隣・8



 *** エピローグ


「おいシコード」
 クラーリィの呼び掛けに、シコードが随分と面倒そうに振り返った。ペンを離そうとしないところから察するに、邪魔をするなとでも言いたいらしい。
「……なんだ?」
「なんだ、ってなんだその態度。それが恋人に対する態度なのか?」
 クラーリィは不愉快そうな顔をしたが、対するシコードは動じない。ペンを握り締めたまま、体も机に向けたまま、首だけをクラーリィの方へ向けている。
「恋人恋人って、キスの一つもさせないくせに」
「お、俺はしてもいいぞって言ったぞ!」
「寝てる時にな。この根性なし、いい加減腹を決めろ」
 シコードは首を戻して机仕事に戻ってしまった。「よい返事」をしてからはや一月、未だ覚悟の定まらないクラーリィにシコードは日に日に苛々を募らせている。その間にシコードは随分クラーリィに文句を言うようになった。
「俺は再三おまえに『寝込みは襲わない』と言ったのに、何が『俺が寝ている時ならいいよ』だ。喧嘩を売っているのか」
 そんなことはないとクラーリィは首を振る。クラーリィはシコードとは違い、座っている場所こそ彼から離れたソファだが、ちゃんと話をする体勢を取っている。
「だ、だから『まずは文通から、お付き合いすることを前提に』みたいな感じで俺に接してくれって言ったろ!」
 こう叫ぶクラーリィを、シコードは冷ややかな瞳で見やった。
「単に俺に責任被せたいだけなんだろ、はっきりそう言ってしまえ」
 いちいち遠回しに言うんじゃない、とシコードは言った。下がる髪を耳に掛け、手元操作に気を配っている。全く何故こんな男に惚れてしまったのだか、という呟きが聞こえてきたがクラーリィは無視することにした。
「それはちゃんと謝ったじゃないか、だから俺からデ、デートの予定だって組んだし」
「ドタキャンしたけどな」
「あ、あれは仕事が急に……それも謝ったろ!」
 そうだけどな、とシコードは呟いた。本当に予定が空いていたのかも今はあやしい。はじめから仕事で埋まっている日にわざと予定を組んだのではないかとシコードは疑っている。
 最早シコードにクラーリィの方を振り返る気配はないが、一応返事が来るだけ僥倖というものだろう。クラーリィは立ち上がり、机仕事に精を出すシコードの方へ歩み寄った。手元を覗き込んで本当に手仕事をしていることを確認してから、迷惑にならない程度に密着してじっと見つめる。
「……なんだ」
「そう怒るなよ、おまえらしくもない」
「一月生殺しだ。おまえにこの俺の落胆が分かるのか? 初めての恋人というわけでもあるまいに、清純ぶるのもいい加減にしたらどうだ」
 違う、とだけクラーリィは言った。
「なにが?」
「おまえ勘違いしているな」
「……なにがだ?」
 シコードがようやく振り返った。彼の瞳に、随分複雑そうな顔をしたクラーリィが映り込む。
「清純ぶっているわけじゃない、俺にとっておまえが初めての恋人なんだよ。俺、つい一月前に恋人居ない歴イコール年齢を脱出したばかりなんだ」
 シコードはしばらくクラーリィの顔を眺めて黙っていた。それからおもむろに立ち上がるとクラーリィの目の前に移動して、それはそれは深く頭を下げた。
「なに?」
「すみませんでした」
「なんで謝るんだよ」
 しかも敬語で気持ち悪いとクラーリィはこぼしたが、シコードは一向に頭を上げない。
「傷つくなあその反応……」
 だって、という言い訳をシコードはなんとか飲み込んだ。
 だってそんな顔をしているし。この年で早くもこんな地位にぶら下がっていることだし。恋人の一人や二人、あるいは同時に複数、居たっておかしくもなんともない。しかしなにより申し訳なく思うのは、好いた惚れたと言ったクラーリィのことを、そういう人物だと思い込んでいた事実だった。
 ごめん、とシコードはもう一度謝る。
「初心で悪かったな」
「誓って悪くはない」
「まあ、おまえはなにをしても俺の初めてを奪うわけだからな! ……って言うと、卑猥か」
 硬直したシコードを見てクラーリィは笑った。それも指差してまで笑った。シコードは慌ててからかうなとか笑うなとかクラーリィを諫めたが、彼に聞く気配はなかった。平静を装おうとするシコードにツボを突かれたのか、腹まで抱えて笑っている。
「クラーリィ!」
「なにを想像しているんだよ! はははおかしい、おまえの顔が赤い!」
「このっ……」
 震える腕の下ろす先がない。強いて言うなら瞬時にあらぬことを想像した自分の頭だろうか。
「はははよかったよかった、おまえは自制心が強いだけでその他は人並みらしい! 安心した安心した!」
「クラーリィ、怒るぞ!」
「怒るなってさっき言ったろ。仕方ねえなあ、こっち来いシコード」
 クラーリィはひらりと身を翻し、先程まで自身の座っていたソファに腰を下ろした。そして隣の空いたスペースをぽんぽん叩き、座れよと勧める。
 シコードは大人しく従って隣に腰を下ろした。
「俺寝たふりするから、好きにしろ」
「……寝たふりか……」
「ホントに寝てるときから寝たふりに進化したろ? っていうか未知の領域は漏れなく怖いんだよ、俺にあんま無理強いすんな」
 はい、と呟いてクラーリィが目を瞑った。

