傲慢 5
 我が名は傲慢、汝が暗闇を黎明の如く照らす者。


 ***


「兄さん!」
 真っ先に飛びついてきたのは弟だった。シコードは辺りを見回す。ここは己が冥府へ飛び込む直前に用意して貰った居室で、特に変化は見られなかった。現世ではそう時間も経たずに帰ってこられたということなのだろうか。
 体を起こす。異常はなさそうだ。己は無事地上に戻ってこられたということか。なんと素晴らしい!
「目が覚めた」
「ああ、良かった、兄さん」
「クラーリィは?」
「さあ、分かりません。上手くいったんですか?」
「多分な」
 涙顔で縋り付く弟の頭を撫でる。クラーリィの部屋の場所を聞き出した。待っているより様子を見に行った方が早い。もしかしたら、魂が欠けすぎていて簡単には起きないかもしれないし、そもそも肉体にきちんと魂が舞い戻ったかどうか怪しい。最悪、肉体の周辺をふよふよと浮遊しているなんて可能性も。
「私はどれくらい眠っていたのかな?」
「丸一日くらいです。ああ良かった兄さん、目が覚めなかったらどうしようかと……」
「風邪を引いて寝込んだくらいだな。冥府に行って帰ってきた道程を考えると上々だ。運が良かったらしい」
 ベッドから降りようとすると、弟が「もう少し体を休めて下さい」と言ってきた。
「大丈夫だよ」
「でも」
 なおも心配する弟に「もう大丈夫だ」と念を押し、シコードは部屋を出た。向かう先はクラーリィの眠る部屋。デビットまたはパーカス大臣が、交代で様子を見ているのだという。
 ノック。応答したのはデビットの様子だった。
「ハープ・シコードだ。入っても良いだろうか」
「どうぞ」と、やや緊張した様子の声が帰って来た。シコードはそっとドアを開ける。開け放たれた奥へと続くドアの向こうから、柔らかい光が漏れ出ていた。あちらがクラーリィの寝室のようだ。
 場所からしてクラーリィの自室とは違うようだし、冥府で見た幻影の彼の部屋ともまた違った内装だが、司聖官に相応しい装飾のなされた部屋ではあった。急ごしらえで用意したようで、生活必需品の類は必要最低限しか置かれていない。置物など、趣味のインテリアはほとんど何もなかった。
 敷かれた柔らかい絨毯は、彼を思いやるパーカスたちの思いを反映させているかのようだった。起きたらクラーリィには彼らに謝るよう言ってやろう。それから、自分も礼を言おう。冥府に出掛ける前には少々失礼な物言いをしてしまったが、居室を用意して貰ったり、今回のことでは何かと便宜を図って貰った。
 開け放たれた扉の向こうには、心配そうな顔をしてクラーリィのことを見つめるデビットの姿があった。シコードの接近に気がつくと、ちらりとこちらに視線をやった。
 不安と期待の入り交じった、何とも言い難い視線。
「クラーリィはまだ起きていないみたいだね」
「上手くいったのですか」
「多分ね。とりあえず、彼の魂は地上に戻ってきたはずだ。ただ、ちょっと……冥府でこてんぱんにされてしまって、一部が欠けてしまったようだから、目覚めるのには少し時間が掛かるかもしれない。あるいは、呼び掛けたりしないと、その魂が肉体に戻らないかも」
 弾かれたようにデビットは「クラーリィ」と呼び掛けた。柔らかく肩を揺する。そしてもう一度クラーリィの名を呼ぶ。
 何度かそのサイクルを繰り返した後、驚くほどぱっちりと、クラーリィは目を覚ました。
「クラーリィ!」
「……」
 はじめクラーリィは、何が起こっているのか分からない様子で、じっとデビットのことを眺めていた。シコードはデビットがクラーリィを揺すっている間に黙って枕元まで近寄っていた。
 目が覚めて良かった。まだぼんやりしているようだが、少なくとも生気が顔に戻ってきた。魂の欠けが今どうなっているのかは分からないが、肉体を維持できる程度の損傷に留まってくれたようだ。
 クラーリィのために用意された柔らかなベッド。暖かい色の照明。仮に夜目覚めても彼が転ばないよう、足下にも小さな照明が置かれている。そして、頭の上には小さなスフォルツェンド式のお守り。魂が無事戻ってきますようにと、ささやかな願いが込められている。
