きみはずるい・7



***


 月日が流れるのは早いもので、シコードの人生上最大の失敗から早三ヶ月が経とうとしている。ここ三ヶ月にわたりスフォルツェンドとの交渉ごとは一切無く、来週開催される主要国会議がその後初の顔合わせになる予定だ。あの後何度も「謝罪の手紙を出す」とか「何らかの理由を付けて通信し、ついでにそこはかとなく謝る」とか、とにかくいろいろな謝罪のバリエーションが浮かんでは消えた。
 多分、クラーリィの方は特に何とも思っていないだろう。自分も「クラーリィの上を通り過ぎた人間の一人」で、「安易な方法で言いくるめられる男」の一人に過ぎない。でもシコードはその現状が許せなかった。クラーリィの特別になろうとかそういうことではなく、あの一晩をただの交渉ごとの一環と受け取られるのが厭で厭で堪らなかった。
 シコードは過ちを犯した。それは認めよう。あんなに批判しておきながら、同じ行為を彼にした。それも認めよう。でもその行為は、決して他の男たちと同じ意味ではなかった。我を通すための感情の無い行為ではなかった。クラーリィは理解してくれないかも知れないが、せめてそれだけは伝えておきたい。

 スフォルツェンド・グローリアの他三国が集まる主要国会議では、今後の世界を左右する重大な条約が結ばれることが多い。元はと言えば、三ヶ月前のスフォルツェンド−グローリア間の交渉もこの日の交渉のための事前交渉が含まれていた。久しぶりの大舞台だ、とシコードは気を新たにする。
 そしてもう一つ、シコードにとっての重要事項はクラーリィとの再会だ。といっても、前回のように融通の利く会議ではないからクラーリィや他国の代表と個人的な話をすることは難しいかも知れない。



 当日、ぞろぞろと会場に集まった人々の中にシコードとクラーリィの姿があった。お互い視線すら合わせる暇が無く、彼らの他は年配の代表者たちに愛想を振りまく。一言でも間違えると「これだから若い衆は」と小言が漏れるのだ。大国を背負う責任者として、後ろ指を差されるようなことは決してしてはいけない。
 もしこの様子を録画でもしてオフの時に幼馴染みたちと見たなら、大爆笑必至だろう。その位必死でこの会議に挑んでいる。無論それはシコードも同様で、クラーリィと二人きりの時には一度も見せなかった笑顔を貼り付けて年配の代表者と言葉を交わしていた。

「(仕事する格好…久しぶりに見たな)」
 三ヶ月もすれば頭が冷える。現にクラーリィは自身の三ヶ月前の行動について、シコードには申し訳ないことをしたと思っている。
「(一応謝ったが…怒っているだろうな、シコードは)」
 一言で言えば純粋だった彼に、いろいろと性急に物事を教え込んでしまった。きっと怒っていることだろうと思う。それどころか、盛大に嫌われているに違いない。まあ、クラーリィは彼に心の底から嫌われるだけのことをした。もしそうだとしても、やっぱりそうか、ごめんなさい、で終わってしまうことだ。

 誰に嫌われようとこれまで気にも留めなかったクラーリィだが、今回だけは少しだけ心残りがある。
「(…き、気持ち良かっ…た…んだよな…)」
 何だその理由、と自分でも突っ込みたくなるが、ここ最近主要国会議が近づくにつれ胸がちくちくと痛んだのはこれが原因だとクラーリィは結論づけた。これまで痛みしか感じない行為しかしてこなかっただけに、この衝撃は大きかった。
「(単純だな、俺)」
 だが逆を言えば、それはつまり彼に自分が少なからず惹かれていたということだ。あの行為を、昔のように味気ない痛いだけものを自身が受け取らなかったのは、きっと気持ちの補正があったからなのだから。
「(ごめん…ってもう一度謝りたいけど、きっと向こうは無かったことにしたいに違いない)」
 あれだけシコードのペースを乱しまくったのだ。今更、クラーリィの都合に合わせてくれなど勝手にも程がある。



「さあ、そろそろ始めましょうか」
 お声が掛かり、他愛もない、しかし水面下では尋常でないほどの感情の渦巻く立ち話が終了した。クラーリィは頭を改めて仕事用に切り換える。見据えた先は五人には広すぎる大仰な机。世界に誇る大国スフォルツェンドの最高責任者に相応しい不敵な笑みと共に、クラーリィ初め五人が席に着いた。

 三ヶ月前と同じように話すクラーリィを、シコードは三ヶ月前とは別の視点で眺めていた。
 この三ヶ月会うことはなかったが、様々な風の噂が耳に入った。他愛もないことから、絶対に嘘だと確信が持てることまで様々。その中で一つ、シコードの心に引っかかって仕方ない噂がある。一言で言えば「クラーリィが取引方法を改めた」というものだ。どうもそれは例の「接待」のことらしい。
 直感でその理由が自分だと感じた。自分の軽率な行動が彼にどう影響したのかわからないが、取りあえず彼の行動に楔は打てたらしい。それが良かったのかどうかは別として。

