怠惰 1
 我が名は怠惰、汝を背に戴こう、従順なる驢馬となって。


 ***


 サーカスが見てみたいと、まるでおとぎの国を思うかのような瞳でクラーリィが呟いた。その瞳にはどこか光がなく、ぼやけて見える。日頃の強い眼光はどこかへと消え去ってしまっている。
 珍しいこともあるものだと、サックスは思っていた。
「旅芸人なら国のどっかには必ずいると思うよ。サーカスみたいのも、いるんじゃないかな」
 異国の大きな動物を連れた旅芸人の集団となると限られてくるだろうが、スフォルツェンドは大きな国だ。豊かだし、国土も広い。城下に限らず、繁栄している街がたくさんある。そこを居城に興行をしている芸人たちや楽団はたくさんいる。
 クラーリィの思い描いているようなサーカスを催しているところも、探せばすぐに見つかるだろう。見つけたらワープ魔法で飛んでいけばいい、それだけの話だ。変装するなり魔法を使うなりして身分を隠せば大事にはならないだろうし、こうも忙しく働いているのだから一日くらいさぼったって誰も文句は言わない。
 探してあげようか、とサックスは言う。
「いいよ」
「遠慮すんなよ」
「ないんだ。ないに決まってる。いや、あったら困るんだ。だからいいんだ」
 クラーリィはふるふると首を振った。その無気力な様子がサックスに違和感を連れてくる。なんだか様子がおかしい、いつものクラーリィじゃないみたいだ。では、いつものクラーリィとは何なのか、と問われるとなかなかに定義が難しいのだけれど。元気はつらつ、少し違う。自信満々、これは少し合っているかも。ああ、そうだ、目に光が宿っている。強い眼光、サックスを射貫くような。その光に釣られて、サックスをはじめとした彼の部下たちはクラーリィに忠誠を誓ってしまう。誓ってしまう、なんて言い方はおかしいか。誓いたくなる。でもこれも少し違うな。まるで何か別の力に押し込まれるように、吸い込まれるように、彼に傅いてしまいたくなる。それが一番楽だからとかそんな理由ではなく、ただ単に、それが一番正しいと本能が知っているかのような気持ちになる。
 天性の支配者、とでも言うべきなのだろうか。
 普段はそんな様子の彼が、今日はなんだかおかしい。疲れているのだろうか、とサックスは考える。
「クラーリィ、もう今日は休むか?」
「いや、まだ少し残っているし区切りも悪いから、もう少し頑張るよ」
「そっか……」
 頑張るとは言ったものの、クラーリィの声にはいつもある覇気のようなものがなかった。サックスはどうしたものかと考える。たとえば、何か思い詰めていることがあるとか。ならば親友と名高い己の出番だ。幼少の頃から面倒を見て貰っていて、クラーリィのよき理解者であるパーカスやホルン様には話せないことでも、幼馴染みでもある己になら話せることだってあるだろう。
「クラーリィ、でもなんか、今日のおまえ元気なさそうだよ」
「そうかな」
 はは、とクラーリィが空笑いをする。珍しい笑い方。どこか諦めのような、悔しさのような、負の感情が紛れ込んで彼に纏わり付いている。
「悩み事とかあるなら聞くけど。愚痴でも。今がダメなら、アフターでもいいし」
「そう? じゃあ、たまには素直に甘えておこうかな。ディナーをご一緒に、如何?」
「その台詞をおまえに言われたら嬉しさのあまり卒倒しそうな人間が、世の中にはうじゃうじゃしているのにねぇ」
 クラーリィの芝居がかった言い方をサックスは笑う。様子に反して、これくらいの洒落っ気を見せるくらいの元気はあったようだ。サックスはほっと息を吐く。
「店は俺が探しておくよ」
「適当なとこでいいよ。あ、でも個室がいいかな。いっそ俺の部屋でもいいけど、出前でも取って。……ああ、そうしよう、サックス。すぐ寝られるし」
