石鹸・1



 ***


 誕生日プレゼントだよ、とサックスが固形石鹸をくれた。
「……石鹸?」
 うんそう、とサックスが頷く。クラーリィは首を傾げる。
 受け取った手のひらから、ほんのり漂う石鹸の香り。なにか混ざりもののある石鹸なのか、普通の石鹸とは少し違う、果物のような匂いが混ざっている。
「石鹸か……」
「嬉しくない?」
 いいや、とクラーリィは首を振った。下手に置き場所に困る何かを貰うよりは、使ってしまえる実用品の方がまだ救いはある。この石鹸の香りはとても好きな匂いというわけではないが、幸いにしてクラーリィの嫌いな匂いではなかった。
 一般的な石鹸に比べれば少しだけ大きめの、黄色い色をした半透明の固体。
「おいしそうな匂いがしますが、食べられません」
「食わねえよどう考えても」
「酔ったら分かんないじゃん。だから飾っとくのは止した方がいいと思うよ。潔く使ってね」
 使うためにあげるんだからね、とサックスは繰り返した。使って欲しいらしい。実用品をプレゼントしたのだから当然か。
 クラーリィは「分かった」と答えた。それを聞いたサックスはにっこり笑った。



 一週間ほど経ったある日、クラーリィはひょんなことから小さな蝋燭をプレゼントされた。なんでも凝ったつくりの品らしく、専用の容器に入れて火を灯すと幻想的な雰囲気を味わえる一品らしい。本当はこんなものを使う柄ではないと辞退したかったのだが、くれた人物が人物、大人しく受け取ることにした。
 蝋燭自体はそんなに大きくない。たぶん、火を灯せば一晩で燃え尽きてしまうだろう。いつまでもしまっておくのも勿体ないし、なにより次贈り主に会った時の「どうでしたか」という質問に答えられないのが辛い。クラーリィはほんの少しだけ悩んだ挙げ句、使ってしまうことにした。楽しむついでにサックスでも誘ってやろうと考える。クラーリィと違ってどこかメルヘンな世界に住んでいる幼馴染みのこと、クラーリィではひねり出せない素敵な感想を考えてくれるかもしれない。