 一見クラーリィに特に変化は見受けられない。
 三ヶ月は長いようで短い。そんなに急激に人に変化は起こらない。だから当然といえば当然だが、まるでそれが二人の関係がふりだし以前のままであることを装っているようで、シコードは何とも言えないもやもやとした気持ちを抱いた。
 以前のままならいい。けれど、現実は違う。


***


 シコードはため息をついて蝋燭を吹き消した。瞬時に部屋が暗くなる。小さな窓から漏れる夕日の心許ない明かりと静寂に包まれた部屋の中で、シコードはもう一度こんどは大きくため息をついた。
 ゆらゆらと不安定な蝋燭の炎はいつもシコードを安心させてくれるのに、今日は苛々させるだけでちっとも落ち着かせてくれない。気を改めよう、外の空気を吸おうとシコードは部屋を出た。

 少し歩いたところでシコードは廊下に人影を見つけた。特に疚しいことがあるわけでもなかったが、なにやら心が騒いで立ち止まる。視線の先では、残る三人の中では一番若い男が、クラーリィと薄暗い廊下でこそこそと何かを話していた。明日の口裏合わせかとシコードは眉を顰め、同時に考えたくない可能性まで思い出してしまう。
「(…まさか…)」
 シコードは角に戻り息を潜めた。微かではあるが、二人の言葉が漏れ聞こえてくる。

「…しかし…、俺は、その」
 弱り果てたようなクラーリィの声にシコードはぎょっとする。そしてそのクラーリィを追撃するかのように、男の声が聞こえる。
「おやおや、今回は随分とつれないのですな?もしや、あの噂は…」
「それは関係ない!…いや、ありません、関係ないんです」
 みるみる弱い声に戻るクラーリィに、シコードは焦燥感を募らせる。彼がこんな場所で弱り果てる理由などシコードは一つしか知らない。
「…わかりました。今晩、部屋でお待ちしています。警備の者には、話を通しておきますから」
 数秒黙りこくった後、クラーリィは吐き捨てるように言葉を紡いだ。満足げな男の声が聞こえ、同時に二つの足音が別々の方向へ去っていく。

 シコードはその場で自分の感情と戦っていた。
「……っ…!!」
 この感情を何と表現すればいい。沸々と滾るこの感情を。相も変わらずこんなことをしているクラーリィへの怒り?それとも、それとも…
 シコードはものの数秒の間に何度も肯定と否定を繰り返した。そして最後には声にならない呻き声を上げる羽目になった。
「(放っておけばいい、あれは彼の選んだ道に相違ない。だが…だが…!!)」

 本来なら放っておくどころか、シコードは関わりを持てない事項だ。素知らぬ振りをすればそれで終わり、明日にはあの男が満足そうに条件を一つのみ、クラーリィがまた少し疲れたような顔をして、それで終わり。
 彼がまた一つ汚れて、それで終わり…。

 ぐるぐると回る感情の所為で、目の奥がじんわりと痛む。どんなに考えても、脳が沸騰したかと思うほど考えても、シコードは安直に結論を出すことができなかった。
 自分は手を出すような立場にない。たった一度関係を持っただけで恋人顔をするなと彼は言うだろう。
 それでも自分は手を出すべきではないのか。ベッドの上で蹲って泣いていた彼の、声にならない助けの求めを受けてやるべきではないのか。

 助けてくれというその一言は彼から一度だって聞いたことはない。これから先も、クラーリィの口からその単語が飛び出すことは無いように思う。それでも三ヶ月経って、思い返せば思い返すほどにあの行動の真意はそうであるとしか思えない。
 あくまでもシコードの想像に過ぎない。でもなぜかその思いを、根拠もなく確実であるようにシコードは感じていた。



 自室に戻る間、クラーリィは自己嫌悪に苛まされていた。

 シコードに悪い気がしてここ三ヶ月ほどあの交渉法を断り続けていたが、お陰でいろいろな噂を立てられた。結局は既に汚れた身、今更になって操を立てようなど無理にも程があったということだ。
「(大丈夫だ…彼はもう忘れたようだった)」
 無意識のうちにクラーリィは自身を抱きしめる。別段寒い季節でもないのに、寒くて寒くてたまらないのだ。
「(大丈夫…良い夢を見ていただけだ)」
 その様子を他人が見たら、子供のようだと形容しただろうか。指が白くなるほど自身の腕を掴んで、クラーリィは独りとぼとぼと自室へ戻っていく。
「(大丈夫…大丈夫だ…)」
 薄暗い廊下には一人分の足音が響き、長く伸びる影がクラーリィを追いかけた。



Top Pre Nxt