 長めの前髪から微かに額が覗いて、その下には緊張しているのかすこし力の入ったまま瞑られている瞳。いつもなら見えるはずの深い緑は今は見えない。
 最近とみに言葉遣いが変化したよな、とシコードは独りごちる。口が悪くなった、言い換えれば砕けた表現になった。シコードに気を許してくれていると考えていいだろう。
 そっと腕を伸ばして頬に触れると、びくっとクラーリィが身体を強ばらせる。大丈夫だよ、と囁くと彼はくすくす笑った。
「寝たふりしてんのに、話しかけんな」
「おまえが緊張しているから」
 怖いことなんてしないよ、とシコードは続ける。邪魔な前髪を除け、顔を近づける。気配を察知したのかクラーリィがぐっと目を瞑った。そんなに気負う必要なんてないのに、変なところで純朴というか何というか。
 頬に沿わせている手のひらを少し動かし、精一杯の愛おしさを込めてそっとその輪郭をなぞる。「寝たふり」のクラーリィは、くすぐったいのか肩を竦めた。その表情が少しだけ柔らかくなる。
 奥の方から込み上げてくる何かがあった。たぶん、愛おしさとかいう名前のそれ。シコードの背を押し、彼はようやく腕の中に来てくれた恋人にキスをすることができる。ただ触れるだけ、でもその一瞬に、じわじわと燃える灯火のような喜びがある。暗いどこかに灯された明かりが、隠れていたいろいろなものを明るく照らし出してくれる。
 勿論感触なんて分からなかった。しかし今はそれで充分に満足。本当はしたい「もっと」を限りなく押し込めて、シコードはすぐに離れた。

 頬から温もりが消えたことに気付き、クラーリィはそろりと目を開ける。力を込めて瞑っていたせいか、少しだけ視界がぼんやりしたまま戻らない。やがて戻ってきた視界の真ん中には心配そうな顔をしたシコードがいた。
 クラーリィは眉を顰める。シコードが気を揉んでいることなど微塵にも気付かず、ゆっくりと視線を下に向ける。
「なんだ?」
「レモン味……じゃない」
 ふ、とシコードが吹き出した。どの時代の知識なんだと彼は言った。
「夢が壊れた……」
「あれは実際にそういう味がするわけじゃなくて、いずれ思い出になった時甘酸っぱい思い出になるからそういう表現になるんだろうが」
 そうなのか、とクラーリィは呟いた。若干その肩が落とされている。
「じゃあレモン味になるのは数年は先かあ……」
「どうしてもそうしたいんなら、やる前に俺にレモン味の飴でも舐めさせろ」
「あ、それいい。今度飴買ってこよう。……って、だったら今の記憶すっぱり忘れないと駄目じゃないか。おいシコード、記憶消せる術みたいのはないのか」
 シコードは黙って首を振った。あるといえばあるが、流石にここは譲れない。真実がどうであろうとこういう返事をされることくらいクラーリィにも分かっていたようで、「やっぱり」と彼は言った。
「まあいいや。これでお互い様な」
「ああ」
「今日泊まってくか? 俺の部屋」
「……ええ?」
「リアクション薄いな。お手々繋いでねんね。どうだ」
 シコードはしばらくクラーリィの顔を眺めて、存外真剣に提案していることに気付き、そうだな、と頷いた。
「お邪魔しようかな」
「レモン味は諦めるから、恋人なのになぜか手を繋いで健全な一夜を過ごす、をやらせてくれ」
「クラーリィ、よかったらどうしてそんな夢を持ったのか教えてくれ」
 いいよ、とクラーリィが笑う。彼は「話すと長くなる」と続けた。
「大丈夫だ。時間はたっぷりあるし」
「そうだな。じゃ、またあとでな」
 立ち上がったクラーリィが、ひらりと踵を返して部屋を出て行く。シコードはその背を見送って、それはそれは重たい幸福のため息をついた。
 己の中を駆け巡るいろんな欲のうえ、なにより大きな彼への慕情。彼が己にくれた覚悟の分だけ「何か」をあげられたら、とシコードは願っている。


 ***END



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