きみはずるい・5



***


 昨日一昨日と同じように始まった会談は、さして必要のない社交辞令を受け流すところから始まった。昨日に増して憂鬱そうな、若しくは気怠そうな表情の大神官が定型文化した挨拶を述べる間、シコードはじっと黙っていた。朝方の補佐の態度が未だに引っ掛かるうえ、今目の前にいる大神官から覇気がちっとも感じられない。別段あからさまに具合が悪そうという訳ではないのだが、初日とは余りにも違う顔色に違和感を拭えない。最も、それを指摘したところで恐らくは「お前のせいだ」と返されるのだろうが。

 会談は本題に入り、クラーリィが書類の文字列を読み上げる。その声から特徴的な抑揚がなくなっていることに気が付いてシコードは気を揉んだ。これは俺の所為かと思い、いやいや俺はちっとも悪くないと思い直し、そもそも赤の他人の、しかも男の体調をここまで心配する自分を発見して愕然とする。そして何よりその声を自分は気に入っていたのだと否が応にも自覚させられた。

 シコードが黙っているのを良いことにクラーリィは確認事項を繰り返し、ではと自国の案を読み出した。そこでシコードは本日二度目、またも自分の耳を疑う羽目になる。
 クラーリィの語る案と今朝補佐が持ってきた案は、隅から隅まで全く同じだったのだ。
「なんだと?」
「何か問題でも、師団長」
 シコードを見返してきたクラーリィは気怠そうな眼差しを投げた。口の端を小さく歪めて、異議無しだろう、と囁く。相変わらず覇気は感じられないが、金糸の奥の緑の瞳は近寄りがたい冷たい炎を宿している。
「大神官…おまえは昨日…」

 シコードにはその先がどうしても言えなかった。こんな些細な点まで同等のものを独立して作れるはずがない。口裏を合わせている、そしてこの案の内容はスフォルツェンドにやや有利。となれば、導ける答えなど一つしかない。
 昨日、目の前の男と自分の補佐がなにをやったのかくらい想像が付く。でもシコードにはどうしてもその現実が容認できなかった。補佐が自分を裏切ったから。あの笑顔の意味が汚れたものであると知ったから。…いいや、目の前の彼がまた一つ汚れてしまったことを知ったから。

「昨日、何だ?師団長」
 面白くない、とでも言いたげにクラーリィが先を促す。シコードは少し悩んで、そういうのは、と言葉を濁す。
「俺は何か悪いことをしたか?」
 強い語尾には何も悪くないというクラーリィの主張が含まれる。凛と光る暗い瞳は、シコードに対し明確な敵対心すら浮かべている。
「だ、だが…クラーリィ、そういうことは…」
 どんなに考えてもうまい言葉が出てこない。だけれど、否定だけはしなくてはいけない、そんな使命感すら感じるのだ。
 シコードが意見を譲らないことに苛々したのか、クラーリィは小さく舌打ちを一つ、当て付けのように言葉を吐き出す。
「おまえが寝てくれないから代わりに補佐と寝ただけだろう。決定権は彼とおまえで半々だし、俺は最初からどちらでも――」
「やめろ!」

 シコードが叫ぶ。普段のシコードの落ち着き払った様子からは想像もつかない大きな声を出したものだから、クラーリィは口を噤んだ。反論しようと口を開いて、息まで吸って、でもクラーリィは言葉を発さなかった。自分にまっすぐに向かってくる強い視線に意思を奪われる。
「…やめろ」
 もう一度、今度は静かにシコードが繰り返した。先ほどの激情は表面上隠れたようだが、言葉尻には明確な意思が宿ったままだった。クラーリィは反論することを諦めて口を閉じた。



 なぜこんなに後ろめたい思いをしなくてはいけないのか、とクラーリィは思う。それほどにシコードの視線は有無を言わせぬ強いものだった。
 あんな言い方・態度をすれば、シコードに批難されるのは目に見えていた。それでも意地を張ったのは、悔しかったから?それとも…それとも、何だというのか。
 クラーリィは自分を見失っている。そのことを漸く自覚して、同時に冷静な視線を取り戻した。