 こんなに愛されて贅沢なことだ、とシコードは独りごちる。簡素ながら落ち着きがあって上品なイメージを持たせるこのベッドは、クラーリィにはむしろ少し勿体ないような気もした。この国を担う最高権力者としては質素すぎてみっともないくらいなのかもしれないが。
 やがてクラーリィは、細々とした声で「パーカス」と呼び掛ける。
「はい、私です、私です隊長。ああ良かった、良かった……」
 触れると壊れてしまうとでも思っているのか、デビットはクラーリィに触れず、その布団の端を掴んで肩を震わせている。その様子にシコードは弟を重ねた。クラーリィを連れ戻せて良かったと思う。彼が汚泥に飲み込まれる前に冥府にたどり着けて良かった。彼がなくなってしまう前に決心をして良かった。あと数日遅れていたら、手遅れになっていたかもしれない。
「先程は、呼び捨てにしてしまって申し訳ありません」
「いや、緊急事態だろう、構わないよ……済まなかった、心配を、迷惑を、おまえにはたくさん掛けた……」
「謝るのは後で結構です。今は目が覚めたことを喜ばせて下さい。それから、まだ身体は大切に」
 一月も寝たきりだったのですから、とデビットは付け加えた。その通りだ。筋肉もだいぶ落ちてしまっていることだろう。しばらくはリハビリ生活を送らなくてはいけないかもしれない。まあ、クラーリィのことだし魔法で幾分かはカバーできるだろうが。
 やがて黙々と見下ろしていたシコードの気配に気付いたらしく、クラーリィがちらりとその視線をこちらへ投げかけてきた。
「シコード?」
「ああ、そうだ。久しぶり。覚えているかな」
「久しぶり? さっきまで一緒に居たじゃないか。おまえの背中に乗せられて……」
 一応はしっかり覚えているらしい。とりあえず、記憶の損傷もさほどなさそうだ。あんなに酷い欠けがあるように見えたものの、外見が酷かっただけで、その実そんなに支障が出るほどの魂の傷ではなかったのかもしれない。
 もぞもぞと、布団の下で腕を動かす気配がした。それに気付き、デビットがそっと布団をめくる。やや細った腕が伸びて、布団を持ち上げたままのデビットの腕をそっと撫でる。
「本当に、苦労を掛けた」
「いえ」
「早速で悪いんだが、少し、シコードと二人きりにしてくれないかな。冥府での募る話とか、まあいろいろあってね……大丈夫、こいつだって苦労して連れ戻してきた魂の持ち主を、無下にはしないと思うから」
 だろう、と問いかけてくるクラーリィに、シコードは迷わず「ああ」と答えた。
 クラーリィが何を己と一対一で話したがっているのかは皆目見当が付かなかったが、まあ背中の上でいろいろな話をしたことだし、何か口止めしておきたいことでもあるのかもしれない。あれは聞かなかったことにしてくれとか、これは話しても構わないが内部の人間だけにしてくれとか。
 デビットは随分と不安そうな顔をして、クラーリィとシコードの顔を何度か見比べた。まあ、信用に値しない人間だということはシコードもよく熟知しているのでこの反応は仕方がないだろう。その頃この身体に魂はなかったから何があったのか全く知らないが、シコードの肉体は弟の持つ科学力でもってこの国を襲撃、スフォルツェンド国土及び魔法兵団に多大なる犠牲を支払わせたらしい。もしかしたらこの魂よりも弟によってコントロールされていた方が強いのではないかと思うくらいだ。それはグローリアにとっても非常な戦力となるだろうが、それを弟は望まない。だからこそクラーリィに頭を下げてまで魂の回収を願ったのだ。
 ああ、ということは、クラーリィが承諾した理由の一つに、間接的なグローリアの戦力の弱体化も含まれていたのかもしれない、なんてシコードは考えを巡らせる。
 シコードが考え込んでいる間、デビットも同じように悩んでいたらしく、やがてまっすぐなクラーリィの瞳に決心をしたのか「分かりました」と席を立った。
「シコード師団長」
「今は『戦闘皇帝』という役職らしいよ。弟が勝手に付けたものだが。まあ、ただのシコードで構わない」
「隊長に危害を加えないと誓って下さい」
「誓うよ」
 あっさりとシコードは言い切ってみせる。デビットはしばらくシコードの顔を見ていたが、その表情から裏切りの陰りを見つけることはできなかったようで、やがて「分かりました」と折れた。
