けっ、とヴォーカルは足下を蹴った。生憎と清掃された床で、転がっていくものなんて何もなかったが代わりにヒビが入った。ヴォーカルは前を見据える。不貞不貞しく立つベースと、彼に侍るピックが視界に入る。今のヴォーカルにとっては、どちらも不愉快の原因でしかなかった。
「じゃあおまえの可愛いピックを俺に寄越せ。そしたら少しは大人しくしてやるよ」
 うんと言うはずがない。だってピックはベースのお気に――
「いいぞ」
 間髪入れず返ってきた言葉にヴォーカルは耳を疑った。それはピックも同様だっただろう。
「は?」
「おまえが寄越せと言ったのだろう。約束は守れ。その代わりピックは好きにして構わん」
 くるりとベースが踵を返す。開いた口の塞がらないヴォーカルと、同じく時が止まっているらしいピックがその場に残される。

 言うだけ言ってベースは立ち去った。思惑が外れたと歯ぎしりをするヴォーカルからは少し離れて、ピックが絶望に染まった瞳でもう見えないベースの背を探していた。


***「あともう少しあれば」


「……ッ…」
「どうだ?自分より『下等』な奴に組み伏せられる気分はさ?」
「……」
 ぎり、と歯がみする音がヴォーカルの耳にまで届いた。魔族きっての「上品」で通っている彼が歯ぎしりするほど悔しいのに、ヴォーカルに対しなんの苦情も言わない。それがベースへの忠義心からくるものと知っていて、ヴォーカルは面白くなくて仕方なかった。
 無理に腕を捻り上げると彼は漸く小さく悲鳴を上げた。それでもすぐに押し殺して、ぎりぎり変な音をして軋んでいるというのに尚も何も言わない。
「何我慢してんだよ?黙ってたって助けてくんねーぞ、ベース様はよ。おまえのこと俺に売ったんだからな」
 ピックは絶対に何も言わない。歯をかんで、耐えて、苦情の一つも言わない。

 黙っていられるのが一番腹が立つ。それを見越して黙っているのだとしたら、ピックの執念には頭を下げざるを得ないだろう。一言「許してください」とか、そういう台詞を吐けばそれですっきりするのに、矜恃の高いピックは絶対にそれをしない。ヴォーカルがどんなにねじ伏せてやると思っても、ピックは自分の意思を曲げようとしない。
 思い通りにならない。面白くない、腹が立つ。高尚な相手をねじ伏せるのは楽しいが、その愉悦がそれまでの苦役を超えて初めて楽しいと言えるのだ。先の見えない苦役など、こんなの不愉快でしかない。…まあ、これは実に身勝手な論理だ。それはヴォーカルにだって分かっている。
「何か言えよ」
「…何も。おまえに、言うことなど」
 言葉の一つ一つがヴォーカルの期待を外れ、苛々させる原因になる。なら何か言えよなどと言わなければいいのだが、それはそれで自分が折れたようで腹が立つ。

 こういう、どうにも自分自身の中で解決できない物事に当たった時のヴォーカルの解決策など一つしかなく、ひたすら殴る、蹴る、の暴力三昧。幸いにしてピックはそこらの人間よりずっと打たれ強く、殴ったら死んでしまうなんてことはないが、殴られても黙っているピックを見ているとそれはそれで腹が立って、結局際限ない苛々のループに追い込まれるだけだった。