 呼び出されたサックスは、品を見るなり「へえ」と呟いた。
「なに?」
「今流行ってるやつ。だね」
「知ってるのか」
 えっ、とサックスが首を傾げる。「知らないの」とでも言いたげなその表情。クラーリィの不愉快そうな顔を見てすぐに引っ込め、若干慌ててソファに座った。クラーリィはきちんとドアを閉めてからソファまで戻ってくる。
「流行ってるのか……」
「そ、女官さんたちの間で大ブーム! 最近は男でも買う人いっぱい居るらしいよ。ていうか俺もこの間買ってきた」
 お手軽に楽しめるのがいいんだよね、とサックスは言う。なんでも一箱に一通り道具が揃っているそうで、こういった物事に造指の浅い者でも簡単に楽しめるのが売りらしい。女官に勧められると大概のものを買ってしまうサックスは、例によって女官に言われるがまま彼女たちのお薦めを一通り揃えてしまったそうだ。
「ちょっとお高いのが、お手軽と言い切るにはネックなんだけどね」とサックスは付け加える。
「でもクラーリィの持ってるこれは、聞いたことないからたぶん限定品なんだろうな。いいもん貰ったじゃん。誰?」
 クラーリィは素直に差し出し主の名を告げる。ついこの間会談のあった国の騎士団長の奥さんから。若いクラーリィにはこちらの方が良いだろうと、クラーリィにだけ他の人物とは違うお土産をくれた。
「……奥さんか。オッケーオッケー」
 サックスは腕組みをしてふんふん頷いている。そいつはどこの誰だよ! と身を乗り出すサックスを想像していたクラーリィには少々拍子抜けの反応だった。
「人妻は危険とか思わないのか?」
「人妻ジャンルにはホルン様という極致が居るからこのジャンルでの心配は無用、という俺の見識」
「妥協という手もあるが……」
「おまえなんでそんな俺に浮気疑惑掛けられたいの」
 だって、とクラーリィがこぼす。
「会話の流れ的にここはおまえが俺の不貞を心配する場面では」
「おまえが俺と修羅場をやってみたいってことは分かった。だがそれならもう少し『ぽい』雰囲気作ってくれ、おまえのその態度じゃ逆に完全に白なんだなってよく分かる」
 余裕綽々のサックスにクラーリィが口を尖らせる。今回は完全なる失敗というわけだ。
「仕方ねえ、今回は諦めてやる」
「なに、あれ? 小説のような恋がしたいっていうあれ?」
 ロマンがあっていいね、なんて言ってサックスは笑った。彼はソファのまえのローテーブルに手を伸ばし、問題の蝋燭セットを持ち上げる。鼻の近くまで持ってきてようやく分かる控えめな香り。若者間で流行っているからとプレゼントに選ばれたそうだが、中身は如何にも年上の女性がプレゼントしそうな、クラーリィには少し落ち着きすぎているかもしれない代物。
 隣に腰を下ろすクラーリィは、やや憮然とした表情のまま黙っている。否定しないということは、案外「小説のような恋がしたい」のは図星だったのかも。
 サックスが覗き込んでも、まえをぼんやり見つめているクラーリィの表情はよく分からない。
「……クラーリィくん」
 なんだ、と味気ない答えが返ってくる。長い前髪の間から覗くサックスの好きな彼の瞳が、緩くサックスを捉える。
「……いや、……」
 何度か聞こうと悩んで、結局聞くのを諦めた。きみはどれくらい俺のことが好きなの、とか、嫉妬して欲しいと願うくらいには独占欲を感じてくれてるの、とか。どう尋ねたってクラーリィは怒るに決まっているし、サックスの望む答えが返ってくる可能性はなきに等しいことくらい分かっていた。普段冗談混じりでしか「好き」と言ってくれないクラーリィが一体どれだけの感情を自分に向けてくれているのか、サックスにはそれをはかる物差しが足りない。
 クラーリィはじっと視線を投げかけたままだ。サックスが口を開くのをただひたすらに待っているらしい。
 サックスは慌てて「やっぱり使っちゃうの?」と呟いた。我ながら下手なフォローの仕方だと思う、当然ながらクラーリィは眉をひそめた。そして「使うために呼んだんだ」と文句を言う。そりゃそうだ、とサックスが頷く。

 クラーリィは黙って立ち上がり、部屋の電気を消しに回った。彼はサックスと話すことそのものを諦めてしまったらしい。その後ろ姿を眺めながら、サックスは「結局怒らせてるし」なんて呟いた。唯一無二の恋人である相手のご機嫌を逐一伺うこと自体が既に間違っているのかもしれないが、そう気遣うサックスの優しさについて、たまには考慮してくれてもいい。
 残念なことに、クラーリィにサックスの独り言が届いた気配はなかった。まったくクラーリィの選択的地獄耳の素晴らしさといったら、サックスも少々見習いたいくらいだ。
 クラーリィの動きに伴って、彼の長い髪がゆらゆらと揺れている。美しい流線型を描きながらサックスの視界の隅を揺れ動く金色の髪。戻ってきたら三つ編みにでもしてあげようか。三つ編みにすると彼は大抵怒るけれども、その翌日の綺麗なウェーブが掛かった髪もサックスは好きだ。それがベッドの上に放線状に投げ出されたところなんてもうため息が出るくらいなのだが、滅多に見られないのが玉に瑕。

 ばちり、最後の灯りを消してクラーリィは戻ってくる。残ったのはサックスの座るソファの目の前、ローテーブルに置かれた小さなデスクライトだけ。ゆっくりと近寄るクラーリィの影が、残った心許ない灯りの中で揺れている。
「暗いよ」
「だって部屋の灯りは消しとけって取説に書いてあったぞ」
「知ってるけど」
 足下に気を付けてね、とサックスは言う。クラーリィは少しだけ首を傾げて、それから「自分の部屋なのに転ぶか」と笑った。
 今の一言が効いたのか、ご機嫌の戻ったらしいクラーリィがサックスの隣に腰を下ろす。若干の物憂さを宿した瞳が二つ、サックスの方へ向けられた。

