怠惰 3
 我が名は怠惰、汝を背に戴こう、従順なる驢馬となって。


 ***


 風が吹いて、妙な臭いがサックスを現実に引き戻した。戦場の臭い。土煙の、血の臭い。炎のような嫌な熱気。
 そうだ、こんなところに突っ立っている場合ではない、とサックスはようやく思い出す。ついさっきだって、クラーリィが手を出さなければサックスは危うく殺されているところだった。
「クラーリィ」
 ん、と彼は相槌を打つ。
「一旦戻ろう。その服、どうにかした方が良い」
 身を焦がすような嫌な熱気があたりを包んでいた。視界は砂煙のせいで狭まっている。
 サックスは手を差し出した。理由もなく、ここで躊躇してはいけない、手を差し伸べなくてはいけないと思った。クラーリィに。我らが旗頭に。
 クラーリィはそんなサックスの悩みを知ってか知らずか、笑いながらその手を取った。手はべっとりと血で塗れていて、サックスにひたすらに嫌な感覚を塗り込んだ。それでもサックスは決して振り払ったりはしなかった。
 ひしと、己が手を掴んでくれたクラーリィの手を握り返す。
「遭難でもしそうな態度だな」
 なあ、とサックスはクラーリィに問いかける。既に視線は本陣の方へと向いていて、ぐずるクラーリィをひきずるようにサックスが連れていく形になっていた。多少の抵抗は示しているものの、クラーリィはずるずるとサックスに引かれるがまま前へ進む。
 クラーリィはだるそうな返事をしてきた。
「おまえは周囲の人間に迷惑を掛けない。完璧な上司、完璧な旗印だ。おまえの下に付いた部下は不安を覚えない。そしておまえはそんな分厚い化けの皮を被っているから、誰からも、心配されない」
「……」
「けれどおまえは俺の前でだけその化けの皮を剥がしてくれるじゃないか。だから俺は心配するんだよ。他の連中の分までおまえのことを心配するんだ。おまえのことを旗印じゃなくて、人間だって思うんだ。それが俺の、たぶんおまえにしてやれるたった一つのことだから」
 サックスなりに、精一杯の言葉を贈ったつもりだった。こんな言葉でクラーリィに纏わり付いている何かを引きはがせるとは思っていなかったし、些細な切っ掛けでは引きちぎれもしない強固なものがクラーリィには取り憑いているのだと知っていた。
 それでも、少しでも、クラーリィが己の言葉に希望に近い何かを見出してくれれば、とサックスは思っていた。
「おまえがそんな……暗い考えを持っていることを、そういう悩みに直面したことを、そしてこんな結論を導き出したことを、誰も誰も知らないんだ。そして誰も、考えもしない。でもおまえは、たとえ話という形でそれを俺に話してくれたよな? 俺はそれが嬉しいよ。おまえのそういう部分を俺に見せてくれたことが嬉しいんだ。俺はおまえ本人に否定されようと、それを信頼の証だと考えるよ」
 サックスは振り返った。クラーリィの表情はサックスの期待を見事に打ち破り、何の感慨も見せてはいなかった。果たしてクラーリィはサックスの言葉をきちんと聞いていたのか、それすらも怪しい。
「そうか。なあサックス……」
 クラーリィはぼんやりと頭上を見上げる。どこまでも果てしない曇天だ。灰色一色に視界が染まる。ここには人々の生活も、森も、木の一本ですらも存在しない。ただの荒野。
「ん?」
「じゃあおまえは、俺の仮面の下を知っているおまえは、俺の指示を絶対だとは思わないのか? 俺の部下であることに、俺の命令を聞くことに、不安を覚えるのか?」
「どうして、そう、なるんだ……」
「おまえは俺を、信用してくれないのか」
「クラーリィ、俺はさっきおまえに、信頼の証だと考えると、そう言ったばっかりだ」
 クラーリィにサックスの言葉は何一つ届いていないようだった。都合の悪い言葉だけがクラーリィに届いて、その先の言葉が届く道を全て塞いでいる。
「でも」とクラーリィは言う。またあの、暗鬱そうな顔。サックスはこの顔が嫌いだ。とても嫌いだ。大嫌いだ。
 親友だと思っている。そしてクラーリィも、きっと己のことを親友だと思ってくれているはずだ。周囲だって、この二人は親友だろうという認識を揺らがせはしない。
 なのにこの顔は、クラーリィとサックスの間に越えがたい高くて厚い壁を作り出す。
「でもおまえは俺を、裏切るだろう」
「いいや」とサックスは言った。強く首を振った。
「俺はおまえを信じている。だからおまえも、」
「おまえは俺のことを人間だと言った。化けの皮を剥がしたその先を知ってしまった。だからおまえは、いざというときに絶対に俺の言葉を信用しなくなる」
 どうして、と問おうとしてサックスは諦めた。もう無理だ、クラーリィは断言している。彼の中でこの結論はもう決まり切ったもので、今更変えられるものではない。どこでどう間違ったか分からないが、サックスは彼にとって最後には裏切る者として認識されてしまったのだ。
 こちらは、おまえのことを信頼すると言ったのに。なのにそれがクラーリィには、一ミリも伝わらなかった。
「クラーリィ。おまえを壊したのは、俺だろうか。それとも他の誰か? それとも、それとも……おまえの愛するこの国か、大勢の部下たちか、」
「何を言ってるんだ?」
 クラーリィは笑っていた。その笑顔には一点の曇りもない。
「俺は壊れてなんか、ないよ」
 ならば壊れたのはこちら側だったのか、それとも我々の生きている世界なのか、とサックスは考える。ガラスのように繊細で、透き通った繊細な世界。気付かぬうちにばりんと派手な音を立てて割れてしまった。破片が飛び散って、まるで輝く雨のように大地に頭上に降り注ぐ。けれどガラスの破片は鋭利だ、雨とは違い被った者を容赦なく傷付ける。
 世界を構成していた要素は崩れ落ち、その者の魂までも傷付ける凶器と化する。いいや、狂気。
 自分たち大勢の部下を護るために身を焦がすクラーリィのことを、どうしたら守れるのか、とサックスは考える。実力面ではまず無理だ。ならば心だけでもいい。どうか彼が、どんどんと道を見失って迷子にならないように。そのためにサックスができることとは、一体なんなのだろう。
 サックスはさきほどの会話を反芻する。……どうしてあの時自分は、「絶対に裏切らない」と断言できなかったのだろう……
 サックスは再び前を向いて、とぼとぼと歩き始めた。クラーリィはその後ろを無言でついてくる。