 ヴォーカルが殴るのにも飽きたところで、ようやくピックが視線を動かした。物凄く迷惑そうな顔でそっと見上げて、ヴォーカルが本当に飽きたようだと判断した彼は受け身の体勢を崩した。
「満足か」
 ボロボロになった体に宿る、煌々とした瞳はヴォーカルに敗北感すら与えた。掠れた喉から絞り出される声は微かだったが、その言葉に宿る強い意志がその言葉を重々しく捉えさせる。殴られたところが痛むのか、ピックは自身の腕やら腹やらをさすりながら話していた。
「さぞや楽しいのだろうな」
「…いや、ちっとも楽しくない」
 ヴォーカルは素直に首を振った。ここで「ああ楽しいさ」と答えたところで、自分の胸には不快感が募るだけだろう。わざわざピックを虐める為だけにヴォーカル本人が不愉快になるのは割に合わない。
「なら止めたらどうだ」
「なんだ、命乞いか?」
 単純なヴォーカルの声には喜色が含まれる。とうとう折れたのかと彼は期待したのだが、ピックはそんなに「優しく」なかった。
「いいや。悪魔のくせに意味のない行動をするなど、私には理解不能だ」
 ましてや楽しくもないとは、と彼は言う。実に尤もらしいピックの主張には、流石のヴォーカルも反論をすぐに見つけることが出来なかった。実際、反論できるような明確な感情など無いに等しいのだが。
「今のおまえを見ているのは、ベース様に拾われる前の自分を見ているようで不愉快だ、ヴォーカル」
 ヴォーカルが手を挙げるのに飽きたと判断したのか、ピックはその身を起こして服の埃を払った。その動作一つ一つは本当に上品で、正直どうして荒くれ者ばかりの魔族の中に身を置いているのか不思議だ。多分、いや絶対にその答えは一つで、「ベースの側にいるため」なのだろうけれど。
「…ふうん?」
 殴ろうか一瞬迷ったが、それよりピックが言葉の端に見せた「昔の自分」に興味を覚えてヴォーカルは無難な相づちを返した。が、ピックは続きを話さない。用は済んだと言わんばかりに距離を取ろうとすらしている。
「…おい」
「何だ」
「続きは?」
 返しかけていた体を戻し、ピックは律儀にヴォーカルの方へ向き直る。人の話を聞く姿勢、だ。
「何の?」
「おまえの話」
 ピックは首を傾げた。続きなんかない、と彼は言う。
「もう忘れた。いつだったのか思い出すのも億劫なくらい昔の話で、長いし詰まらないし、おまえが好きそうな聞いた後胸がすっとするような話でもない」
「何だそれ…期待させやがって」
「期待?」
 ピックがまたも素直に首を傾げる。こういうところは素直で可愛くない、とヴォーカルはひとり毒づく。
「おまえがどうしてそんなにベースの野郎に傾いてるのか、気になるじゃねえか」
「…ああ」
 そういうことか、とピックは呟く。しばらく俯いて彼は言葉を探していた。待たされるのは五本の指に入るくらいに嫌いなヴォーカルだが、あえて手は出さなかった。普段あまり見ることのない、伏し目がちの目にやる気を削がれた訳じゃない、という言い訳は嘘になる。
「さあ…分からないな。一言で言えるような簡単なものではない。ベース様に傾倒している理由なんて、私を魂レベルまで解析しないと分からないだろうな」
 小さいがよく通るその声は、染み入るように二人のいる空間に消えていった。

 先ほど気が済むまで殴った所為で服はところどころ汚れてはいるものの、厚手の服だったのが幸いしたのかあまり怪我は無かったらしい、ピックは少しヴォーカルから距離を取るように移動する。
「…おまえは何か」
「あん?」
「何か気に食わないことでもあったのか。…しょっちゅうそう思っていそうだが、特にそう思った、という出来事でもあったのか」
「何だ?」
「それでベース様に喧嘩を売って、構ってもらえなかったから私に八つ当たりをしていたのか」
「…は?」
「私を虐めたところで、ちっとも気が晴れないのに」
「……」
 ヴォーカルは遂に反撃する言葉を失って、口を半開きにしたままその場に突っ立っていることしかできなかった。成る程、よほどピックに八つ当たっている自分は面白くなさそうな顔をしていたらしい。
 いや、認めよう。面白くない、それは事実だ。でも腹が立つのは、それを明確に把握しているピックだ。赤の他人が自分の心情を読めているというのは一番面白くない。ましてや、相手が何故ベースに従っているか分からない高尚な悪魔・ピックなのだから。
「おまえが私を虐めることで気が晴れて、ベース様に歯向かうこともしなくなるなら好きにすればいい。それは私にとっても十二分に利益がある。でももし、おまえにはそれしかすることが出来なくて、しかもそれで気が晴れるという訳でもないなら、私はおまえに同情するよ」
 今度こそヴォーカルは彼を殴った。倒れ込むピックを見て、ますます募る苛々と行き場のない怒りを抱えて、珍しくいったいどうすればいいのかと迷った。
 同情すると言ったピックは、決して蔑むような目ではなかった。かといって、下等なものを勝手に哀れむようなそれとも違った。ヴォーカルには理解できない感情を伴った彼の視線がどうにも辛くて、だから手を振り上げた、それだけだ…


***


「止めた方がいい、ヴォーカル」
「…ん?」
 唐突に掛かった声に立ち止まり、ヴォーカルは反射的に殴ろうとした腕を止めた。声の発信源がピックであると確認し、更にいつにも増して彼の声色が真剣そのものだったからだ。
「何だ?」
「ケストラー様に歯向かおうとしているだろう?絶対に止めた方がいい」
 至極真面目な顔をして言うものだから、殴る気が失せてしまった。かわりに手を腰に当て、「おまえの話を聞いてやるぞ」という恰好を取る。