「ところでサックス」
「はい?」
「さっき言い掛けたことは?」
「……へ?」
 サックス胸の辺りをやけに冷たいものが駆け抜ける。彼を捉えて離さないのは、随分と確信めいたその目つき。
「さっき俺に何か聞こうとして諦めた。んで、誤魔化そうと変なこと言って俺の不評を買った」
 サックスは思わず目を瞑った。クラーリィはサックスの迷いなどお見通しだったようだ。
「い、いや、その……」
 クラーリィはひたすらサックスの返事を待っている。自分たちの貴重な時間が潰れていくことに恐怖すら覚え、サックスは早々に降参を決めた。そうだな、と彼は切り出す。
「まあその、なんか、怒られそうかなと思って聞くの止めたりして……」
 クラーリィに突っ込まれるまえに、自ら「結局怒らせたけど」と付け足しておく。サックスの想像した通り、クラーリィは不満気な顔をして何やら考え込んだ。その内容を聞くか否か、聞いたところで何かメリットがあるのかないのか、いろいろ損得勘定をしているようだ。
「俺別におまえに怒られるの趣味じゃないし、況してやおまえに心優しく『自信を持て』とか言われると必要以上に傷つくし」
 はっ、とクラーリィが吐き捨てた。サックスが少しだけ固まる。
「どうせ吐くならすっきり吐いちまえよめんどくせえ。これ以上俺を苛々させたくなかったら、はっきりものを言うんだな」
 サックスの遠回しな表現では結局何を聞きたかったのか分からなかったらしく、クラーリィはあからさまな不愉快を浮かべて腕を組んだ。
 サックスは慌てる。
「だ、だから、その、……クラーリィは俺のことどれくらい好きなのかなとか、……おまえ何回聞きゃ気が済むのって感じの、諸々をね」
 今更聞くような話じゃないじゃん、と無理に笑顔を作る。心の底から満足している振りをして、クラーリィの真実を引き出す手間から逃げている。ほんの少し、望まない答えが返ってくる可能性に怯えている。

 クラーリィはさらりと「俺は好きだよ」と言ってのけた。

「……えっ?」
 いつもなら「ふーん」とか言って適当に受け流すクラーリィが、随分珍しいことをする。聞き慣れない告白に思わず聞き返してしまっても、別段苛ついた様子もなくまた繰り返してくれた。
「三回言おうか?」
「いやいい、分かってる、びっくりしただけだから」
 クラーリィは恥ずかしがる素振りすら見せない。けれど向けられた瞳には確かに強固な意思が宿っていて、冗談で言っているわけではないことは明白だった。
「……お、俺も」
 ほんの少し気後れを感じ、サックスは若干の沈黙のあとに返答する。いつの間にか落ちていた視界の隅、ちらりと入り込むのは暗い世界に薄く光を帯びる金の髪。
「満足か? 言って欲しかったんだろ」
「うんそう、ありがと」
 よく分かったね、とサックスが呟く。クラーリィが当然のように「いつから付き合っていると思っているんだ」と返す。
 サックスはその顔をまじまじと見つめた。しかし、こうしていくらクラーリィを眺めたところで、サックスにはどうしてクラーリィが珍しく「好き」と言ってくれたのかも、怒らずに復唱してくれたのかも分からない。
 ため息をひとつ。
「……子供の頃から一緒にいるけど、俺は結構おまえのことが分からない。俺は分かり易いタイプでおまえが感情を押し込めるタイプだってことを踏まえたうえでも、やっぱり分からない」
 クラーリィは意外そうな顔をした。その顔を見て初めて、サックスはクラーリィにこんなことをもらしたのはこれが多分初めてなのだと気付く。

