘘もなさそうだった。シコードの勘は外れたのかもしれない。
 元々お互いのことなんてそう知らない仲だし、別段推測が外れたからといって悔しいという感情も沸いてこない。
「別に」とクラーリィは続けたが、その声は先程に比べて随分とくぐもっていた。
「別に……俺は……そんなポジティブな理由があって冥府に行きたかったわけじゃない。特定の人物の魂に再会したくて冥府に来たわけでもない。ただ……」
 シコードは黙ってクラーリィの言葉を聞いていた。まだ、たまにヒューヒューと不愉快な呼吸音が聞こえる。地上に戻るまで治らないかもしれない。もしかしたら、地上に戻ったところで一度欠けた彼の魂はもう永遠にこのままかも。
 まあ、自業自得だろう。本人が望んでやったことだ。シコードがこれ以上手を出す必要はない。
「ただ、俺は、なんとなく……なんとなく、そうだ、むしゃくしゃして」
「どこの犯罪者だ」
「そんな明確な理由があったわけじゃなかったんだ」
「さっきは冥法王になりたかった、次はむしゃくしゃしてやった、実におまえの言葉には一貫性がないな。嘘つきめ」
 クラーリィは言い返さなかった。きっと冥法王になりたかったなんて言ったことすら忘れていたのだろう。むしゃくしゃしてやった、というのももう少し話続ければそのうち忘れる。クラーリィにとったらその程度の話なのだ。重大そうに見えて、実は今考えただけの言い訳。真実を隠すために。
「おい、聞かなかったことにしてやるから、一度くらい真実を話したらどうだ」
「なんの?」
「またそれか、逐一腹立たしい男だな。いい加減振り落とすぞ。そんでもってパーカス一家にはおまえが暴れたからどうしても連れ戻せなかったと言い訳してやる。そしてもう誰も、二度と、おまえを助けに来ない。来たとしてもその頃にはもうおまえは冥府の汚泥の一端」
「分かった、謝る」
 随分と殊勝な態度でクラーリィが謝ってきた。シコードは「冗談だ」と返す。別に、どうなろうがクラーリィを振り落とす気なんて最初からなかった。さっきのはただの脅しだ。
 今ならば真実を話してくれるかと思い、シコードは先程と似たような質問を繰り返す。
「クラーリィ、どうしておまえは殺される前、下手人に謝っていたんだ」
「……どうしてって、謝らなきゃ、いけないから……」
「笑顔でごめんなさいと言って、同じく笑顔でしかし涙を湛えた者どもに虐殺されるわけか」
「だって、俺のためなんかに手を汚したくなんか、ないだろ、普通。どこかで惨めに死んでくれ、そしたら俺は笑うから、って思うだろ。憎いからって嫌いだからって、だからそれ相応のリスクを背負う気になんか普通なれないだろう」
「まあ、憎いからと言って同じ手段に出るのはあまり感心する手ではないな」
 同じ手を使えば同じ穴の狢になる。己が罵倒した人間と同じ場所まで己が落ちてしまう。だから、願うのはただ己がなんの手も出さずに憎き相手が勝手に堕落していくことだけだ。憎むだけで復讐が成し遂げられるのなら、それより喜ばしいことはない。
「俺は謝りたかったんだ。いろんな人に、俺が殺した人に、俺が踏み潰した人に、俺が悲しい思いをさせた人に、かつて俺の部下だった人に、俺の上司だった人に、俺がこれまで生きていく中で踏み潰した屍体となった全ての人に、謝りたかったんだ。もしかしたら、かつて魔族という形をしていた者たちにも。だって、人間であろうが魔族であろうが、一度死んで魂だけの存在となればそこに境界なんてないわけだから」
「……そうか」
 しばらくシコードは何も言わなかった。もともと、何も聞かなかったことにしてやるという約束のもとでの話だ。クラーリィ側も大した反応は望んでいないだろう。
「気は晴れたか」とだけシコードは聞いた。クラーリィが頷くのが、気配で分かった。
 そのうち、クラーリィは「ハハ」と空笑いをした。自嘲気味だ。
「バカみたいな話だろ」
「まあな。でも、仕方ないだろう」
「……バカみたいな話、なんだよ。じきにおまえにも分かるさ」
 クラーリィはそれっきり動かなくなった。すうすう息だけ立てて、寝てはいないようだがシコードの邪魔にならないようじっとしている気になったらしい。
 そのうち、出口と思わしき黎明の扉が姿を現した。以前シコードがくぐった扉だ。地上への出口、宵の明星の如く、薄暗い世界の中で煌々と輝く力強い光。間違いはない。この階段もようやくこれで終わりということだ。
 これまでの道程を振り返ろうなんて気には更々ならなかった。こんなちっぽけな達成感で、本来の戒めを忘れたりはしない。
 シコードは黙って扉を開いた。一瞬目の前が真っ白になって、それからあっというまに全ての感覚が消え失せた。



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