「君の記憶」・1



 ***


 いつものように廊下を歩いていると、物凄い勢いで走ってくるサックスとすれ違った。そういえばクラーリィが帰って来るのは今日だっけ、随分長かったな、なんてぼんやり考えているといつの間にかサックスが目の前に。
「おっ、王子っ、いいところに」
「どうしたの、そんな息切らして」
 サックスは珍しく真剣そのものな顔をしている。
「クラーリィが遠征先で頭を打ちました」
「…えっ?」
「打ち所が悪かったみたいで倒れたきり起きないんです。はいこれ病室番号、確かに渡しましたよ」
 唖然とするリュートを置いてサックスはまた走っていってしまった。取り残されたリュートは一人、手元に残された紙切れを見つめる。書き殴られた汚い筆跡がじわじわとリュートの不安を煽る。
「何だって…頭を…えっ? 何かの間違い、悪い冗だ」
 ぴたりと独り言を止め、リュートはもう一度手元の紙切れを見つめる。次の瞬間には走り出していた。無論、クラーリィが眠るという病室へ。

「幸い命に別状はないようなのですが」
 パーカスの解説は半分も入ってこなかった。目の前のクラーリィはリュートがいくら呼びかけても返事をしない。目も開けない。
「医師の話では、最悪何らかの障害が残るかもしれないと」
「クラーリィは起きないの?」
 この声が震えたのはきっと、大仰に巻かれた白い包帯のせいだ。
「分かりません、そればかりは」
 リュートはもう一度呼びかけたが、やはり反応はなかった。頬に触れる。手を握る。どうか目覚めてと願う。
 僕たちはようやく両想いになれたんじゃないかと念じても、やっぱりクラーリィは微動だにしなかった。

 それから三日後にようやくクラーリィは目覚めた。特にどこにも障害の類は残らなかったらしい。久しぶりに光の宿るクラーリィの瞳を見たリュートは安心のあまり涙を零したが、そんなリュートを見たクラーリィの第一声は「誰?」だった。


 ***


 どうも人物に関する記憶を綺麗さっぱり忘れてしまったらしく、クラーリィはリュートはおろか幼馴染み、その人格形成に大きく関わったはずの妹・コル、ホルンに至るまで誰だか分からないと語った。不幸中の幸いと言うべきか、己の名前に関してはきちんと覚えていたうえ、身体的には何の問題もなく仕事は変わらずできるようだったため、直ぐに職場復帰と相成った。
 無論、彼を取り巻く人々の間に動揺が広まった。なにせ少し前までは冗談すら言い合える仲だったのに、今になって突然自己紹介から始めなくてはいけなくなったのだから。

 リュートは己を彼にどう説明すべきかかなり悩んだ。
 僕は昔君の遊び相手で、君は僕のことを「お兄ちゃん」と慕ってくれていた。僕はこの国の王子という身分だけど、気を遣う必要はない。
 それから? 僕は君の恋人だなんて名乗るのか?
 顔も名前も思い出せない同性にいきなり恋人だと名乗られたらどうだろう。今のクラーリィにこれまで二人で積み重ねてきたいろいろはない。背景がゼロのクラーリィが、いきなりリュートに恋をしてくれる訳もない。
 ただでさえ混乱して心細い思いをしているだろうに、そこへ更なる混乱の種を植え付けることは、彼の恋人を自負するリュートにはどうしてもできなかった。結果自己紹介は先ほどの簡素なものになったが、その分クラーリィを精一杯サポートしてあげようと心に決めた。いつか思い出せた時に満面の笑顔が貰えるように、そうでなくてもまた惚れさせてやる位の心持ちで。
 大丈夫、クラーリィはきっと忘れちゃいない。きっと思い出せなくなっているだけだ。



 ところが現実はそう甘くなく、リュートは一週間もしないうちにクラーリィの親友・サックスに泣き付く羽目になった。正しくは元親友だが、サックスの性格のせいか誰よりも早く関係が回復し始めているのは火を見るより明らかだったからだ。
「サックスお願い、助けて」
 開口一番こう切り出されたサックスは目を白黒させた。リュートにそんな彼に構う余裕はないと見え、サックスの返事も待たずにこう続ける。
「クラーリィが僕を避けるんだ!」
「避けるって、具体的にどんな?」
 単に不馴れなだけでは、と訝しむサックスをリュートは涙ながらに否定した。
「最初はそうかと思ったんだけど、サックス、多分違うんだよ…」