「あんまり深酒すると、明日が辛いよ」
「飲まないよ」と、クラーリィは笑った。でもなんとなくサックスには分かっていた。今日の彼は珍しく見るも無惨に溺れ、そのまま昏睡する。
 もしかしたら、一定のところで止めてやるのが親友というものなのかもしれないが、生憎サックスはそういう類の優しさを知らなかった。己にできるのは、普段自分を押さえ込んでいるクラーリィが好き勝手できるよう、場所を、時間を、そして話し相手を提供すること。そうして、彼が溜まった鬱憤を晴らすところを見守っていてあげること。
 翌朝二日酔いに少し青い顔をしながらも、どこか晴れた顔をしたクラーリィを見るとサックスはほっとする。俺は彼の役に立てている、と安心することができる。普段年下の彼に寄りかかっている分を、少しでも返せたようなそんな気になる。
「じゃあ、適当に何か食べるもの持っていって、酒も適当に持っていくよ、おまえの部屋に。出前だなんだって、結局面倒になるしな。それでいいだろ?」
「随分グレードダウンしたな。いいよ、それで。俺とおまえの二人なんだ、そんな着飾る必要はないさ」
 酒も安っぽいものでいいよとクラーリィは言った。
「少しはいいものを揃えるよ」
「いいよ」とクラーリィは首を振る。
「どうせ善し悪しなんて分からないんだ。安物で十分。俺は、お高い料理や酒の楽しみ方を知らないから」
 サックスは、ならこれから覚えればいいと言い返すつもりだったが、直前でその言葉を飲み込んでしまった。なにか、クラーリィにそれを言わせぬ雰囲気を感じ取ったからだ。
 クラーリィには、あからさまとはいえないものの絶対の拒否の雰囲気が纏わり付いていた。何を言おうが彼は承知しないとその時悟った。

 ただ、後になってその時言えば良かったと思った言葉が一つだけあった。この先起こることについて、たとえば今のような夜の約束について、「もっと楽しみにしてよ」と、サックスはクラーリィに声を掛けてやるべきだった。これから知ること、気付くこと、その全てが暗いものではないはずだから。そして、たとえ目の前に薄暗いものしか現れなかったとしても、その気になれば明るいことをいくらでも見つけ出せるのだということを、サックスはクラーリィにしっかりと言葉で伝えてやるべきだった。
 クラーリィは「今夜どんな酒が飲めるのだろう」と楽しみにしない。いつか高級な酒をも楽しめるだけの知識を身につけ、その文化を満喫している笑顔の己を想像しない。そして「今日の夕食はなんだろう」と、微笑みながら思い浮かべることすらしない。できないからだ。彼はこの時既に、少しずつ、こんな風に扉を閉めつつあった。
 伝える機会は終ぞ訪れなかった。だからこの時言ってやるべきだったのだ、なのにこの時のサックスは残念なことに愚かで、クラーリィにそう語りかけることができないままに終わってしまった。


 ***


 サックスの予想は大いに当たり、開始から十数分ほど経った頃だろうか、クラーリィは「もういいや」と呟いた。
「なに?」
「今日は飲もう。なんだかバカバカしくなった」
「言うと思った。大丈夫、面倒見るよ。寝たら毛布掛けるし、気が向いたら明日のシャワーの支度もしといてやろう」
「なんだ、親切だな」
「元々そう考えて『愚痴聞くよ』って言ったわけだしね」
「こういう時だけ年上風」
「たまには吹かせてくれよ」
 クラーリィは一瞬真顔になって、それからぽつりと「そうだな」と言った。サックスは「もっと俺のことを頼ってくれてもいい」と言おうとしたが、例によって飲み込んでしまった。果たして己がクラーリィにとってどれほど頼りになる存在なのか、自信がない。