「聞かれては不味いのでしょうが、不安もあるので部屋の外、廊下に立っています。何かあったらお申し付けを」
「大丈夫、パーカス、俺はおまえを聞き耳を立てる下劣な者だとは微塵にも思っていないよ。おまえのことは信用しているんだ」
 ちらちらと二度ほど振り返りながら、デビットは部屋を後にした。ぱたん、とドアの閉まる音。これでシコードと二人っきりになった。
「用件は?」と、シコードの方から切り出す。
「いや、特に。少し、ぼーっとしたくてね」
「ああ、まあ、そうだろうな。デビット氏の方は今は少し落ち着いた方がいいかもしれない。寝起きのおまえには疲れそうなテンションだ」
「こんなことではしゃぐくらい、良い奴なんだよ」
「いい部下だ。大事にしろよ」
「しているとも。……おっと、その点についておまえに怒られたのだった……」
「記憶は大丈夫か。だいぶ魂が欠けていたようだから心配したが……激しい支障はなさそうだな。動けるか動けないかという問題はまだ残っているが、それはおいおいだな。魂の傷だって、聞いたことがないから知らないが、もしかしたら時が修復してくれるのかもしれないし」
 クラーリィは何度か瞬きをしてみせた。まだ身体を動かすのは辛いと見える。
「記憶の方は大丈夫そうだ」と呟く。
 それから今度は、先程めくってもらった布団の間から腕を出して眺め始めた。じっと、数秒。しかし、その表情がだんだん怪訝なものへと変わっていく。
 早速支障が出たか、とシコードは眉をひそめる。裏返したり、蛍光灯のあかりに透かしてみたり、クラーリィはひたすらに己の右腕を見つめている。握る、開く、力を抜く、指を折ってみる……いろいろな動作を試しているものの一向にその怪訝そうな表情が晴れることはない。たまに首を傾げることもある。その間ずっと無言だ。
 不思議そうな顔をして己の手を見つめているクラーリィに、シコードはようやく伝令事柄を一つ思い出した。
「クラーリィ、別にここはまだ夢幻の中じゃない。そういえば弟が言っていた、おまえには悪いことをしたから、勝手だとは思うが手や足を再生させておいて貰うとな」
「ああ……なんだ、また夢を見ているのかと思ったよ。そういや俺、幻の中では五体満足だったなと思い出して」
「おまえなら武勲とか言いそうだがな。でも、まあ、私の弟にそういう思考はないんだ。折角元に戻したものをまた切り飛ばすのもアレだろうから、ここは一つ受け入れてやってくれ」
 別に困りはしないだろう、とシコードは弟を庇った。性格上クラーリィが喜ぶとはあまり思えなかったが、悪い話ではなかったはずだ。利益こそあれ、不利益はそう生じないと思う。あんな大怪我を負ってなお国を率いる奇跡の神官という肩書きは少々安っぽいものになってしまうことになるが……
 クラーリィは一向に晴れた顔をしない。
「そんなに嫌だったか」
「いや……二十年もない生活に慣れると、その、なんていうか逆に違和感がな。それに、……たぶん魂も欠けてしまっていて既にない部分が多いみたいで、なんだろうな、上手く言葉にできないのがもどかしいんだが、腕や足はあってもそれを満たす魂が足りなくて、どうも空っぽのような気がするというか、……妙にむなしさばかりが募ってどうにも」
「まあ、あそこまで派手に魂が欠けてしまってはな。……どうだ。慣れそうか」
「その内慣れるんじゃないかな。そのまた二十年間は、五体満足の生活を送っていたわけだしね。弟くんに、今度お礼を言っておこうかな。彼のことだから、俺の反応を気にしているだろうし」
 ぱたりとベッドの上に腕を落とし、クラーリィはふうと息を吐いた。シコードは安堵する。今抱えている違和感はともかく、クラーリィはこの現状を受け入れてくれる気になったようだ。それを知れば弟も喜ぶだろう。
「ありがとう」と、素直な気持ちをシコードは口にした。
「感謝するのは俺の方かな。……あ、そうだ」
 顔だけをシコードの方に向けて、クラーリィはじっとシコードの顔を見つめる。どうした、とシコードが返す。
「シコード、一つだけ謝らせてくれ」
「うん」と、シコードは相槌を打つ。
