隣・6



 ***


 結局、作るにしても材料がないので買い出しに出ることになった。
「財布だけあればいいのか?」とはクラーリィ。シコードは目を丸くした。
「一緒に行くのか?」
「えっ、あ、…ああ」
 やってしまったと思っても時既に遅く、目に見えて上機嫌になったシコードを見ながらクラーリィは上着を羽織った。
 よく考えたら行ったところで人目を集めるばかり、特に役に立つこともなさそうだ。

「良い天気じゃないか。やっぱり外に出た方が健康的だな」
「シコード…おまえって凄いんだな」
「何が?」
「変装が」
 絶対誰も気付かないよ、とクラーリィは心の底から思った。
 二、三アイテムを追加しただけだが随分見た目が違う。クラーリィはバレバレだが、隣を歩く人物がまさかあのシコードだとは誰も思うまい。
「おまえに何か不都合な噂が立っては申し訳ないからな」
 それに俺は別にお前を困らせたいとは思ってない、とシコードは続ける。
「ああ、それはよく分かってる」
 クラーリィは頷いた。
 それこそ痛いほどに。ほんの少しだけ押しつけがましい、そして何よりも優しい彼の親切、正しくは好意。

 二人は連れだって城下の食料品店へ向かった。クラーリィは早速市民の注目を集め始めている。
 シコードはこちらを見る視線の多さに気付いたようで、しばらく考えてから口を開いた。
「そうだ、荷物は全部俺が持とう。部下のふりをしていれば尚更怪しまれまい」
「い、いや、そこまでしてくれなくて結構だ。どうせ俺の幼馴染みの顔を全員分覚えてて、更にオフの日でも直ぐに誰か分かるなんて奴はそうそういない」
 クラーリィは一度視線を前に戻すとため息をついた。いくらオフとはいえこの髪は非常に目立つ。行く先行く先「なぜか」モーゼ状態になっている。
「む、そうか。…残念だ」
「なぜ」
「持ってやったあとのおまえの顔が見たかったんだ」
「…なぜ」
「いや、単純にどんな顔をするかな、とな」
 他意はないらしく、シコードはすぐに「気に触ったなら謝る」とか「ただの興味だ」とか弁解に回った。続け、「いろいろな顔が見てみたくなるじゃないか」と言う。
「…その気持ちは少し分かる、いいかシコード、別にそこまで謝らなくていいし、むしろ俺の居心地が悪くなるだけだからやめてくれ」
 おまえは別に悪くない、とクラーリィは呟いた。

 そうだ、ちっとも悪くない。人に恋をすること、人を愛することはあくまでも個人の範疇に属し、他人の関与するところではない。
 だから、たとえこの先お互いの望むような結果にならなくても、多分どちらも悪くない。



 完全にシコードのおまけと化したクラーリィはなんとか買い物を終え、そしてやっぱり先程のようにシコードが料理を作る音をじっと聞くだけという時間の過ごし方をし、結局やったことといえば盛りつけとテーブルの片付けくらい。
 我ながら情けない。
「ご要望通り、グローリア風でやってみた。が、さっきも言ったがあの野菜がこの国にはないのだな」
「さっき本で調べてみたが、おいしそうには思えなかった…」
 別におまえの文化を否定している訳じゃないからな、とクラーリィは付け加えた。見た目が少し「食品としては」見慣れない形をしていて、そのうえ食指が動かない色をしていた野菜。グローリアでは定番らしい。
「似たようなことをスフォルツェンドで自炊し始めたとき思ったよ。だがこっちのは食べてみたらどうってことなかった。だから多分、グローリアのも食ってみれば多分どうってことないだろうな」
 今度食わせてやりたいよ、と言いかけてシコードは口を噤んだ。
 今度、…あるのだろうか。
「さ、取りあえず食うか」
「…ん、ああ」
 シコードの微妙な表情の変化に勘づいたらしいクラーリィだったが、雰囲気を察したのか流してくれたようだ。二人揃ってまた席に着き、手を合わせた。頂きます、と小さく頭を下げる。
 二人の間で、見てくれは少々あれだが湯気の立つ美味しそうな色の食事が二人のことを待っている。一人の時ではあり得ない皿の多さに、有り難いな、と少々場違いなことすらクラーリィは感じた。