 ワインのコルクを抜く。急いで町にでて買ってきたそこそこ上等なもののはずだが、クラーリィの好みかどうかサックスは知らない。そもそもワインが好きかどうかも分からないし、ましてや彼に「ワインの好み」があるかどうかすらサックスは知らない。
 グラスに遠慮なく注ぐ彼を眺めつつ、機を見て好みを聞いてみようかとサックスは考えた。彼のことだから、あろうがなかろうが「ないよ」と言いそうな気がしないでもないが。
 ちびちび飲むのかと思いきや、クラーリィはそれを一気飲みしてしまった。香りを楽しんだ気配はないし、ましてや味を確かめるような素振りも見せなかった。味わう気なんて毛頭なかったらしい。
 ただ単に酒を飲んだ、という認識しかしていないに違いない。
「あーあ……」
「高級なの買ってきたのに、とか言うつもりか」
「まあね」
「俺今日はそういうの要らないって、言ったじゃないか」
「ああ、クラーリィ、そういえば」
 己が愚痴を言う側に回ってはいけない、本末転倒だ。サックスはやや不自然に話題を変更したが、クラーリィがそれについてとやかく言うことはなかった。知らない振りをしているのか、そんな細やかなサックスの挙動になど最初から興味がないのか。
「サーカスが見たいと言ってたじゃないか。探してやろうかって言ったら拒否ったけど、おまえ、どういうサーカスが見たかったの?」
 そんなに奇特な演目が見たいのか、とサックスは訪ねたつもりだった。たとえば、とにかく人数の必要な演目。珍しい動物を使うもの。特殊に鍛え上げた身体能力でもってしなくては演じることのできない芸術的なもの。古代の見せ物小屋の再現、なんてのもこの範疇に入るかも知れない。
 確か彼は、あったら困る、と言っていた。ということは、このスフォルツェンド国内では道理に反するような演目なのだろうか。あるいは宗教が違う、他国独特の文化である、古代だからこそ許された演目で、現代では演じることが許されない……
 サックスは想像を巡らせる。少なくとも、楽しそうなものを想像していた。ああ言ったときのクラーリィは確かにおとぎの国を思うような目をしていたのだ。だから、きっと子供じみた無邪気な何かなのだと考えていた。
 そんなサックスの考えを見透かしたように、クラーリィは「違う」と首を振る。
「聞かない方がいいんじゃないか」
「と、言われると聞きたくなるのが人間の心理」
「後悔するなよ」
 口ぶりの割に、クラーリィにはあまり黙っている気はないような気がした。はぐらかしはするものの、吐露してしまいたい気持ちが同居していたのかもしれない。サックスが食い下がった時、彼は確かにほっとしたような顔をしてみせた。
 俺はさ、とクラーリィが呟く。ワインのグラスを傾ける。これで三杯目だったろうか、あっという間に空になってしまった。
「俺は人が落ちるところが見たいんだ」
「……ん?」
「揺られる驢馬の背から、これから何が始まるのかと観客の期待の視線を一身に受け、その人生においてこれ以上ないというくらいに光り輝く団員が、地に失墜していくさまが見たいんだ。その時の団員の絶望を、観客の悲鳴を、そしてなにより期待を上回る展開となった『舞台』を見やる醜い観客の歓声と嬉々とした顔を、俺はつぶさに見てみたいんだ」
 サックスは咄嗟に何の返答もできなかった。クラーリィは何を言っているのだろう。己が言っていることの意味を、彼の親友はきちんと理解しているのだろうか? 少なくとも大神官として相応しくない物言いだし、その思考そのものが罪深い。
 どうしたの、とサックスは問う。
「いや、別に。見てみたいんだ。それだけ」
 おそるべきメランコリック!