 このところは殴る蹴るという暴行には飽きが来て、ピックはヴォーカルの罵詈雑言の聞き相手になっている節があった。別段殴ることを可哀相と思った訳じゃない、とヴォーカルは自己弁護するがそれを知る相手は居ない。
 ピックはベースの言いつけを今も律儀に守り、ヴォーカルの「相手」をしてくれている。あれが気に食わない、これが気に食わないと当たり散らすと「ものを壊すな」とか言いながらやって来て、必ずヴォーカルの相手をしてくれるのだ。これまで一度も友達というものを作らなかったヴォーカルにとって、そもそも自分の話を聞く相手がいるというのはなかなかに新体験だった。更にピックの真面目な性格が幸いし、どんなにくだらない理由で腹を立てようとも彼は必ずちゃんと話を聞き、ヴォーカルが実行するかどうかは別として、解決策や妥協案を提示する。当たり散らす以外の解決策を知らなかったヴォーカルにとって、これもまた新発見だった。
 実際、反応のない相手に殴る蹴るの暴行を加えるよりも、自分の「話」に反応する様子を見ている方がよっぽど面白い。享楽主義に準じた行動を取るヴォーカルにとって、これは当然の変化といえた。

 ヴォーカルは少しだけ眉を顰めてピックを見やる。まあ言われると思っていた、だが一方で黙認してくれるのではとも思っていた、期待は外れたが当たった、なんてよく意味の分からないことが頭をかすめる。
「…何だ、そんなことか」
 はっ、とヴォーカルは小馬鹿にしたように笑った。ピックもヴォーカルの扱いには慣れてきたらしく、もうこの程度の煽りでは何の反応も示さない。それに対し少しだけ面白くないなとヴォーカルが呑気に思っていると、ピックは実に真剣な顔でこう続けた。
「忘れたのか?ケストラー様がいるから我々に寿命が来ないんだ。ケストラー様が倒れたら我々は死んでしまうんだぞ」
「そんなの分かんねえだろ?」
 試してもいないのになぜそう断言できるのかわからない。第一、ケストラーが先か、魔族が先か、それすら分かっていないのに。それにヴォーカル自身はこの説を「ケストラーが庶民を組み敷くために流した嘘」だと考えている。
「ケストラーが俺たちに魔力を供給してるのは知ってるが、『大魔王』の座が別の奴に移動したらどうなるかわかんねえじゃないか」

 実際ドラムの馬鹿はかなり前から「次の大魔王は俺様だ」と周囲に吹聴している。その程度の実力ではまず無理だとギータはそれを影であざ笑っている。ドラムが次の大魔王になれるかどうかはともかくとして、「大魔王の座」が移動することが不可能だとは誰も証明できないのだ。証明できないことをハナから否定してやらないのは愚かしいとヴォーカルは考える。
 先人の、よく分からない理論に従うのは一番嫌いだ。

「おい、ピック」
 なにやら言いかけていたピックを遮り、ヴォーカルが声を掛ける。悩んでいたらしいピックが顔を上げる。
「…何だ」
「もし俺がケストラー倒して新しい大魔王になったらよ、もうおまえはベースに頭下げる必要はないだろ」
「なぜ?」
 実に素直にピックは首を傾げた。普段もこう素直だと可愛げってもんがあるのによ、と思ったがまた口論の種になるので口に出すのは止めておく。
「ベースはケストラーのお気に入りだからペコペコして利益が出るだろうが、俺が大魔王になったらそんなことミリっともねえぞ」
「…は…」
 ピックは少し呆れた様子で言葉を失い、それから我に返ってほんの少しだけ笑みを浮かべた。しょうもない奴だとでも言いたげな風に視線を落とす。
 ヴォーカルは自分の台詞でピックが笑ったのだということは理解していたが、不思議と怒りが湧いてこなかった。これまでなら問答無用で殴り倒しているところだが、ケストラーに喧嘩を売るとなって気が変にでもなったのだろうか?

