隣・5



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 片付けの済んだ二人は再び定位置に戻り、それぞれ雑誌やら本やらに目を通し始めた。シコードが読んでみたいと言ったのでクラーリィは大人しく先程読み終えたばかりの本を渡したが、正直読んでいることを自慢できる部類の本ではないし、反応が気がかりだ。
 別に好印象を持って貰いたいと思っている訳ではない。ただ、やはり下に見られるというか、「スフォルツェンドの名高き大神官も所詮その程度か」と思われるのが許せない。まあそんな考えでいるからシコードに勝負を挑んでは負けて、ついには可愛いなんて言われて、クラーリィ本人でもうまく把握できないような「何か」の危機に晒されているわけだ。
 このしょうもないところにまで発揮されるプライドがいけないのか、それともきっぱり断れない優柔不断な己がいけないのか、そもそも断る以外の選択肢もある、と認識している時点で取り返しのつかないところまで来ているのか。
 こういう職にいることだし、いつ帰らぬ人となるか分からないのに妻子を持って、毎度はらはらさせるというのもどうかと思う。天職と思って止まないこの職に疑問を持つような生活は避けたいものだ。
 だったらいっそ恋愛ごとから身を退くか思い切って肩を並べて戦える同性を視野に入れる、というのは流石に飛躍しすぎだろうが、でもクラーリィはこれまでの人生の中で二・三度、これらの可能性について真面目に考えたことがある。大抵は大怪我をして帰ってきた次の日あたり、病室のベッドの上なんてシチュエーションだった。
 クラーリィはそっとシコードを盗み見る。じっと文庫本に集中している彼は確かにクラーリィと同等かそれ以上の腕の持ち主で、少なくともさきの不安に関しては無縁だろう。加えて言うなら、クラーリィの職について一定の理解もあるから、理解の齟齬による破局なんていう可能性も少ないように感じられる。

 はあ、とクラーリィはため息をつく。腹がいっぱいになったせいか、それとも結論のでない悩みとひたすら格闘していたせいか、途端に眠気が押し寄せる。
「シコード」
「ん、何だ?」
 本に神経を集中させていたシコードは、やや慌てて顔を上げた。クラーリィに何度か名を呼ばせたと思ったらしい。
「昼寝してもいいか? …眠い」
「別に許可を取らなくてもいいが…寝るならその前にシャワーでも浴びたら…」
 シコードは物凄く不審そうな顔をしている。だが眠いクラーリィにシコードの不審は伝わらず、「変な顔だ」とかいう薄い感想に留まった。
「あーそうだな、そうしよう…」
 クラーリィは素直に立ち上がった。持っていた文庫本を机に置きっぱなしにして、椅子もろくに戻さずにずるずると浴室へ向かう。
 シコードはクラーリィの随分とろい動作をしばらく見守っていたが、やがて苦笑して視線を本へ戻した。また一つ珍しいクラーリィが見れた。シコードはそっと己の心のアルバムに今のクラーリィの姿をしまいこむ。
 クラーリィはようやく浴室まで辿り着き、目を擦りながらドアを開けた。その姿が、すっとドアの中に吸い込まれる。