 まずは顔見知りから仲良しに昇格しようと思い、毎朝声を掛けたり何かにつけて話し掛けたりといった活動を開始した。
 無難に「おはよう」とかその辺り。
 そんな訳で今日もクラーリィに朝の挨拶。リュートはクラーリィを見つけるなり駆け寄って、「おはよう」とにこやかに声を掛けた。
「あ、お、おはようございます」
 ぺこりと頭を下げるクラーリィ。そして、リュートが次の話題を出す前に立ち去ってしまう。
 その他の時も似たような感じで、リュート話し掛ける、クラーリィ当たり障りのない返事、そして次の話題を出される前に逃げ去る、までが一セットになっていた。
 無論、クラーリィの方から話し掛けてきたことはない。

 決定的だったのはつい先ほど、仕事のことでクラーリィは見るからに困っていたのに、目の前にいるリュートではなく少し離れた位置にいたパーカスに助けを求めたのだ!
 リュートは「助けてあげる」というオーラまで出していたのに。手伝ってあげようかと言おうとして、口まで開き掛けたのに。

 この様な過程を経てとうとう避けられているという確信に至ったリュートは、仕方なくサックスに泣き付いた。何せ話し掛けても逃げ去ってしまうので、自分だけではどうすることもできないと思われる。

「…まあ、普通に、避けられてますね」
「だろう? だからお願いだサックス、君からクラーリィに、王子は優しい人で逃げることはない、みたいなこと吹き込んでくれ」
 吹き込むって、とサックスはやや呆れた顔をしたが、リュートはごく真面目だ。
「僕って、背景のない人から見るとそんなに逃げたくなるような人間なのかな。確かに身分は王子だけど。君たちが僕のことを慕ってくれているのは昔遊び相手やってたっていうのがあるからで、それをなくせば君たちも僕を避けるの?」
「…そんなの分かりませんよ。
 と、いうか王子、」
 サックスは一度言葉を切ってリュートの様子を窺った。対するリュートはというと、心底困っているオーラを全身から醸し出しているばかりでサックスに注意を払っている様子はない。
「王子あなた、クラーリィに何て自己紹介したんですか。クラーリィにちゃんと、『僕たち付き合ってた』って言いましたか」
「言えるわけないよそんなこと!
 言われたクラーリィの混乱を考えると、とてもじゃないけどかわいそうで…」

 ここまで言ってようやく疑問が生じたのか、リュートははたと顔を上げた。
「サックスどうして、僕たちが付き合ってるって知ってるの」
 諸々の不都合が生じるだろうと周囲には言わないつもりだったし、そもそも両想いになってまだ一月程度の出来事だというのに。
「本人から聞きました」
「ク、クラーリィは僕と付き合ってるって皆に言って回ってたの?」
「違うと思いますけど。知ってるのは俺だけじゃないかな。
 だから王子、俺はそういうことはどうでもよくてですね、」
 どうでもよいと一蹴されてしまったため、リュートはこれ以上聞き出すことができなかった。心底気になったが仕方がない。
「かわいそうって言ったって、身分の違う人間がなぜか自分にだけ毎日話し掛けてきて困惑してるのが最早明白じゃないですか。今の状況もそこそこかわいそうな目に遭わせてるようなもんですよ」
「そ、そう言われればそうだけど…」
 リュートは渋る。サックスは追い討ちを掛けることにした。
「しかも、今のあいつは人間関係白紙なんですよ。気を抜いている間に誰かの彼氏に収まったっておかしくないですよ。あいつ女の子にもてるんだから」
「…うん、そうなんだけど…」
「何ですその微妙な返事」
 誰かに盗られてもいいんですか、という言葉は流石に飲み込んだ。

 サックスが見る限り、リュートにはあまりクラーリィに過去のことを話す気はないらしい。どうも現在の材料のみを使って関係回復をしたいようだ。
「事実を話して、その上でいろいろ行動した方がそりゃ早いとは分かってるんだけど。今のクラーリィが女の子を選ぶなら、それでもいいかなって思ってしまって…」
「そりゃまた、なぜ?」
「うーん…僕から告白したからかなあ。それに、クラーリィの返事もかなり控えめだったし…」
 サックスは少し黙ったあと、でもクラーリィも満更ではなかったみたいでしたけど、とフォローを入れた。
「僕きっと疑ってるんだろうな。いろいろあった末の僕とクラーリィだから、幾らか同情票も入ってるのかななんて。だから、そういう同情票がなくてもクラーリィが僕を好きならって、思ってるのかもしれない」
「贅沢な。と、言われますよ」
 だろうね、とリュートは笑った。その表情から行動指針を変える気はないことを読み取り、サックスは大きくため息をつく。
「分かりました、何かクラーリィに吹き込んでみますよ。責任は取りませんけど」
「ごめんねサックス、ほんとありがとう」
 いいえ、とサックスは首を振った。ここは一肌脱ぐしかないだろう。


