きみはずるい・6



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 微かに差し込む日差し、そして朝特有の空気の匂いで目が覚める。遠くにはちゅんちゅんと長閑なさえずりすら聞こえ、ああ良い朝だと体を起こそうとして硬直する。
 隣に蹲るのは紛れもなくクラーリィ、中途半端にはだけたブランケットから薄い胸板が見え隠れし、すうすう、小さな寝息と共に上下しているのが伺える。着衣の乱れどころではない。彼が昨夜身に纏っていたものは、空しくもベッドの横に投げ捨てられている。

 シコードは真っ青になった。血の気が引いていくのを明確に自覚した。
 昨日あんなことを言ったのに、同時進行で彼の纏う「気」に惹かれていた。一言で言えば欲情したのだ。立派に男であるクラーリィに、同じく男であるシコードが。
 百歩譲って欲情したことはよしとしよう。だがシコードはその欲求を現実のものにしてしまった。クラーリィに手を出した。あれだけ強固に「そんなことはしない」「安売りするな」と主張を揺るがさなかったのに、行動がそれを裏切った。
 昨日の言葉に説得力などない。

 何より呪わしいのは、そんな現実に直面して尚、隣で寝息を立てるクラーリィの表情に得も言われぬ安堵を感じることだ。これまで数日間、緊迫した、あるいは不機嫌な彼の表情しか拝めなかったから、無に近いクラーリィの表情が新鮮だ。年相応だ、とも感じる。胸の奥、ちりちりするような微妙な感覚。焦燥感、とでも言えばよいのか。
 …焦燥。そうだ、自分はクラーリィに何と言ったらいい?

 シコードの逡巡も空しく、彼の中で結論が出る前にクラーリィが目覚めた。もぞもぞとブランケットの中から起き上がり、ぼんやり眼をシコードの方へ向ける。
「…俺は馬鹿だ」
 シコードが絞り出した腹の底からの後悔の声が届いたのか。
「そうだな、おまえは馬鹿だ、シコード」
 クラーリィはそう呟いて、するりとベッドの外へ出た。

 部屋に差す薄暗い陽光が一糸纏わぬクラーリィの肢体を浮かび上がらせる。細くはないその四肢についた若干の筋肉や、クロゼットから身に纏えるものを探す綺麗な指先、素肌を滑る長い金糸が艶めかしい陰影すら作り出す。
 ガウンを羽織ると、クラーリィは呆然としたままのシコードの方を振り返った。
「何をぼやっとしている。今日は『視察なさ』って、そしてそのまま国に『お帰りに』なるのだろう?早く部屋に戻れ、不審がられるぞ」
 蕩々と告げるその声色に昨日の面影はなく、一切の慕情を断ち切るただただ遠いだけの声。
「そう…だな」
 シコードは身を起こした。黙ってその様子を見守るクラーリィの視線が、心に痛くて仕方なかった。



 忘れるべきか、否か。
 一日中シコードの頭の中にあったのは、彼の人生最大ともいえる過ちの処理。シコードにはある程度の選択肢がある。このまま忘れる、開き直って関係を続ける、誠心誠意を込めて彼に謝る。それから…まだ他に選択肢があるか。
 謝らなければ、とは思う。あんなことを言っておいてそれを台無しにする行動を取ったことを、彼と、それから自分自身に。

 シコードは終わらない逡巡を打ち切って現実に意識を戻した。
 隣に立つクラーリィを見やる。彼は今のところ実に正常で、昨日の出来事など無かったかのようだ。最も、彼の言葉を信じるならば今までにも多々あった状況なのだろうから、その反応こそ普通なのかもしれない。

 最終日はいわゆる「懇親会」に当てられていた。世界を担う大国であるお互い、せめて表面だけでも仲良くしようという意思の表れだ。シコードはスフォルツェンド王宮の美しい中庭や来賓用に展示してある伝統的な工芸品、装飾の施された精巧な窓から見上げる四角い空にいちいちため息をついた。美しいと感嘆するのが半分、鬱々とした気分から突いて出てしまうのが半分。
 そよぐ風は優しく頬を撫でていく。シコードをくすぐった風はクラーリィの方へ流れ、彼の長い髪をふわりと揺らした。



 一方、クラーリィはと言えば、シコードの隣、涼しい顔をして振る舞ってはいるものの、その心中は複雑だった。

 始めは些細な悪戯心から来ていたものがいつの間にか子供っぽい対抗心に変わって、気付いたら「シコードをここまで蹴落としたい」とすら願っていた。結論から言えばその願いはいとも簡単に叶った。クラーリィに同情したシコードが、その場の雰囲気に流されてくれたのだ。その後の彼の様子を見るに大変落ち込んでいるようだが、事実は事実。「堕ちて」しまったことに変わりはない。
 だが、諸手を上げて喜ぶはずがちっとも楽しくない。嬉しいとも思わない。ただ胸にあるのは少しばかりの罪悪感と後悔の念で、それらの他は空っぽなのだ。

 昨日のことは、別に意図してやったことじゃない。
 事実、クラーリィはシコードを誘ったのではなく、向こうが勝手にそう受け取ってくれただけだ。それどころか、状況を説明すれば「クラーリィの弱みにシコードがつけ込んだ」とすら取られかねない状況だった。それまで散々誘っていたという前科はあるが…。

 ちらりと盗み見たシコードは相変わらず暗澹たる表情をしていて、クラーリィの注ぐ視線に気付くとますます萎縮してしまった。
 なんだよ、と悪態を付きたくなる。そんなに暗い顔しなくてもいいだろうと。きっとこの事情を知らぬ人間から見れば、この懇親会は大失敗だと映っているだろう。涼しげな顔をして黙っている大神官と、暗澹たる表情のままの師団長と、この二人を見て「大成功だ」と思う方がおかしい。

「ご気分が優れられませんか?」
 クラーリィは少し歩を緩めて、シコードの様子を窺う。
「え?あっ…い、いや…すまない、平気だ」
 案の定クラーリィの言葉に必要以上に反応して、シコードはぶんぶんと大げさに否定した。クラーリィはごく自然な笑みを浮かべて「そうですか」と答える。それからすぐに、今度はシコードにしか聞こえない声で「済まなかった」と呟いた。
「すっ…それは、俺も…」
 シコードがちゃんとした謝罪の言葉を述べる前にクラーリィは彼から離れ、次の瞬間には大神官然とした笑顔を顔に貼り付けていた。
「師団長、こちらの彫刻は――」

 シコードは謝罪のタイミングを逃した。それから先、大神官にも自分にも個人的な話をする時間は与えられず、もやもやとした気分を抱えたままシコードは帰路に就いた。
 見送る大勢のスフォルツェンド国民の中央、金色の髪の主が立っていた。手を振るわけでもなく、声を掛けるわけでもなく、ただじっとこちらに視線だけを投げかけるその様子を、同じくじっと黙ってシコードは馬車の窓から眺めていた。馬車が離れ周りの職員たちが立ち退き、お互いの姿が米粒になる程離れても、なおも独りそこに留まるクラーリィが印象的だった。



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