「クラーリィ、おまえ、大丈夫か……」
「大丈夫かそうでないかと問われれば、そうではないと答えた方が正しいかもしれない。俺はそろそろ疲れてきてしまった。血を見るのに飽きたよ。ただ殺すことに飽きてしまった。魔族の悲鳴も聞き飽きた。だからもっと変化が欲しい。似たような死であれ、それは等しく全ての命あるものに降りかかるものなのだから、どうせなら俺はもっと美しくあって欲しいと思う。
 そうだ、俺は美しい死を見たい。もっと劇的な……変化のある……」
「クラーリィ、人生は、人の生は、見せ物じゃないんだよ」
「だから見せ物であるサーカスに行きたいと言っているんだよ。あはは」
 サーカスは死の見せ場ではない、とサックスは言おうとして諦めた。クラーリィの言う「サーカス」とは、サックスやその他大勢の人が思い描く「サーカス」ではなく、他の演目と同じように、他の演目と同じくらいの価値しか持たせず、人の生死を劇的に演じた「サーカス」なのだ。だから彼は先程「ない」と断言した。「あったら困る」という見解も示した。
 クラーリィだって、それがどんなもので、実際存在してはいけないものだということも、きちんと理解しているはずなのだ。
 団員のくだりは比喩だったのだろう。クラーリィはそんな非現実的でしかし非情なほどに現実的で、生々しくそして幻想的に美しい、そんな演目を望んでいるだけ。そんな比喩の対象にサーカスを選んだだけ。
 全ての生きとし生けるものの終わりを司る、死というイベントに美しさを望んでいるだけ。己が消し去る多くの「敵」という名の命たちに対して、美しくあれと切なる願いを込めているだけ。彼らに訪れる死の瞬間が、人目を奪う劇的なものであるように。その一生が最期まで、人の興味を惹くものであるように。生きた証が残されるものの心にはっきりとした形を持って焼き記されるように。
 たったそれだけなのだ。

「クラーリィ……」
「だから聞かない方がいいって言ったのに。ほらみろ、困った」
 あんなにがぶ飲みしていたのに、クラーリィにはあまり酔った様子が見られなかった。酒の勢いを借りての吐露という面は確かにあるだろうが、これはかなりクラーリィの本心に近いだろうとサックスは考えた。少なくとも、酔った勢いで思っても見ないことが口を突いて出た、という可能性は低そうに思えた。
 サックスは上手い返答を思いつくことができない。所在なさげにソファに座り直したりして、その度ちょっとした軋みが発生し、それを指摘してクラーリィがあざ笑う。
 だから言ったのに、とクラーリィは繰り返す。
「サーカス……サーカスが見たい」
 まるで熱病に魘される患者のようだった。ようやく酔いが回ってきただけの話だったのかもしれない。けれど、サックスには何か不吉なものの前兆のように思われてならなかった。
「クラーリィ」と、再び彼は呼び掛ける。
「今日は早く、休んだ方が、いいよ」
「休んだ方がいいのはおまえだサックス。顔色がよくないな。気分でも悪いのか?」
 クラーリィはからから笑っていた。先程の話が原因だということくらい彼は百も承知だろうが、もう彼の言動には先程の会話の片鱗も見つけることができなかった。話したことすら忘れてしまったかのようだ。
「と、いうか俺は、さっき『飲む』と言ったような気がするな」
「そうだったね」
「じゃあ諦めてくれ。別におまえが先にダウンしても怒らないから。付き合わせて悪いな」
 悪いなんて微塵にも思ってないくせに、という言葉をサックスは飲み込んだ。クラーリィはぐんぐんとワインを飲み進めている。既に結構な量を飲んだはずだが、そこまであからさまな変化は見受けられなかった。見たところ彼は正常だ。泥酔している様子はないし、クラーリィのことだから「飲む」と事前に宣言していようが前後不覚になるまで飲み続けるとは考えにくい。
 こんなに飲む奴だったっけか、とサックスはそんな彼のことをじっと見つめている。
「おまえも飲んだら? 高いんだろ、これ」
「ああ、俺はその……気に入ったんだろ? 好きなだけ飲めばいいよ」
「気に入った? まあいいか。そういうことにしておくよ」