 しばらく雑談をしながら箸を進めていたが、会話が途切れたところでシコードが一度大きく息を吸った。途端真剣な表情になった彼に、クラーリィは少し視線を向ける。
「クラーリィ」
「んん?」
 咀嚼中であったため随分間抜けな声が出たが、シコードはその点を突っ込まないでいてくれた。クラーリィはやや慌てて口の中のものを飲み込むと、なんだ、とシコードの言葉を促す。
「俺、頼りになるだろう」
「ん…そ、そうだな、……ああ! この間の一件は本当に助かって、」
「飯、美味いか?」
 シコードがクラーリィの言葉を遮って己の疑問を口にしたものだから、クラーリィは目を丸くする。
「ん!? あ、ああ、どれだけ味の文化が違うのかと少し身構えたがまあこれはこれでいける、」
「おまえが望むならいつだって使ってくれて構わないし、いつだって飯を作ってやる」
 クラーリィは黙る。
「それから、」
 シコードは視線を逸らして少し寂しそうな顔をした。クラーリィは真剣な顔つきで彼の言葉に耳を澄ませる。
「おまえが嫌だと思うなら、俺はおまえの目の前から消える」
 シコードは淡々と、クラーリィが望む選択に合わせると話した。好意を寄せられることが嫌なら、好意を持った目で見られることが嫌ならクラーリィの視界から消えてくれると。
 クラーリィはうんともいやとも言うことができず、ただ黙っていた。
 視界から消えて欲しいなんてそんなことは思わない。でも、そう言わないことが即好意を受け入れることになるのだとしたら、…それはなにかが違う。待って欲しい。

 黙りこくったクラーリィに、シコードはしばらくしてから「冷めるぞ」と声を掛けた。クラーリィがはっと顔を上げ、シコードの顔色を窺って、それからまた皿の方に視線を戻した。
 その後、二人は何もなかったかのように箸を進めた。



