隣・7



 ***


「おまえは俺に、喧嘩を売っているな」
「いい、いや」
 クラーリィがまた馬鹿なことを聞いた。今のシコードの真剣な怒気を孕んだ声に若干記憶が吹っ飛んだが、また「なんでよりによって自分なのか」とか「どこがそんなにいいのか」とかその類の質問をした記憶がある。またいつものように呼び出して、頼み事の詳細を話して、その後ちょっとした世間話に花を咲かせていた。もはやこういった一連の流れは日常の一部と化していて、もう夜半であるしシコードを招き入れても問題はなかろうと待ち合わせの指定場所もクラーリィの自室に変更していた。世間話だって日常の些細なことから政治に関する話まで多岐に渡る。多くの知識がクラーリィと被っているシコードは、クラーリィのよき話し相手にもなってくれた。
 そしてそんな世間話の途中、自然に「また」そんな流れになってしまったような気がする。
 しかし、今日のシコードはひと味違った。この前のように笑って流してくれる雰囲気ではない。彼は心の底から沸々と沸き上がる殺意か何かをなんとか押しとどめ、辛うじて手を出すのを我慢しているような状態だ。
「俺に殴られたいか? 俺に罵倒されたいのか?」
「ちが、そういう目的で言ったのでは、」
「おまえは人を怒らせる天才だな。ここまで我慢しきった自分をいっそ褒めてやりたいよ」
 じり、とシコードが迫る。こんなつもりじゃなかったのにな、と呟くシコードの声はかなり低かった。
 その瞳に怒りと本気を垣間見て、しまった、と心の底からクラーリィは後悔した。ここはクラーリィの部屋、生憎と防音やらは完璧で、助けを求めようが泣き叫ぼうが誰かが来てくれるわけもない。そして何よりシコードとクラーリィの距離は一メートルほどしかなくて、嫌が応にも生命か何かの危機を感じざるを得なかった。
「待っ、シコード、」
「この俺を怒らせるとはな。まさか俺に怒髪天を衝くなんて表現が似合う日が来るとは思わなかった」
 クラーリィの言葉など一切耳に入らなくなったのか、後ずさるクラーリィより早く前に出て、シコードはクラーリィを突き飛ばした。まさか突き飛ばされると思っていなかったクラーリィはカーペットの上に倒れ込む。
「え、ちょ、本気か!?」
 手をつき立ち上がろうとしたクラーリィの上に、真顔のシコードがのしかかった。
 重い。そして怖い。
「何がだ?」
「お、落ち着けシコード俺謝るからその、こ、ここは床の上だよシコード?」
 後ろめたさと動揺とで、クラーリィはか弱い身動ぎしかできていない。だが対するシコードはそれは黙々とクラーリィの動きを封じる方向に知恵を働かしていて、彼の右腕はしっかりとクラーリィの肩口を押さえ込んでいる。
「それも一興だな。いいかクラーリィ、おまえが悪いんだよ」
 しれっと言い放ったシコードはちっとも笑っていない。怒り心頭であることがわかる表情のまま、空いた左手でクラーリィの胸元の服を掴んだ。
「や、破かないでくれ! そのえっと、た、高いんだよこれ」
 もう少し何か別の言わねばならぬことがあるだろうに、クラーリィの口をついて出たのはこんな言葉だった。思った以上に混乱しているらしい、しかし何と言えばシコードがクールダウンしてくれるのか、どうしたら己に迫る「危機」が去ってくれるのか、クラーリィには到底分からない。
「諦めたか? いい心がけだな」
「ちが、違うシコード頼む落ち着いてくれ冷静になってくれ、俺の謝罪を聞き入れてくれ!」
 嫌だね、とシコードは言い放った。そして少し下敷きになったクラーリィを眺め、ぽつりと「弁償するよ」と呟いた。
 妙に冷静なその言葉にクラーリィの背筋が凍った。何の抵抗を示す間もなく次の瞬間には威勢よく服が破られ、胸板が露わになった。ビリィ、といい音のした服からはボタンが1、2個はじけ飛んだ。
 胸に直接触れる外気がクラーリィに、更なる不安やら後悔やらを連れてくる。寒いと感じるのは外気だけが原因ではないだろう。
 シコードの目が怖い。彼の目には、確実に「本気」が宿っている。見ていられなくなったクラーリィは視線を逸らした。随分下の方から眺める己の部屋はそれはそれで新鮮だ、なんておかしな感想まで浮かんできた。
