カルネアデスの舟板



 ***


「ん?」
 クラーリィは首を傾げた。久しぶりに口を開いたと思えばそんなことばかり、まったく最近のサックスはどうかしてしまったのだろうか。
「なんか失礼なこと考えてません? あのさー、やっぱりこの話題は恋人として一回はやっとかなきゃなって思うのよね!」
 そうか、とクラーリィは呟いた。その話は知っているし、クラーリィの中では既に揺るがない結論が出ている。

 海に投げ出された二人の前には板が一枚。二人が掴めば沈んでしまうが一人だけなら浮いていられる。しかし、掴めなかった者に待っているのは冷たい死。
 さあどうする、という話だ。ちなみにこの場合、多くの国で相手を突き飛ばして死なせてしまっても殺人罪には問われない。

 サックスはクラーリィの隣に腰を下ろした。クラーリィは仕方なく雑誌を読むことを諦め、閉じて膝元に置いた。で、と言葉を促す。
「恋人二人でこの状況さあどうしよー、って考えたときにさ、
 1:どっちかが残る ってのと
 2:こうなったら心中だ ってのと
 3:やだやだどっちも助かる道を探す ってのと
 3つあるよね」
 クラーリィだったらどうする、とサックスは言った。クラーリィはそれには答えず、そういうお前はどうだ、と質問返しをする。
「ん、俺はやっぱりどっちも〜かなー」
 希望は捨てたくないじゃん、とサックス。呑気で宜しいことだ。

 現実的じゃないな、とクラーリィは一笑に付した。
「ひどい」
「生きるか死ぬかの瀬戸際だってのに、『どっちも助かる道を探す』なんて脳内お花畑みたいな選択肢は取れん」
「左様で…」
 それに、とクラーリィは続ける。迷いのないその態度に、少しサックスは話題を間違えたと後悔し始める。
「現実的にはどちらかが生き残る道しかない。俺は心中なんてごめんだ。だから」
「だから?」
 サックスは首を傾げた。クラーリィがすっと視線をこちらに向ける。

「俺がおまえを殺して生き残る」

 サックスが困った顔して「そう」と味気ない返答をしたのはしばらく経ってからだった。
「ま、真顔で言われるとすっごく怖いんですけど…」
 だいたい俺「が」ってなんだ。“俺は”じゃなくて“俺が”のあたり、クラーリィの明確な意志を感じる。しかも、目が据わってて怖い。
「俺は本気だよ」
「俺、思ってても言っちゃいけないことって、あると思うのよね」
 話題振ったのは俺だけどさあ、とサックスは言う。心なし腰を浮かせてクラーリィから数センチ離れて、サックスはソファに座り直す。
 クラーリィは意見を曲げない。俺は本気だ、と繰り返した。
「仮に俺が死んでおまえが生き残ったとしよう、生き残ったおまえは俺を忘れる」
「忘れないよ、」
 クラーリィのきつい眼差しにサックスは続く言葉を奪われる。どうしてこんな視線を向けられねばならないのかサックスにはちっとも理解できない。
「何言ってんだバカか。長年付き合った俺の結論だ黙って聞け」
「はあ」
 渋々頷いたサックスに少し溜飲を下げたのか、クラーリィはつり上げた眉を少しだけ下ろしてまた言葉を続けた。
「いいか、おまえは俺の代わりに生き残る。はじめこそおまえ男やもめみたいな生活をするだろう、でもそのうち女がやってきておまえを慰める」
「はあ」
「おまえは『俺にはクラーリィが』とか言って拒否するが、そのうち女はお前の俺に対する気持ちを理解した上でアプローチするようになってくる。それでもって挙げ句の果てに『クラーリィさんはあなたに幸せになって欲しいと思っているはずよ』とか言われる。おまえは絆される」
「…はあ…」
「で、おまえもそのうち『そうだクラーリィはきっと俺の幸せを祝福してくれるに違いない』とか言う。最後にはその女と結婚して、生まれた子供に俺の名前を付ける」
 はあ、とサックスは何度目かわからぬ相づち兼ため息をついた。やけにリアリティのある話で余計に悲しくなった。
「…なんか、そういう小説ありそうだよね」
 クラーリィそういう本でも書いたら、と呟く。でもすぐに首を振った。この話が肉付けされて、手の震えるような出来になる気がして仕方がなかった。
「悪いが俺は天使ではない。俺を殺して生き延びておきながらおまえだけ俺を捨てて幸せになることは許さん」
「…若干否定できない感が…そうだね、すべからく死人が生きてる人を祝福してくれるなんてそんなことないよね」
 推理ものとかでありがちだよねー、とサックスは続けた。よく犯人に、探偵だか刑事だかが「こんなことをして死んだ○○が喜ぶとでも思っているのか!」と叫ぶアレ。殺された方は案外「仇を取ってくれたのむ!」と思っているかもしれないのにねえ。
 正直クラーリィが何を言わんとしているのか分からなくて怖いので、サックスは必死で一般論に持っていこうと頑張っている。

 クラーリィはそんなサックスの頑張りを完全に無視し、だから、と言葉を続けた。
「だから俺の方が生き残る。生き残って死ぬまでおまえを弔ってやる」
 サックスは黙った。悔しいけど今の台詞にちょっとぐっときた。
「分かったか? 分かったら、こういう状況下になったら諦めてとっとと俺に殺される覚悟を決めておけ」
 うん、と頷き掛けてサックスは我に返った。殺される覚悟を決めておくなんてそんなバカなことがあってたまるか。
「…いや、今のはちょっと心が揺らいだけどこれは肯定していいところじゃないと思った!
 サックスくんちょっと賛成できません!!」
 第一お前俺のことちっとも信用してないでしょ、とサックスは続ける。ちょっとむかっときていたのか力が入って、ソファが大きく軋んだ。
 10センチもないところに近づくクラーリィの真摯な眼差し。
「信用してないって言うが、おまえ否定できなかっただろさっきの話。俺は全力で否定するのに1秒もかからない」
「…う、うん」
 真摯な、というより、深い、と言った方がいいのかもしれない。
「俺の気持ちなんて微塵にも知らねえくせに。…いいんだ。おまえがお情けで俺の恋人やってくれてるってことくらい知ってるよ」
「そ、そんなことない失礼な、いきなり何を言い出すんだよクラー、」
 クラーリィの視線にサックスは再び続く言葉を失った。
 ものを言わせぬ強い視線。どんな言葉よりも強い意志を宿す。
 やがて視線は外れ、ゆっくりと弧を描くように下に落とされる。
「…いいんだ。ごめんなサックス」
 伏し目がちに呟いたクラーリィに、綺麗だとか儚いとかそんな印象ではなく“背筋が凍る”という印象を抱いたサックスは、どう声を掛けたらよいのかまったく分からず黙ることしかできなかった。

 腕の中に恋人を納めるまで、ずいぶんと時間が掛かる。


 ***END



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