「シ、シコード」
「うん?」
 帰り支度を始めたシコードにクラーリィが声を掛けた。持ち込んだ雑誌を鞄に詰めていた手を止め、なんだと彼は聞き返す。
「いや、その、些細なことなんだが」
「ん?」
「お、おまえはーそのー…」
 口ごもるクラーリィにシコードは首を傾げる。何のことかと一通り可能性を考えたが、妙な憶測を口にするのはやめておくのが得策だろう。
 クラーリィはしばらく俯いてもごもご言って、それからようやく顔を上げた。
「お、おまえ! 俺のどこがいいんだ」
「ん?」
 咄嗟に意味を捉えきれなかったシコードがまた聞き返した。どこかが切れたらしいクラーリィが、「だから!」と声を荒げる。
「俺に向かって好いた惚れたと宣ってるが、一体俺のどこがいいんだ!」
 シコードはクラーリィの顔を眺めて黙っていた。クラーリィが眉を顰めて、何もないのかと急かすとようやく口を開く。
 彼は「強いところ」と呟いた。
「は?」
「強いところ、俺に負けても諦めないところ。誰かのために必死になるところ。身を捨てる覚悟で先陣に突っ込む度胸のあるところ」
 真顔で言い切ったシコードに、クラーリィは少しだけ申し訳ない思いを抱いた。ここまで真面目な返答がくるとは思っていなかったのだ。
「それから」
「それから?」
「…最初に言ったが、可愛いところ。たとえば」
 シコードがおもむろに立ち上がった。ソファの縁に手を掛け、テーブルを迂回する形でクラーリィのまえへ。いきなり行動に出たシコードに驚き、クラーリィは咄嗟に逃げるという選択肢を思い出せなかった。クラーリィの僅か数十センチというところまで、シコードが迫る。
 すっとシコードが手を上げ、ごくごく軽くクラーリィの胸のあたりに拳を当てる。押されたクラーリィは少しよろけて、一歩分後ずさった。意味が分からず目を丸くしているクラーリィに、シコードは「こんな感じ」と呟く。
「は? は?」
「一回でいい」
「いや意味が分からん。説明しろ」
 シコードが笑った。分からないのかとでも言いたげで、クラーリィの神経を少しだけ逆撫でる。
「強気でまえに出てくるくせに、こうやって押されると押された分以上に押し返されるところ。俺は可愛いと思った。一言で言うと恋に落ちた」
 ちょっと押しただけだろう、そんなに身構えなくてもいいし挙動不審になることもない、とシコードが続ける。
 ひどく落ち着いたその声とは対照的に、クラーリィは顔を赤くして眉間にしわを寄せていた。自分は何をやっているのだろう、もうさんざシコードの本気を確かめたのに、それに上塗りするような真似をして。何度確かめたところで、現実は変わらない。
「あとは…」
 まだあるのか、とクラーリィが呟く。小さい頃学級会などで「クラーリィくんのいいところ」なんていうタイトルの作文を読み上げられた時のような場違いな気恥ずかしさを感じる。
「あとはおまえの特徴、かな。おまえの持ってるものならなんでも好きになれると思う」
「俺にいやなところがないとでも言うつもりか」
「口は悪いしプライドは高いし、おまけに何度も俺の気持ちを確かめてきて非常に腹立たしいところがあるが、許容範囲だ」
 やはりシコードでも、そろそろイライラしてきていたようだ。
 恐る恐る伺ったシコードの表情は、べつに怒っている感じではなかった。たぶん心の広い彼のことだ、クラーリィがそういう言動を取るに至る葛藤にも察しがついているのだろう。腹立たしい、と面と向かって口に出すくらいなのだから逆に心の底から怒ってはいないはずだ。
 クラーリィはしばらく経ってから、「ふうん」という返答なのだか相づちなのだかよくわからない言葉を呟いた。「ありがとう」はなにかが違うと思われるし、否定するのもそれはそれで間違っているように思われる。
「納得がいったか?」
「もう一つ」
 なんだ、とシコードが問いかける。彼は静かにクラーリィの側を離れ、ソファに戻った。
「そうやって地味に来られると、俺には拒否のしようがない。…拒否の仕方が分からない」
「クラーリィ、誰に向かってなにを言ってるのか分かっているか? 拒否の方法がない、のは仕方がない。俺は頭がいいんだ」
 シコードが珍しく冗談を言っている。クラーリィは小さく「それはよかったな」と返した。
 シコードの寄せてくる甘やかな好意は、じわりじわり攻めてくる遅効性の毒のようにこの身を滅ぼしていく気がする。少しずつ退路を塞がれて戻れなくなっていくような、終いには己の体の自由すら利かなくなっているような。毒が回ってしまえばもう何とも思わないのだろう、その頃の己に待っているのは甘く溺れるだけの幸せな生活なのだろうと思う。でも今は、毒の回っていない今はまだ恐怖心が勝る。中途半端に回った毒のせいで、来る変化に怯えている。
「じわじわ攻められると、取りうる手段が思いつかないんだ」
「嫌か?」
 クラーリィは首を振った。この足を鈍らせているのは多分、嫌悪とは違う。
「切羽詰まる」
「では、おまえの望みは?」
 シコードがさっき夕食の時に言った言葉を思い出した。クラーリィは続くだろうシコードの言葉を遮って、「おまえはどうしたいんだ」と逆に問いかける。
「分かりきったことを聞くな。おまえと両思いになりたいよ」
 そりゃそうだ、とクラーリィは小さく呟いた。
「両思いって具体的には? 恋人に? プラトニックな、それとも」
 クラーリィ、と若干呆れ声のシコードが釘を刺した。
「おまえ、俺に襲って欲しいのか?」
「い、いや」
 クラーリィは首をブンブンと振る。呆れ顔のシコードの瞳の中に、ほんの僅かではあるが彼の「本気」を感じ取りぎょっとした。下手なことを言えば実行に移すかも、なんて危惧がクラーリィを一歩後退させる。
「そうやって心の隙を見せていると、俺はそこにつけ込むぞ。流されたって俺は知らない」
 クラーリィは心の底からごめんと謝った。思ったそばからまたシコードの気持ちを確かめるような真似をした。やった本人が言うのもなんだろうが、シコードはかなり心の広い男だと思う。
 クラーリィ、とまたシコードが呼びかける。
「ごめん」
「それはもういい。いいかクラーリィ、俺はおまえを襲ったりはしないぞ。最後の一線はおまえに踏ませるつもりなんだ。妥協の末の関係なんて幸せになれるわけがない。俺はおまえが好きで好きでたまらないから、おまえに幸せになって欲しいんだよ。おまえの幸せに俺がいないなら、去ったっていい。
 だから、これ以上俺をいじめるな」
 こう見えてかなり我慢をしているんだよ、とシコードが呟いた。
 クラーリィは聞こえない振りをした。既成事実になっちまえば考える隙もなく楽なのにな、なんて愚かしい考えはすぐに消した。


 ***


 シコードはクラーリィが「うん」と言うまで絶対に手を出さないつもりのようだ。驚くほど律儀な男! 彼はクラーリィにささやかなちょっかいは出すものの、その先には足の指一本踏み込んでくる様子がない。その妙に安全な状態にふた月もすればクラーリィも順応してしまい、少し面倒な事案が舞い込むとパーカスに内緒でシコードを巻き込むなんてこともしょっちゅうになった。
 なにせシコードは元・グローリアの師団長様。能力的な面でクラーリィの右腕としては申し分ない、その上クラーリィの好意を得たいが為に忠実に動いてくれるし、抜群のタイミングでクラーリィの体調をも気遣ってくれる最高の部下と言っていい。
 この状況では絆されても仕方がないと思う。少なくともクラーリィの頭から「お断り」の三文字は消え失せていた。了解の意を伝えたあとにやってくると思われるデメリットより、お断りの意を伝えたあとのデメリットの方が随分大きく感じられたのだから、この判断は理に適っていると言っていいだろう。
 もっとも、クラーリィには「了解」と言う決心を未だに付けられなかったし、その後やって来る変化を受け止めるほどの度胸もなかった。願わくば現状維持でいきたい、なんて甘い考えが未だに捨てられない。それが甘い考えであって、いつまでも引きずっていてはいけないということくらいクラーリィにもよく分かっているのだが…
 多分クラーリィは、シコードにいい具合に誘導されている。