 しばらくしたところで二人はほぼ同時に歩みを止めた。耳に届くのは寒々とした砂嵐の吹きすさぶ音だけだ。けれど二人は確かに聞き届けた。この場にあってはならない三人目の足音。ご丁寧にサックスやクラーリィと足音を合わせ、必死で気配を押し殺している三人目の構える刃物の硬い音。
 すう、と息を吐いた。こちらが気付いたことを勘付かれることなく、相手を仕留めるのが最良の方法だ。そのためにはどうすればいい。どういう行動に出ればよい。
 サックスが逡巡している間に、クラーリィは暢気にも「疲れたなあ」なんて呟きだした。
「風呂に入りたいなあ」
「その恰好じゃあな」
「ま、可否はおまえに任せるよ」
 サックスがクラーリィの言葉の裏を読み取ったのとほぼ同時、隙を見せたと勘違いした「三人目」が気配を如実に表した。
 サックスはすぐさま地を蹴る。思い切り踏み込んで、クラーリィを飛び越えるように彼の背後に迫っていた魔族の元へ。生憎手元にはサバイバルナイフのようなものしか残っていなかった、しかしそれでも相手ののど元にまで飛び込めば十分に急所を狙い撃ちできる!
 彼はくつくつと笑いながらその場にしゃがみ込んだ。急降下するサックスに当たらないようにと考えたのだろう。なぜそこで笑う、と思考の隅でサックスは思う。
 クラーリィはサックスに「任せる」と言った。ならば美しい死を演じよう。それが彼の願いなのだから。
 サックスはひらりと身を翻した。円弧を描くように、美しき完全なる円を描くように、万物の始点と終点を意識して、全てのものが生まれまた死ぬというサイクルをなぞるように。アルファとオメガを結ぶ唯一の線、真実の円。
 そうして握り締める武器を振るう。切っ先が描く曲線を追う。切っ先が描く、赤い空中絵画をじっと見つめる。遅れてものの倒れる音がした。
 ぱちぱちと拍手の音が聞こえてサックスは振り返った。血まみれの幼馴染みがそこにいた。
「お疲れ」と彼は言う。笑顔ではあるが、その声に喜色はない。メランコリックの支配する何かが彼に取り憑いて離れない。
「少しは分かってくれたみたいで嬉しいよ。何かコメントは?」
 答えなかった。サックスには答えられなかった。沈黙が彼の返答になった。しかしクラーリィはそんな反応を予感していたようで、特にがっかりとした様子は見せなかった。

 サックスは驢馬の上に乗る己を想像した。揺られ、歓声をあげる観客の視線を奪い、我が身はここにありと全身でもって叫ぶ己の姿。観客席の一番良いところにクラーリィが座っている。彼は嬉しそうに舞台を、サックスを見ている。まるで子供のように瞳を輝かせて、次に始まる演目は何かと、一体どんな愉悦が待ち受けているのかと、その展開を今か今かと待ち侘びている。
 そしてどこか、これまでにない、ハプニングのような意外な展開がくることをもこっそりと願っている。
 かつて義人を乗せ運命の地へと運び入れた驢馬が、今は怠惰をのみ乗せてどこか彼方へと旅立ってしまう。その背に揺られながら、サックスは一体己はどこへ連れて行かれるのかと考えている。本当は目的地を知っているのに知らないふりをする。
 振り返る。見送るクラーリィが満面の笑みで手を振っている。サックスはその声援に応えようと、手を振り上げて、そして――
 バランスを崩し、地へと墜落する。そう、知っているのに知らないふりをした。用意されていた履き物には油が塗られていたにも関わらず。クラーリィが喜ぶ、手を叩いて笑っている彼を視界の隅に捉えながら、サックスは最後のひとかけらの良心を手放す。



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