「俺はおまえの背中で、嘘ばかりついたが、一つだけ本当のことを言った。人間ってのは完璧な嘘つきにはならないからだ。おまえには嘘つきと言われたけれど、完璧なる嘘つきではなかったことだけは信じてくれ」
 クラーリィの瞳の中に何か縋るような光を見て、シコードは若干慌てた。それからすぐに謝った。
「別に本気で罵っていたわけじゃないんだ」
「俺も、それを気に病んでいるわけではないけどね。でも、嘘をついたのも、嘘つきと言われたことも、事実だし」
 何かから逃れるようにクラーリィは視線を外し、また天井を見上げてしまった。
「……よく考えるに、その特定の一つを除いて、その他の話は全て嘘だったというわけか」
「好きに解釈してくれて構わないよ。今の俺の言葉そのものが、嘘だったかもしれないだろう?」
「やれやれ、嘘つきという肩書きは便利だな。答えが出ない」
 枕に沈むクラーリィの頭はまっすぐ上を向いていて、一心に天井のどこか一点を見つめている様子だった。シコードは釣られて上を見上げてみたが、蛍光灯の他には何もない。
 クラーリィはそんなシコードに気付いて「何もないよ」と笑った。
「シコード」
「うん?」
「ありがとうな。これでようやく……やれやれ、二十年かかったよ」
「何がだ?」
 クラーリィは黙って笑っていた。よいしょ、と身を起こす素振りを見せたので素直に手伝ってやった。一月も寝ていれば体力も落ちて大変なことになるだろう。
 身を起こしたクラーリィは、頭痛でもするのかしばらくぼんやりと視線を揺らめかせていた。
「クラーリィ、さっきの二十年とは」
「シコード、おまえはどうして俺がエウリュディケを探しに冥府へ行ったと思ったんだ」
 シコードの言葉を遮って、クラーリィが問いかけた。しかしこちらを見ていない。
「どうしてって……」
「シコード、おまえはどうしてあの扉が冥府の出入り口だと思ったんだ。どうしてあの階段の先、黎明の扉が現世への入り口だと思ったんだ」
 シコードは怪訝そうな顔をする。相変わらずクラーリィはこちらを見ない。また、階段の時のように謎かけ問答でも始めたつもりなのだろうか。
「だって私は一度、あそこを通って現世へ戻ってきているし」
「シコード、最後に一つだけ、いいことを教えてあげよう。上手い迷宮の作り方だ。出口を毎回変えればいい。すると学習が役に立たない。そして、偶然出口にたどり着く確率をうんと低く設定しておけばいい。出口がないわけじゃないから苦情はこないし、たくさんのものを迷宮の中に閉じ込めておける。更に、偽の出口なんかを作っておくと最高だな。そこで出られたと錯覚した連中は、それより先の迷宮を知覚すらしなくなる」
「……最後?」
「あはは、シコード、あはははは」
 クラーリィは笑っていた。そして、目いっぱいに涙を浮かべていた。
 死から逃れ回った報いが今にして!
 握られていた、クラーリィの右手の出刃包丁がぎらりと光った。避けようと咄嗟に立ち上がった。しかしクラーリィは素早い。一ヶ月寝ていたなんて絶対に嘘だ。でなくばこれは幻、そう幻だ!
 一度はクラーリィの刃から逃れることに成功したものの、いつの間にか空間が歪み上下左右すら曖昧な妙な場所に放り出されていた。逃げようにも逃げる先がない。
 クラーリィが言う。「誰がいつ、おまえが冥府から脱出できたと言ったんだ」
「クラーリィ、済まない、済まなかった! どうか、」

 どさり、と首が落ちる。
 クラーリィはそれを見下ろしている。
「謝るという方法は、何回目かの『クラーリィ』が考えた脱出方法だが、残念なことに効果はなかった。それにおまえが気付くのはいつ頃だろう。げんに、謝っていたけれど彼は何回も何回も殺されていただろう?
 そうだ、これをあげるよ。折角逃れられたのに、もう一度同じように逃れられると考えたおまえの過信に傲慢という名の冠を」
 小さな金の冠を、クラーリィの姿をした幻が、転がるシコードの頭の上にそっと載せる。彼は笑顔のままぼろぼろと泣いている。
「それはともかく、ようこそ、シコード。新しい冥法王がおまえをお待ちだよ。二十年もかかったと仰っていた」


 ***END



Top Pre