 もうだめだとクラーリィは目を瞑る。この状態で抵抗を示したところで、シコードの怒りの炎に油を注ぐだけと相場は決まっている。無意味な抵抗も無駄な傷も好きじゃない。こういう損得勘定はあまり好きではないが、こうなったら仕方がない。腹を決めて、とっととこの災難が過ぎ去ってくれるのを待つのが最善だろうと踏ん切りを付ける。
 それでもって、今後シコードがどう言ってこようと流されたと文句を垂れてやる。なんだかんだ言いながら、結局最後まで決定権はシコードのままであったと偉そうに文句を垂れてやろうじゃないか。
 しかし、上にのしかかるシコードが動く気配はない。
「……?」
 クラーリィは恐る恐る目を開けた。そろり、もう一度シコードの方へ視線を戻す。行き場のなくなった左手を変な位置に浮かせたまま、シコードは困った顔をして黙り込んでいた。
「……シ、シコード?」
 クラーリィの声にようやく現実へ戻ってきたのか、シコードは「はあ」と大きなため息をつく。そして、あんなに力強く押さえつけていた右手をあっさりと離した。
「やめた」
「ちょ、シコード?」
「喜んだらどうだ? 俺の優秀な理性が今日も勝った」
 よいしょ、なんて呟きながらシコードが立ち上がる。もう動けるはずのクラーリィは、呆気に取られて床に転がったままだ。
「……は?」
「やめてくれ、と必死だったくせになんだその顔」
 だって、と言いかけてクラーリィは止まった。

 だって、なんだ? なぜ自分は今、こうしてシコードが退いたことを喜ぶどころか理不尽に思っているのだろう。どうして自分は、残念だとすら思っているのか!
 過ぎった仮説は、あまりにも不甲斐ない上にクラーリィ本人を苛立たせるに充分なものだった。
 あんなに迷っていて、一言「付き合ってもいい」と言えるだけの度胸がクラーリィにはなく、かといって「ごめん」と言えるだけの諦めもなかった。そんな時に現れた「シコードが勝手に最後の決断を下してくれそう」な現実は、己にとってそれはそれは有り難かったのだ! 何度も何度もシコードを怒らせようとしていたことだって、結局は怒ったシコードに最後の轍を踏ませたかっただけ。最初から最後まで、責任の全てをシコードに押し付けようとしていただけだ。
 自分で決断するのが、面倒だったから。自分で決断することによって降りかかるその後のいろいろな問題を、抱えるだけの覚悟を決めることが億劫だったから。
「……こ、この……!」
 クラーリィ自身に向けた苛立ちをシコードは己に向けたものと勘違いしたようで、幾分申し訳なさそうに謝ってきた。はだけたクラーリィの胸板に罪悪感を煽られるのか、その辺にあったタオルを投げて寄越す。
「服を破ったことは謝る。ちゃんと弁償もしてやる。それでおあいこだ。おまえも俺を怒らせたのだし」
 当然のことながら、クラーリィがそうかと頷くわけはなかった。手をついて上半身を起こすと、受け取ったタオルをぞんざいに肩に立て掛ける。
「……ご機嫌斜めだな。今回ばかりは俺もそう謝らない、さんざ俺に喧嘩を吹っ掛けたおまえも悪い」
 だから機嫌を直せ、とシコードは言う。クラーリィは眉間のしわをさらに深め、黙って首を振った。いろいろと情けない己に対して、そして理解に苦しむほど自制心の強いシコードに対して、腹が立って仕方がない。
「なんだ、襲って欲しかったのか?」
 煮え切らないクラーリィの態度に、シコードは珍しく冗談を言うことで対抗しようと考える。これまでの経験からいって、クラーリィは「ふざけるな」とか怒り出すはずだ。
 しかしシコードの目論見は外れた。己の視界に入ってきたのは、怒り出すどころか妙に冷静な顔をしたクラーリィ。
 ああそうだよ、とクラーリィは吐き捨てた。
「……は?」
 クラーリィは立ち上がる。なにやらいつもと違う気配を感じたシコードは、言葉にできない違和感を感じて一歩後ずさった。
 そうだよ、とクラーリィは繰り返す。その目がキッとシコードを捉えた。
「ああそうだよ、襲って欲しかったんだよ、だからあんな言い方を何度も何度もしたんだよ!!」
 シコードはもう一歩後ずさった。言葉として耳には入ってきているはずなのに、クラーリィの言葉の意味がちっとも分からない。
「この愚鈍。愚図、鈍重!!」
 シコードは返すべき言葉を見つけられずに、手を口元に持って行くことしかできなかった。開いた口がどうしてもふさがらないのだ。何も返さないシコードにクラーリィの苛立ちが加速したのか、彼は肩を怒らせて一方的に怒鳴りつける。
