きみはずるい・2



***


 深夜に近い。シコードは割り当てられた部屋で一人静かに本を読んでいる。ここは静かで良い。世間の喧噪など忘れさせてくれるほどの心地よい静寂がある。



 がたん、と勢いよくシコードが立ち上がる。ノックの後勝手に開けられたドアの先には金糸の主・クラーリィがいた。
「な、何をしに来た!?」
「なんだその狼狽ぶりは?」
 当然のように部屋に入ってきたクラーリィに、シコードは必要以上に狼狽えている。
 がちゃり、と鍵が掛けられるのをシコードは絶望的な眼差しで見つめていた。

 ちらりと周りを見渡す。部屋には「防犯上やむを得ず」と説明を受けた、どう考えても人が通れない小さな窓が一つしかない。窓を割って逃げるほどの事態ではないが、クラーリィの真剣な表情に、一縷の不安が過ぎる。
「こ…断ったじゃないか」
「そうだな」
 まるで自分がこの部屋の主にでもなったかのように、クラーリィは部屋中央の椅子に座った。棒のように突っ立っているシコードを見上げる。
「座ったら」

 割り当てられた部屋は狭くない。窓は小さく一つしかないが、部屋に合う机・椅子類が配置してあり、調度品も良いものを使っている。書斎代わりにと置いてある机の足には立派な彫刻さえある。落ち着いた雰囲気の好きなシコードは、置いてあった蝋燭に火を灯し照明の代わりにしていたのだが、今はその暗い光が心細くてしょうがない。
 いざとなったら逃げ回れる広さだし、距離を取って妖精術を使い、異界への扉を開いてこの部屋から逃げ出すこともできる。
「座りなよ」
「あ、ああ…」
 再度の催促に応じて、シコードは少し離れた位置に置いてあったもう一つの椅子に座った。盗み見たクラーリィの表情からは、彼の真意がつかめない。

「何をしに来た?」
 シコードは先ほどの質問を繰り返す。クラーリィは少し黙って、口を開いた。
「個人的な話でもしようかと」
 クラーリィが話すたび綺麗な金糸が揺れる。もしこの金糸の持ち主が女性なら、シコードは少なからず性欲を覚えただろうが。あいにく現状はそうではなく、クラーリィはじっとこちらを見つめている。
「個人的な、話?」
「ああ。お近づきになろうかと思って」
 唐突に何を言い出すのかと思ったが、まあこの言葉には一理ある。互いに大国で、この先多数の交渉があることは目に見えている。多少気心のある者同士ならば交渉も捗るだろうし、心理的にも楽だ。そういえば、前任は彼と仲良くしていたのだろうかとシコードは考え、先ほどのクラーリィの言葉に赤面する羽目になる。
「(そうだ…『お世話させて頂いた』とか言っていたな…)」
 クラーリィの言葉を信じるならば、ある意味では前任とクラーリィは仲が良かったのだろう。確かに引き継ぎの時、大国とこうも上手く交渉できるものかと前任に尊敬の念を抱いたのを覚えている。その手段が明らかとなった今となっては、どちらかというと軽蔑の思いさえ浮かんでくるのだが。

「身の上話でもするのか?」
 生憎シコードにはあまり自慢できる過去がない。農民上がりで親は既に亡く、大帝に気に入られるだけの妖精術の腕前がなければ今頃農民をしていることだろう。この出世も全て軍国主義のこの国だからできたことで、おそらくはいい家の出の人間・クラーリィにはあまりしたくない類の話だ。下賤の身と軽蔑されるのがオチだろう。
 クラーリィは首を振った。
「いや。俺は平民上がりだからやめておく」
「…そうなのか」
 歴代大神官は全て王族の男子だと聞いていたが、この男はそうではないらしい。少々安堵すると同時に微妙な親近感が沸いてきて、あまりの単純さにシコードは内心自分を笑った。

「唐突で済まないが、一回くらい俺と寝てみる気はないのか?」
 本当に唐突にクラーリィは口を開いた。
「……は?」
 開いた口がふさがらないとはこのことだ。
「一回くらいいいと思うぞ」
「冗談じゃない」
 言葉の反動で勢いよく立ち上がるシコードを、クラーリィは椅子の上からじっと見上げていた。シコードとは対照的に、クラーリィは至って冷静だ。ふざけている様子もない。
「そうか。さっきは何だか遠慮しているみたいだったし、今後のことを考えて、一回くらいサービスしてもいいかな、と思ったんだが」
「ふっ、ふざけるなよ」
 混乱と怒りのあまり言葉が震える。言葉自体、上手く選べない。出てこない。
「俺を見くびるな、そんな、色欲で交渉の行方を左右させるなど、たとえ前任がしていても、俺はしない」
 クラーリィは少し黙った。小首を傾げて、少し口を開き掛けて、すぐに閉じた。言う気がなくなったらしい。
「なんだ。言いたいことがあったら言えばいいだろう」
 クラーリィはシコードを見上げる。座ったら、と小さく呟いたクラーリィの言葉に従い、シコードは大人しく席に着いた。席に着いたことを確認してから、クラーリィはようやく口を開いた。
「シコード、おまえ、『こういう』交渉はしたことがないんだな」
 一瞬ムッとしたが、事実ではあるし、クラーリィの口調から侮蔑の類のニュアンスは感じ取れなかったので、素直にああ、と返事をした。

 気を落ち着かせるために、椅子の横に置いてあった水に手を伸ばす。幸い二つ並んでいたグラスの両方に水を注いで、一つをクラーリィの座る椅子まで持って行った。差し出された水を素直に受け取ったクラーリィは、シコードが自分の席まで戻るのを待つ。
「何というか、グロッケン帝は若い男を侍らすのがお好きなようだし、おまえも例に漏れないのかと思っていた」
「大帝を侮辱するような――」
「違う、そういう意味で言ってるんじゃない」
 釘を刺された。他にどういう意味に捉えられるんだとは思ったが、ここは静かにクラーリィの話を聞くことにする。
「俺は大神官になるときホルン様やその他の人にみっちり仕込まれたんだ。自慢じゃないが。交渉術の一つとかいって…おまえもそうなのかと思って、そういう話し方をした。そうでないなら俺の見込み違いだし、下世話な話をして申し訳ないとおも――」

「待った」
 つい口を挟んでしまったが、実際何も言うことはない。混乱して、彼の言葉に自分の頭がついていかなかっただけだ。しかし残念なことに、クラーリィはシコードの言葉をしっかり聞いていて口を噤んだ。彼は明らかにシコードの言葉を待っている。
「あ…その、なんだ…」
 自分が情けなくなるほど、背中に冷や汗の気配を感じる。じっと待つクラーリィの視線が痛い。
「…あ…」
 自分がもう少し機転の利く性格だったらよかったとシコードは切に思った。

「試しに寝てみる気になったか?」
「なぜそうなる!」
 シコードは自分に余裕がないことをはっきり自覚している。が、余裕のないことに変わりはないのでやはり言葉に困る。
「冗談じゃないか、おまえがはっきりものを言わないから」
 最もだが、この状況下で冗談などと捉えられるほどシコードの頭は柔軟ではない。第一この場でそういう類の冗談は呪わしいほど扱いにくい。

 言葉に困ったシコードと、何か言いたげな顔をしているクラーリィの間に沈黙が訪れた。

「この様子じゃ進展はなさそうだな」
 言うなりクラーリィが立ち上がる。慌てるシコードを尻目に、「ご用のあるときはいつでも」と言い残して彼は部屋を出て行った。

 唖然としたシコードが一人部屋に残された。



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