 しばらく考え込んだあと、「俺は自分に自信を持ってるから」とクラーリィは呟いた。
「俺は一般市民の出だ。親は両方普通の人間だった。王家のような特別な血は流れてない、だから俺のスタート地点はおまえやみんなや兵団のあいつらと一緒のゼロ。でも俺はこの身一つでここまで上り詰めた、ここまで来ることができた。この際、第一次大戦で俺より年上の有望な人間がみんな死んだから俺にお株が回ってきたっていうのは無視な。
 俺は普通の魔法しか使えない。況してや奇跡も起こせない。だけど、俺にはちゃんと付いてきてくれる部下がいる。そして女王陛下は俺に全幅の信頼を置いてくれている。この上ない幸せだよ。
 それに、おまえがいる」
「……照れるじゃないか」
 嬉しさより照れくささが先に立って、サックスは居心地悪そうに身動ぎをする。
「俺はおまえを恋人の座に据え置いて恥ずかしいとは思っていないから。まあ、言いふらすようなことでもないからみんなには黙ってるけど」
「かっこいいクラーリィ」
 惚れるわ、とサックスは呟く。本当はもっと真面目な返答がしたかったけれど、生憎と考える時間が足りなかった。
「俺はかっこいいよ。顔いいし。スタイルもいいし。もてるし」
「性格は普通」
「うるせー」
 クラーリィは肩を揺らした。そしてぼそりと、もう言わない、と呟く。
「え?」
「たぶん俺はもうおまえに『自信を持て』とは言わない。俺とおまえにはお互い片方だけができることが結構あって、それは努力でなんとかなるもんじゃないって、最近理解した」
「……なんか、理由はよく分からないけど、悲しいかも俺」
 サックスは遠回しに貶されているのだろうか。それともそんなことは一切なく、恋人クラーリィの言葉を疑ってかかる己の心が貧しいだけなのだろうか。
 どちらにせよ少し寂しい。
「俺が個性の一言で片付けられる程度に成長したってことだよ、喜べ」
「俺そんな……。まあいいやなんか納得いかないけど、クラーリィが納得してるならそれでいいか!」
 今後は己の内面の問題と割り切り、サックスは膝を打った。クラーリィの言葉を消化するのには少し時間が必要だ。

 クラーリィは返事をしなかった。ちゃんと解説してあげた方が良かったかもしれない、なんて後悔をしている。しかし悲しいことに、クラーリィ自ら「己にはないサックスのこれこれに惹かれている」と言うのはなかなかに難しかった。この言葉が形となることを、要りもしない高尚なプライドやら羞恥やらが邪魔をする。
 サックスが心配する必要なんてたぶんない。むしろ己の方が、恋人に傾き過ぎなのではないかとよく悩むくらいに恋をしている、そう告げたらサックスは驚くだろうか。言っても信じて貰えない気がして、クラーリィには今まで言おうと思うに至ったことはない。
 クラーリィがどんなに好きだと言ったところで、きっとサックスは信用してくれないに違いない。表面上は受け取った振りをしても、真の意味でそれがクラーリィの本心だとは思ってくれないだろう。もっとも、サックスの中の己がそんな人物になるように延々仕組んできたのは他ならぬクラーリィなのだから、今更クラーリィに文句を言う権利はない。
 今のクラーリィにできることは、なるたけ彼に恋をし続けられるようにサックスと適度な距離を保ったまま、どの程度まで踏み込むことが許されるのか、どこまでなら二人の境界線を曖昧にしておけるのか、慎重に見極めることだけだ。それも、逃さぬように服の端を掴んだままで。
 サックスは自分のことを「分かり易い」タイプなんだとか評していたが、クラーリィはそれを力強く否定したい。恋という名の窓ガラスは余程の粗悪品なのか、曇って曇って向こう側がちっとも見えない。その他の名前を持つガラスは、それはそれは素晴らしい透明度を保っているからこそ、クラーリィはサックスと何の気兼ねもない日常を過ごしていけるのだが。



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