 ドアを閉めて、着ているものを適当に脱ぎ捨てて、浴室に入ってシャワーのコックを捻り、眠さに堪えながら水を浴びる。まだ温まりきっていなかった、冷たい水が眠気から表層温度の上昇していたクラーリィには必要以上に冷たく感じられた。
 冷たさから目が覚める。
 はっと息を呑む、一瞬呼吸が止まる、そして血の気が引いていくのがよく分かった。
「な…何やってるんだ俺…」
 何を、と復唱する。蛇口から飛び出す雨のした、じっと己の手のひらを凝視してみたりする。
 ザアア、という水音が浴室にやけに反響している。耳に届くのはこの水音と、己の呼吸音と、そしてとんでもない過ちを犯した気がして動悸の止まない心拍音。
「寝るって。俺は馬鹿か…」
 そりゃあシコードも不審な眼差しを向けるだろう。シャワーを浴びてこいと言っても素直に従ったのだから尚のことだ。
「ついに覚悟を決めたとか思われたか…?」
 クラーリィは頭を抱える。そのまま浴室にしゃがみ込む。
「ああっ、ていうか、俺のほほんとして全然そんな可能性を考えてなかったけど、」
 休日を一日くれってそういう意味だったのか、と項垂れる。丸一日、朝から夜まで。寝るまで。寝てるときも?
「ここから出て、俺どうするんだ? 期待させるだけさせといてごめんなさい寝ぼけてましたなんて言い訳が通用するのか? それとも本気で昼寝するか? そんなことしたら襲われ…いや襲いはしないだろうけど…はあそもそも人を呼んどいて昼寝とか意味分からん…」
 もうだめかもしれない、とクラーリィは呟いた。もし自分が同じ立場だとしたら、この辺りでキレるかも知れない。いや、もっと前かも…
 いろいろと溜めておいた、一週間分くらいの覚悟の使いどころはもしかしてここかも。彼の気持ちを利用するだけ利用したばちがここで当たったのかも。
 キレられて恐ろしい目に遭うのなら、いっそのこと諦めて大人しくなった方がいろいろな面で正しい対応なのではないかと思われる。何せ相手はシコードだ、このクラーリィに負い目のある状況下で戦ったら十中八九負けてしまう。
 ボコボコにされた挙げ句別の意味でも、なんてのは絶対に嫌だ。それだけはなんとか回避したい。最後の矜恃だけはなんとか保ちたい。
 クラーリィは深々とため息をついてシャワーのコックを捻った。ぽつん、と残った雫が垂れていくのを眺めながら、随分ゆっくりと立ち上がった。

「シ、シコード」
「ん、ああ出たのか…」
 シコードはクラーリィの声に振り向く。寝るか、とか少ししたら起こしてやろうか、とかいう優しい声が聞こえてきたが、クラーリィの頭にはあまり引っかからなかった。クラーリィの頭の中はぐちゃぐちゃでそれどころでない。
「その、えーと、俺、ほ、本当にシャワー浴びてきただけなんだが、その、も、もっとごしごしいろいろ洗ってきた方が…」
 シコードは随分長いこと呆けた顔をして黙っていた。多分その頭には大量の疑問符が浮かんでいる。
 クラーリィが恥ずかしさから死にそうになって、もうだめだこの場から逃げだそうと足を浮かせたところで、随分と間の抜けた「ああ!」という相づちが入った。
「おまえ、回りくどい言い方をするんだなあ、クラーリィ」
「うっ、あ、あの…」
 口ごもるクラーリィに、シコードは極めて優しい声色で「あのな」と呟いた。
「は、はい」
「俺はおまえを襲う気はない」
「あ、そうなん…え?」
「さっきの俺の言い方が悪かったのか。寝るまえにシャワーを浴びた方が衛生的だと思っただけで、他意はなかったんだ」
 今度はクラーリィが呆けた顔をする番だった。半開きになった口がどうしても閉じられない。
「俺はおまえに『休日を一日くれ』と言っただけじゃないか。身体まで寄越せなんて一言も」



 なんだかかわいそうなことになってしまったなあ、とシコードは独りごちた。
 目の前のクラーリィは今にも泣きそうだ。服の裾をぎゅっと握って、なんとも珍しい光景。シコードからすると可愛いという評価を下せる部類の光景だが、白くなる程手を握り締めているので、本人は相当必死だということが見て取れる。
「俺は今自分が必要以上に汚れていることに気付いた…っ」
「あ、クラーリィ、」
 クラーリィはそう呟いて一目散に隣室へと逃げ込んでしまった。半分腰を浮かせて呼び止めたシコードになど目もくれない。
 シコードは少し困った顔をして、追うか追わぬか迷い、追うと更に酷いことになると判断してソファに座り直した。クラーリィも大人だ。そのうち心の整理を付けて戻ってきてくれるだろう。
 先程不審な眼差しを向けたのは、いくらなんでも無防備すぎるというのと、仮にも「客」を目の前にして眠いと宣ったクラーリィの心の内が全く理解できなかったからだ。
 今でこそあれが本心から来る台詞と分かったが、言われたあの時はそう言って逃げだそうとしているのかとすら思った。まさか本当に眠かっただけだとは。
 つまりはシコードが十分にクラーリィにとって「空気」のようになってしまったということだから、シコードとしては有り難い変化だが、何分変化が早すぎて喜びよりも戸惑いと疑問が先に浮かんだ。
 案外順応性が高いのだな、とシコードはひとりごちる。
 クラーリィの消えたドアの方へ視線をやる。奥から何かごそごそ聞こえるが、しばらくは放っておいた方が良いだろう。