 クラーリィからしたら、酒なら何でもよかったのだろう。サックスの持参したこのワインをがぶ飲みしているのだって、このワインの味が気に入ったからとかそういう理由ではなく、ただ単に手の届く範囲にこれが置いてあるから、それだけなのだろう。
 赤か白か、それすらも彼の記憶には残らないに違いない。
 クラーリィは歌うように「サーカス」と呟く。
「その話も気に入ったんだね」
「揺られる驢馬の背から……目に浮かぶようだ。幻想的で、実に、ああ、なんと素晴らしい!」
 燻る煙が鼻腔を刺激する。異国情緒漂う眩暈を連れてくる煙、不可思議な模様の編み込まれた年代物の天幕、煌びやかな手作りの衣装を纏う演者たち。観客席は満員でも、あるいはクラーリィしかいなくても構わない。期待に胸を躍らせる観客たちの鼓動でざわめく会場もいいし、会場の煌びやかさとは反対に静寂に包まれたクラーリィだけの観客席というもなかなかシュールだ。この場合、舞台の感動をクラーリィは独り占めできる。ただ、他の観客の反応を見て楽しむということはできなくなる。
「ま、観客は多ければ多いほどいいだろう。ざわついた会場がしん、と静まるあの瞬間が俺は好きだから」
 ワイングラスを持ち上げ、その先のサックスの顔を透かして見つめる。クラーリィは笑った。続きを聞くか、と問うたところ、サックスはしばらく迷った後「聞く」と答えた。
 そうそう、おまえに選択肢なんてはじめからない。
「驢馬に乗る奴の靴の裏にな、こっそり油を塗っておくんだよ。驢馬の上に立つだろ。立った上で、いろんな演技をするだろ。ところが、いつも何の無理もなく進行する演目が、油のせいで上手くいかない。バランスが崩れて演者は慌てふためく。いつもと違う様子の御者に驢馬が不安を覚える。
 そんでもって、そんな舞台を、何の影響もない安全な観客席から、俺はじっと見つめて手を叩く準備をしている。ただの演目ならそこそこの拍手。予想外の大舞台が展開されるなら、俺は立ち上がって力の限り拍手をしよう」
「イカサマじゃないか」
「いいや、立派な『仕込み』だよ。種も仕掛けもあるのがサーカスだ。マジックじゃないんだから」
 制御の効かなくなった驢馬から御者が転落する。クラーリィが満面の笑顔で、立ち上がって心からの拍手を贈る。ぱち、ぱち。ぱちぱち。熱狂的な歓声が拍手の音をもかき消す。迫真の演技。立ち上る熱気と、燻る煙とで前が見えなくなるほどだ。人々は己の目から流れる涙が視界を遮るほどの煙によるものなのか、それとも感激によるものなのか判断を付けることができない。
 その渦中において、クラーリィはある意味冷静に手を叩き続ける。観客は、クラーリィ一人を除いて、その御者が首を折って死んでしまったことに気付かない。
「悲劇」
「いいや、だから、喜劇なんだよ」
「どうして」
「真実を知らない者にとったら、この狂乱の舞台は喜劇以外のなにものでもないからさ。素晴らしいものが見られたと、涙を流して手を叩くんだ。そして真実を唯一知っている俺にとっても、やっぱり喜劇なんだ。だって俺は最初から、こういうものを求めてサーカスを見に来ていたのだから」
「でも、その御者は」
「……ああ、サックス、彼はね、もともと今夜死ぬ予定だったんだ。だから後はその舞台がどうなるか、それだけだったんだよ。油を塗ったから彼は急逝したわけじゃない」
 あくまでもたとえ話だからな、とクラーリィは念を押した。この話はミステリーじゃない。だから誰かが、例えばサーカスの団長が演者への殺意でもって靴に油を塗ったとか、そんな話とは縁がないのだ。
「もっと抽象的な話をすれば良かったか」
 サックスは黙って首を振った。クラーリィは返事など期待していなかったのか、サックスの様子を覗うこともせずにまたグラスにワインを注いでいた。どれほど飲む気なのだろう。
「まだ舞台が熱気に包まれている内に俺は劇場を立ち去る。もうもうと立ちこめる煙の中に紛れるように、溶け込むかのようにごく自然に姿を消す……」
 騒然とした劇場は、立ち去るクラーリィの足音すらも掻き消す。この場にクラーリィのいた証拠はゼロ。誰もクラーリィがこの場にいたことを知らない。あるいは、覚えていない。