 目の前の男は怒っている。自分自身に対して、そして彼の補佐に対して。自分は彼を十二分に怒らせることをした。それは大神官として大変に不味い対応だった。
 クラーリィはそこまで考えて、ごめん、と小さく声を絞り出した。乾いた口から発せられる言葉は掠れていたが、シコードにはそれがちゃんと届いたらしい。強い視線が若干弱まったのを感じる。
「俺が悪かった、だが会談を進めなくては。この後…時間を取る、もし良かったら俺はおまえのお説教を受けようと思う」
 言っていて自分でも妙な申し出だと思う。でも目の前の生真面目な師団長は、こう申し出ればほぼ確実に「お説教」をしに来ると想像が付く。

 案の定シコードは頷いた。プライベートを仕事に持ち込んで済まない、とまで先手を打った。
「夜、呼びに行く。では、先ほど提示した案件だが――」

 クラーリィが書類を捲る。先ほどの覇気のなさとは打って変わって、広い部屋に響くあの声が紡ぎ出された。幾分声色は低いものの、抑揚が戻ってきている。ああ、元に戻った、とシコードは一人安堵の息を吐いた。


***


 夜遅く、クラーリィはシコードを呼びに外へ出た。来賓用の豪勢な宿泊施設へと足を踏み入れる。約束を忘れ、寝ていてくれやしないかと思ったが案の定シコードはばっちり目を覚ましていた。ダメ元で「寝ないのか」と問いかけたところ、「明日はただの外遊だし、そもそも言い出したのはおまえだろう」とえらく不愉快そうな声色で怒られた。もっともだ、と頷いてその場を流した。

 二人、クラーリィが用意したこの施設の空き部屋へ向かう。何かあったときのため、常に階全体が空き状態で保たれており、突如急使がやって来たときなどに労いの意味も込めてこの階の部屋を提供する。今現在、この階は使われていない。密会にはちょうどいいという訳だ。
 薄暗い深夜の廊下に二人分の不揃いな足音が響く。他の者が寝静まっているため廊下は非常に静かで、音を立てないように歩いているにも関わらず足音が響く。二人が移動することで止まった空気の流れが乱れるのを、肌で感じられる気がした。
 クラーリィは何度も後ろを振り向きたくなる衝動を抑え込んだ。背後の気配が微妙に揺れることが気になって仕方なかった。実際は、クラーリィ自身の心情が揺れ動いていたのに他ならないのだが。

 鍵を開ける。暗い部屋に明かりを灯し、どうぞと促すと、少しだけ疑う顔をしてシコードがドアをくぐった。



「おまえのそういう姿は見ていられない」
 開口一番シコードが言い放った。その言葉がクラーリィに突き刺さる。知らずの内に口は固く結ばれ、手は白くなるほど握り締められている。
「おまえはスフォルツェンドの誇り高き大神官だろう?」
椅子に収まったシコードはゆっくりはっきりとものを言う。少し離れたベッドの上で正座しているクラーリィは、俯いて何も言わない。
 二人の間の照明が、ゆらゆらと不安げな影を作る。まるで今のクラーリィの心のように。その頼りない明かりでも、クラーリィが青い顔をしているのだということだけは窺い知れた。
「なぜ自分をそんなにも安売りする」
「…めて、くれ…」
 静かな物言いが、怒鳴られるよりよっぽど心に突き刺さる。それがシコードの「事情を知らないが故の親切心」であることを知っているからこそ、尚のこと心が痛い。
「おまえにはあんな方法を取らなくても交渉を乗り切れるだけの実力があるだろう。大神官としての自覚は――」
「やめてくれっ!」
 クラーリィは叫んでその場に蹲った。お説教を受けるなどと言わなければ良かった、でなければこんな惨めな思いをすることはなかったのに。