 廊下で偶然すれ違ったのをいいことに、クラーリィは小声でシコードを呼び止めた。
 本当に「偶然」なのかどうかは分からないが、クラーリィは随分まえにそれについて考えることを止めている。故意の偶然であったとしてもクラーリィに何ら不都合は生じない、むしろ探す手間が省けて良かったというところ。加え、わざわざシコードのあら探しをしようという気も、今のクラーリィにはもうない。
 一瞬立ち止まったシコードの手に小さな紙切れをねじ込んだ。紙切れには時間だけが書き込まれているが、シコードはそれが何の時間であるかをちゃんと知っている。クラーリィはまえにもあとにも何も言わず、すぐに立ち去った。
 シコードもまた何もなかったかのように歩き出す。また何か面倒な事案が舞い込んだのだろう。己を信用し、頼りにしてくれるのは悪い気分がしない。
「…超過労働気味だな」
 胸ポケットに紙切れを押し込み、シコードは当初の目的地に黙々と向かう。途中、手洗いか何かに寄って紙切れの中身を見よう。恐らく紙切れにはまたいつものように時間だけが記されているのだろうが、シコードは微かにその他の言葉の書かれる日を待ち望んでいる。



「助かった」
 いや、とシコードが短く返す。手をぱんぱんと払い、クラーリィはもう一度礼を言った。
「おまえが俺の部下だったら、どんなにかいいことか…」
 そうだな、とシコードが苦笑する。いつの間にかあたりは暗くなっていて、肌をやや冷たい風が撫でていく他は何の気配もない。永遠の沈黙に落ちた標的は、クラーリィとシコードの少し先に蹲っている。
「…あの、シコード」
「うん?」
「こ、この間の返事のことなんだが…」
 それが何を差し示すのか瞬時に理解したシコードは、あえて何も言わずにクラーリィの続く言葉を待った。クラーリィはしばらく視線を泳がせ、ええと、と呟く。
「その、待たせて悪いと思っている」
「気にしないよ」とシコードは返した。ほんの少し、心臓が早くなる。
「い、言い訳の域を出ないんだが、真面目に考えたいんだ」
 クラーリィの伺い見たシコードはふっと笑った。怖いくらいに優しくて、おまけに見習いたい程度に自制心の高い男。「ありがとう」なんて礼までしてくれる。
「…少しは怒れよ」
「なぜ?」
「俺の立つ瀬がなくなるだろ」
 シコードは意外そうな顔をした。それから「理由がない」とこぼす。
「…正直、すぐ断られるものと思っていた。最悪国に追い返されるかと」
「個人間の問題なのに、追い返すなんてことはないだろう。俺はそこまで公私の区別の付かない男じゃない」
「そうか? もともとお国柄仲が悪いからな、追い返すとなれば理由なんて無尽蔵に思い付くだろう」
 些細な問題であっても一言指摘すれば勝手に話が大きくなっていく、とシコードは続けた。俺も完璧な人間じゃないから、つつける隙の一つや二つあるに違いないと彼は言う。
「何より、身の危険を感じられたら終わりだなと思っていた。実力的な意味で拮抗しているわけだし」
「身の危険、ね。だから俺に一切手を出そうとしないわけ」
 ああ、とあっさりシコードは頷いた。
「おまえは何回俺に同じことを言わせれば気が済むんだ?」
「い、いや、その、…ごめん」
 頭を下げたクラーリィの頭上に、別に怒っていないよという優しい声が振ってくる。
「おまえはこのあと事後処理だろう? 一緒にいるところを見られるのもまずいだろうから、俺はもう帰るよ」
「あ、ああ、そうだな。今日はありがとう、シコード」
 シコードは返事代わりに手を上げ、踵を返すなりすたすたと歩き始めた。その歩調には、ほんの少しの未練も伺えない。
 ろくに人家も見あたらないこの辺りでは、落日と闇の訪れが同義のようだった。ほんの数分しか話していなかったはずなのに、もう足下にまで闇が忍び寄ってきている。

 闇に溶けるシコードの背をクラーリィはじっと眺めていた。こんなに静かだというのに足音は聞こえてこない。彼の特徴的な長い銀髪がゆらゆらと揺れながら名残惜しそうに消えていくのを、クラーリィは黙って見送っていた。



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