 ヴォーカルの変化に気付かなかったらしいピックは笑いを引っ込めてヴォーカルの方へ視線を戻した。本当に行くのか、やめておけ、とまだ言っている。
 諦めろ、とヴォーカルは返した。
「俺が大魔王になったら妾にしてやるよ、好待遇でな」
「…考えておく」
 ヴォーカルはすぐに背を向けて怨敵を倒すべく王の御座す地へと向かった。声を掛けるわけでもなく、手を振るわけでもなく、ましてや引き留めることもなく、ただ黙って小さくなるヴォーカルを目で追っているピックが気配で分かった。



 結局この二人がこうして会話を交わしたのは、これが最後となった。ケストラーに敗北したヴォーカルは捕らえられ、地下深くに幽閉され、その間決して地上の誰とも相見えることができなかったからだ。
 自分の知らぬ間にパンドラの箱なるものが作られ、人間との間に戦争が起こっていようなどと、微塵にも知ることは無かった。


***


 勇者一行に思いの外手こずり、とうとうヴォーカルの出番がやって来た。久々に味わう身体の自由にぐっとヴォーカルは伸びをする。ついでにオルゴールとかいう新顔のために、自分がいかに力を持っているかを示すために城を一部破壊して回る。ケストラーには負けたが貴様なんぞは足元にも及ばないという、それだけの子供っぽい主張だ。…と、もしピックがいたらそう言うだろう。
 ひとしきり暴れて回ったところでヴォーカルは当りを見回した。数度見渡し、気配も探り、いないとわかって口を開く。
「あー、ところでよ、ピックの奴はどこにいんだよ。姿が見えねーぞ」
 ご機嫌のヴォーカルはベースの方へ向き直った。とうとう首だけになってもなお生きながらえるその執念には、ヴォーカルといえど多少の敬意を表したいものだ。
「死んだ」
「…あ?」
 ヴォーカルは耳を疑った。が、ベースは彼の睨みに怯むこともなく、もう一度ゆっくりと繰り返す。
「ピックは十五年前に死んだ。残念だったな」

 オルゴールは泣きたい衝動を必死で押さえていた。というのも、この台詞を聞いてヴォーカルが見るからに不機嫌になったからだ。
 歳の浅いオルゴールには何が起こっているのかさっぱり分からないし、そもそもピックとヴォーカルに接点があったこと自体初耳だが、なにやらヴォーカルが執着するだけのものがある人物だったらしい。残念ながらピックの口から一度もこの男の名を聞いたことがないような気がする、…いや、そもそもそんなに話したことはない、自分が若輩者で勝手が分からず、そこを「ベースを信奉する者同士」というそれだけで多少優しくして貰っただけだ。

 オルゴールが現実逃避から回想に浸っている間も、彼の目の前でベースとヴォーカルの会話は進んでいく。
「死んだ?なんでだ」
「人間に殺された。寿命が来てしまってな」
 冷静なベースとは対称的に、ヴォーカルは今にも暴れ出しそうな勢いだ。顔が怒っている、怖い、とオルゴールは隅で震える。
「人間に?あのピックがか?…ありえねえ。そんな訳ねえ」
 ピックは悪魔の中でも高尚な部類に入るというのに、そう易々と殺されるわけがない。ましてや人間なぞに…

「…寿命が来た?」
 ワンテンポ遅れて、ヴォーカルはようやくベースの言葉を理解した。寿命、寿命だ。人間よりよっぽど強い力と長い命を持つ魔族最大の弱点とでも言うべき、寿命。たかだか五百年であの高尚な悪魔に寿命が来ただと?そんなのおかしい。五百年であの豊富な魔力を使い果たす訳がない。
 そうだ、よほど消耗するようなことでもしない限りは。
「…はっ、そういう訳か。読めたぞベース、てめえ自分の命が惜しくてピックを手足代わりに使いやがったな」
「ピックが望んだことだ」
「……」
 ベースの手足となって四方に飛び回ったピックはみるみる寿命を縮めていったに違いない。それでも彼はそれで満足だったのだろう。自分に対して不利益なことしかしないのに、ピックは「ベースに言われたから」というたったそれだけの理由であの瞬間までずっと付き合ってくれたのだから。

 結局ピックは、最期までヴォーカルの思い通りにならなかった。

「ちっ。おい、いくぞオルゴール」
「はっ、はイィ!」
 オルゴールが慌てて従う。物凄いスピードで先を行くヴォーカルを追いかける。通り抜けてゆく風に乗って小さく、ヴォーカルの「…死んだのか」という嘆きが消えていった。



 ピックがヴォーカルの与り知らぬところで冥府に落ちたのと同様、ヴォーカルは終ぞピックがなぜあの時「ケストラー様に逆らうな」とわざわざ言いに行ったのか知ることはないだろう。

 愚か者が、とベースはあざ笑った。せいぜい駒として動け、とも。
 低い笑いを押し殺して、ヴォーカルとオルゴールを見送った彼が城の奥へと消えていく。


***END



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