 翌日行われる葬列への参列者は少ない。流れ演者一人の生死など、街の人々は気にも掛けない。ましてやこのご時世、毎日どこかで必ず戦闘が行われ、どこかで必ず誰かが命を落とし続けている。冷たくなってこの街へと帰ってくる者も珍しくない。骨のひと欠片も帰還の叶わない者すらいるのだから、帰ってこられるだけその幸運を喜ばなくては。
 葬列なんて日常茶飯事で、もう涙が涸れ果ててしまった者も多い。
 クラーリィはフードを目深に被り、日中といえど目立ちやすい整った金糸を隠し、昨夜落馬して死に至った憐れな演者の葬列に向かい小さな花束を投げる。彼が最期まで美しい演者であったことを褒め称えながら。
 ひとしきり葬列を見送ると、クラーリィは満足してその場を立ち去ってしまう。演者の埋葬先は知らないし、今後も知る予定はない。なにせ、クラーリィには次の「サーカス」が待っている。過去のことなど忘れ去ってしまえばいいだけなのだ。お楽しみはいつまでも、いくつでも。
 クラーリィは次のサーカスを探しに、また街へと繰り出す。

「芥川龍之介の『サーカス』だ。知らないか?」
「え?」
「こんなよくできた話、その全てが俺の創作なわけないだろう。俺はそこまで創造的じゃないよ」
「……じゃあ、えっと、」
 サックスは少しだけ何か、希望のようなものを見いだしたような気がした。しかしそれはあくまでも錯覚で、サックスが期待したような希望はクラーリィの中にはなかった。
 彼の瞳が暗く澱む。
「ただ、こんな話ではないよ、その小説はね。御者には恋人がいて、駆け落ちしようとして失敗して、その罪が故に落馬させられて首を折って死んでしまう。流浪の王子はこんなところで死ぬ予定ではなかった、故にこれは悲劇だ。
 そうじゃないんだ……俺はただたとえ話をしているだけ」
 話す幼馴染みの横顔は、その内容とは反してまるで小唄でも唄っているかのように陽気だった。彼の頭の中では、既にそのサーカスが実演されているのかもしれない。悲劇を喜劇に。結果が同じでも、行動が同じでも、登場人物を突き動かす情熱は全く別の代物だ。クラーリィは団長にはなり得ない。
 ふと、サックスが不安を覚える。
「クラーリィ、あのさ」
「うん?」
「サーカスのための舞台を造るなんて、言わないでくれよ」
「現実にってことか? 言わないさ、そんな予算なんてどこにもないだろ。第一これはおとぎ話、たとえ話、俺の夢、幻想……俺が見たいのはその内側であって、外側ではないんだよ、サックス。求めているのは理念なんだ」
「そうじゃなくて、……たとえ話だってことは分かったけど、おまえの理想を現実のものとするための『仕掛け』を、この世界に施さないでくれと言っているんだ」
 あはは、とクラーリィが笑った。相変わらず無邪気な笑い方をする。そう、邪気がない。さっきから一貫して死の彩り方について話しているくせに、彼はその話に付きまとうべき陰湿ななにかを失っている。彼に取り憑いているはずのメランコリックは、憂鬱には見えない別のなにかを装っている。
 彼の答えはサックスを失望させた。
「さあね、流石にそれは約束できないな。俺がどう世界に干渉しようと、俺の勝手だろう。世界を花で満たすことに何の問題が? それが、葬列に向かって投げる花束を作るためのものだと知らなければいいだけの話じゃないか」
 世界中を平和に、そして不毛の大地すらも全て色とりどりの花で満ちた世界に。なんと素敵なことだろう。その花の美しさに人々は心を奪われ、闘争することを忘れるだろう。花畑は国境を覆い隠す。人々は武器を手放し、その代わりに花束を手にすることだろう。互いに傷付けることをやめ、互いの慰みをこそ真の喜びと見出すだろう。美しい、理想的な世界。
 しかし、しかし。その世界を支配するのは、一種のメランコリックに支配された憐れな主なのだ。彼には花の本当の意味、美しさが分からない。



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