 クラーリィは蹲り、微かに肩を震わせている。耳を塞ぎ、これ以上何も聞くまいと蹲っている。自分自身を守るために。微かに残る悔悟が、クラーリィ自身を押し潰してしまわぬように。

「泣いて…いるのか」
 シコードの立ち上がる気配。溢れる涙をクラーリィは自覚していて、だから顔を上げることができない。カーペットを踏み締めて近寄ってくることがわかっても、クラーリィには肩を震わせて啜り泣く他なかった。
「泣かせ…たか」
 シコードがベッドの前で立ち止まったのがわかった。手を出してこないことに安堵する。何か言わなくてはとクラーリィは込み上げる嗚咽を必死で押さえ、何とか発声をしようと躍起になる。
「俺は…そんなやつじゃ…」
 蚊の鳴くような声はブランケットに吸い込まれかなり聴き取り辛くなっていたものの、心配そうな顔をして、掛けようとした手を宙に浮かせていたシコードの耳にはしっかりと届いた。
「俺は…良かれと思って…俺は、俺…は」

 始めから終わりまでそれは純粋な忠義心から来るもので、シコードが言うようにクラーリィのプライドやら自覚やらが入る余地などない。…ない、はずなのだ。
 だからクラーリィは何も悪くない。国のため、慈悲深き女王のため、正しいことしかしていない。後ろめたくもない。そういつもいつも言い聞かせてきた。言い聞かせ、現実から目を背けていた。それで十分やっていけた。…シコードが現実に引き戻す、その時までは。

「よせ、泣くな」
 シコードが子供をあやすような口調でクラーリィを宥める。苛ついた様子もなく、中途半端に挙げた手を下ろす気配もなく。ただひたすら、優しい口調で、クラーリィを宥めている。
「悪かった」
「…おまえは俺の人生を否定してるんだ」
「悪かった」

 目の前で肩を震わせる青年が突如年相応になったように思えて、シコードは罪悪感に駆られた。今この時「お説教を受ける」と言って出てきたのはスフォルツェンドの大神官ではなく、ごく若い時からその身を大人の社会に置いているだけのいち青年だったのだ。
 クラーリィの過去を自分は知らない。短く語られた訳のありそうな言葉から推測する他なく、今思えば「自分には知らない世界がまだまだあるのだ」と素直に受け取っておけばよかったと思う。少なくとも「クラーリィ一個人のささやかな問題だろう」と考えるべきではなかった。この世界で生き残るため、クラーリィは一体どれほどの対価を支払ったのだろう。それは、この世界に飛び込んで日が浅く、これまでいわゆる「汚れ」をやらずに済んできたシコードには想像もつかない。

 昼前、彼が汚れたと少なからず不愉快な思いをしたのに、今に至って自分の言葉が彼の頬を濡らす羽目になるとは。胸をさす罪悪感から、発する言葉が柔らかくなる。
「泣くな…明日酷い顔になる」
「おまえの所為だ、おまえの、おま…えの…」
 一向に顔を上げないクラーリィにほんの少し業を煮やして、シコードはそばにあったブランケットを涙の主に掛けてやった。案の定、クラーリィはあれと顔を上げる。
 涙の浮かぶ緑の目には赤みが差していて、噛み締める唇も色が変わっていた。
「悪かった」
 同じ言葉を同じ抑揚で繰り返す。クラーリィは何か言いたげに口を開いたが、言葉にはならなかったようでふっと息を吐くに留まった。

 シコードは思わずその様子を凝視して、それからそろそろと彼に手を伸ばした。クラーリィは避ける様子もなく視線をずらしただけ、やがて伸びた手がクラーリィの頬の涙を拭う。そのまま頬に留まった手の真意を探ろうとクラーリィがシコードを見上げる。長い長い沈黙。
 橙色の照明がふいに消された。先に手を出したのはどちらか、二人してベッドに倒れ込み、静かな暗い部屋から嬌声が聞こえてくるまでそう時間は掛からなかった。



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