「いいかシコード、俺はもう考えることに疲れたんだ、貴様の心の広さと優しさには恐れ入った、もし俺が女ならとっくにできあがっていただろうよ、他人が見たら殺意しか沸かないような恋人同士になっていたかもな! だが俺は男だそして貴様も男だ、それでもって俺たちはもうそこそこの歳になってそこそこの地位を持ってる、踏み外すと自分以外の人間にまで迷惑が掛かるような人生送ってるんだ。いくら俺でも付き合ってもいいでもプラトニックでなんて甘っちょろいことは通用しないってことくらい分かる、俺は迷ってるんだ悩んでるんだ、それでとうとう悩むことに飽きたんだ! 悩んだって何の進展もありゃしない、だったらいっそ実践してみるしかないだろ百聞は一見にしかずって言うし!」
 クラーリィのしかけたことは百聞でも一見でもない、と言いたかったがシコードはその言葉を飲み込んだ。とてもではないが口を挟める雰囲気ではない。
「貴様とはどうあっても無理だってなったらぎゃーぎゃー喚けばいいと思ったんだよ、おまえが襲ってきたって名目なら俺だって逃げやすいし! そうだろシコード、まさかこんな状況の俺が自ら手を出してくれなんて言うわけないだろ? 貴様が手を出すことでしか俺の悩みは解決しないんだよ、分かったか少しは雰囲気を読めこの愚鈍めが」
 どれだけ自分勝手なことを言っているのか分かっているのかと文句を垂れたかったが、シコードにはそれより聞きたい大切なことができてしまった。
 クラーリィ、と控えめに声を掛ける。一通り言い切って満足したのか、クラーリィは肩を上下させてシコードをじっと睨み付けていた。シコードの声を聞き、ぴくりとその眉がつり上がった。
「なんだ」
「つまり、肉体関係を持てるかということをさておけば、おまえは俺と付き合ってもいいと思っているのか?」
 おう、とクラーリィはあっさり頷いた。
「……え?」
「その時点はクリア済みだ。少なくとも俺はおまえが嫌いじゃない」
「……えっ……」
 シコードは目を丸くする。クラーリィが念願の言葉を言ってくれたのだ、自分はもう少し喜んでもいいと思うのだが、なぜか喜びより先に呆れに近い感情が湧いてくる。クラーリィの反応があまりにもあっさりしているのが原因なのだろうか。
 シコードはしばらくクラーリィの顔を眺めていたが、すぐに現実に戻ってきた。数年越しの念願の成就が目の前に座している、それを見過ごす道理はない。
「じゃ、じゃあ襲わないから俺と付き合ってくれ」
 クラーリィは首を横に振った。
「成人男子が恋人を前にそのようなことを達成するなどあり得ないと思われる。よって無理だ」
「いやいける」
 今回だって俺は未遂に終わらせられたじゃないか、とシコードは言う。確かにそうだが、とクラーリィは言葉を詰まらせた。今回で通算二度目の自制になるだろうか。一度目は休日礼にとクラーリィの部屋に招き入れたとき。勘違いしたクラーリィをそのまま頂いてしまえばよかったものを、シコードは指一本触れずにやり過ごした。
 少なくともクラーリィの自制の物差しを使って推し量るのはやめておいた方がいいだろう。我慢強さという点においてクラーリィに勝ち目はない。
「約束する。……あ、いや、誓約する」
 シコードは頭を下げた。ここで下げるのは間違っていると思う、でもたぶんシコードにとってこの行動が一番の正解なのだろう。彼の一番の武器は、クラーリィのものとは比べものにならないくらいの誠心と堅実さ。
 クラーリィは小さくため息をついた。二人の間を、深夜の滞った空気がゆっくり通り過ぎていく。この状況下のクラーリィに用意された答えなぞ、一つしか見あたらなかった。
「……分かった」
「え?」
「何度も言わせるな。約束だぞ。襲うなよ」
 すっと顔を上げたシコードの顔に、一瞬にして喜色が差した。彼は喜んでいる。当然だろう、だがクラーリィはそんなシコードの姿が少しだけ嬉しかった。
 随分と人種の違う二人のようだが、そんなシコードに惚れる己も悪くないかもしれない、なんてクラーリィはひとりごちる。



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