「…もうだめだ。死にたい」
 クラーリィは力なくベッドに倒れ込んだ。羞恥のあまり顔は真っ赤、といいたいところだが既にその域を超えて真っ青になっている。
「俺の馬鹿、馬鹿死ね俺」
 顔を枕に押しつける。もう何もかもが嫌だ。分かり易い自己嫌悪の嵐。
「穴に…穴に入りたい、俺が掘ったでっかい墓穴に…ああ隠居したい…どこかへ蒸発したい…」
 ごろごろ転がり回ってみたが、まさかこの状況下眠気が襲ってくる訳もなく、クラーリィにできるのは羞恥の波が退くのをただただ待つことだけだった。

 しばらくのたうち回ったクラーリィはやがて諦めてシコードのいる部屋に戻ってきた。引きこもったり穴に入ったりする前に、何よりもまずシコードに謝らなくてはいけない気がしたからだ。
 そう思って戻ってきたが、クラーリィが重い口を開く前にシコードの「おかえり」という爽やかな声が降ってきた。クラーリィはタイミングを逃して口を噤む。一方のシコードは別段何も気にしていないようで、大丈夫か、なんて心配までしてくる。
「おまえを狙った男が、かなり理性の勝る男で良かったな、クラーリィ」
「ああホント、本当にそう思うよシコード」
 はあ、とクラーリィは項垂れる。
「で、晩飯はどうする」
「ん、え?」
 すぐには戻って来られなかったクラーリィは随分間抜けな声を出すに至った。幸いシコードは特に何の引っかかりも感じなかったらしく、晩飯、と繰り返す。
「一緒に食うか? それとも、気まずいからやめておくか?」
「それ、俺に選択肢あるのか…?」
 クラーリィは純粋に首を傾げる。昼食を作らせたうえ酷い誤解までしておいて、挙げ句出て行けなんて言う資格がクラーリィのどこにあると言うのだろう。
「は、冗談だよ。でも別に俺は、今日はお開き続きはまた今度、でも良いのだけれど」
「よし、二人で晩飯食うか」
 きっぱり言い切ったクラーリィをシコードは笑う。しかしクラーリィは逆に胸の痛みを感じていた。ここで「もういいよ」とは言わず、一定の無理を押し通すことでクラーリィの罪悪感が和らぐことをシコードは知っている。そしてそれを十分に理解した上で、クラーリィに「ここでお開きにする」という選択肢を提示しない。
 シコードの限りない優しさは、やっぱりどこか重い。
「今度こそおまえが作ってみるか? それとも俺がまた作ろうか? …ああ、絶食するという手もあるぞ」
「絶食は腹が減るから嫌だな…」
「じゃあ俺が作るか」
 いやそれは、とセオリーにクラーリィはお断りしようと口を開きかけたが、昼と同じ展開になるのは面倒だと思ったらしくシコードがその先の台詞を塞いだ。
「よし決まりだ。俺が作る」
 分かった、とクラーリィは素直に頷いた。やっぱりクラーリィには、拒否する理由も代替案も見つからなかった。
「シコード、その」
「うん?」
「せめておまえの作りやすいものにしてくれ、俺の舌に合わせようなんてしてくれなくていいから」
 グローリア風の味付けがいい、いっぺん食ってみたい、とクラーリィは続ける。
 シコードはクラーリィが下を見ながら一生懸命言葉を探していることに気付き、「そうする」とだけ答えた。そして必死な素振りを見せるクラーリィを前に、追い詰めている、と人ごとのように思った。



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