 ***


 クラーリィの方から「あの」という控えめな声が掛かったのは、リュートがサックスに泣き付いてから三日後のことだった。
「あの、王子」
「クラーリィ、…な、何かな」
 話し掛けられるだけでこんなにも胸が苦しい。しばらくぶりの、リュートにだけ向けられる碧の瞳。
「その、サックスからいろいろお話伺いました」
 うん、と頷く。余計な口出しをしてクラーリィが逃げる理由を作ってしまうのは避けたいだけに慎重になる。
「なんだか、俺があなたを避けてるとか思われたみたいで。俺にそんな気はなかったんですけど」
 そうなの、とリュートは呟いた。気付かれないように詰めていた息を吐く。
「すみません、何だか俺、あなたとどう接していいのか分からなくて。
 結果として避けてるみたいなことになっちゃって、申し訳な」
「いいんだ!」
 リュートがクラーリィの言葉を遮った。
「いいんだ、君は悪くない。僕は君に嫌われた訳じゃないって分かっただけで十分なんだ」
 だからそんな顔はしなくていい。自分のせいで君が悲しい顔をするなんてもう二度とごめんだ。
 クラーリィは遮られてはじめ目を丸くしていたが、その分リュートの「いいんだ」が本心であることを確認したようで、ようやく表情を和らげた。安堵のため息が微かにリュートの耳に届く。

「そういえば、あの、王子」
「うん?」
「サックスが、あなたとちゃんと話をした方が良いとか言っていて。…その、何だか、この間お聞きした自己紹介では情報が足らなすぎるとか何とか…」
 一言多いと小突いてやろうとリュートは決心した。何かと口の軽いサックスを仲介役に引き立ててしまったことも悪いといえば悪いのだが。
「う、うーん…そうだね。この間はその、僕、君が僕のことを知らない人みたいな目で見てくることが凄くショックで、…勿論君が悪くないってことくらい分かってるんだよ、だけど何て言うか…頭では分かっててももやもやするっていうか…そのせいでうまい自己紹介ができなかったみたいなんだ。
 ね、僕には気軽に接してくれて構わないよ。凄く…凄く仲良かったんだよ、僕たち」
 ごめんね、とリュートは謝った。何に対して? 自分、それともクラーリィ。
 仲が良かった、それは正しい。でもクラーリィが受け取る意味とは少し違う。今のリュートに真実を話す勇気はなかった。
 リュートの言葉の深い意味など考えもしないのだろう、クラーリィは小さく首を振る。
「もやもやしてたって言って頂いた方がよっぽど楽です。みんな俺の分からない所で俺に凄く気を遣ってるみたいで、かといって俺には何もできないし、記憶も戻る気配がないし」
 一応サックスに殴ってもらったりしたんですよ、とクラーリィは続けた。同じところを殴ってみるというセオリーな方法は通用しなかったようだ。
「失ったものを取り戻せられれば一番いいんでしょうが、生憎その方法が分からなくて、…回りの人のことすら分からないし」
 クラーリィの表情にリュートの胸が締め付けられる。二度と見たくないと思ったあの表情を、こんな経緯で見せられるとは思いもしなかった。しかも解決策が分からない。
「ねえ、」
 結局今のリュートにできることなど、
「僕、君の力になるよ。なりたいんだ」
 支えになるんだかならないんだか分からない中途半端な言葉を掛けることだけだった。対するクラーリィが眉をハの字にしたままでも笑ってくれたのが唯一の救い。
 クラーリィは控えめに「ありがとうございます」と呟き、立ち去った。リュートはその背中をぼんやり眺めながら考える。

 このまま記憶が戻らず、リュートとは恋愛をする以前の関係のままで、たとえクラーリィが新しい恋人を見つけても、幸せだったたった一月の思い出を胸にクラーリィと友人関係を続けるなんてことできるんだろうか、と。
 記憶が失われただけで、リュートの愛したクラーリィの中身は変わらない。自分だけがずっと彼のことが好きで、一度は自分を選んでくれた彼が別の誰かと幸せになっていくのをじっと見ていることができるんだろうか、と。
 想像するだけで胸が押し潰されそうだった。込み上げる熱いものを必死で堪え、リュートは足早に自室に戻った。



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