石鹸・2



 ***


「蝋燭点けよっか、クラーリィ」
 ああ、とクラーリィは頷いた。前置きが長くなってすっかり忘れるところだったが、もとはといえば貰い物の蝋燭を消化するのが主目的。腕を組み、出していいぞと声を掛ける。
「俺に全部やらせる気? 別にいいけど……」
 指一本出す気のないらしいクラーリィに呆れているのか、サックスはため息をつきつつ箱に手を伸ばした。小さな箱を開け、一通りセットを取り出す。数本のマッチと、単体でも微かに良い匂いのする蝋燭と、同じ色をした専用の容器。容器は赤みがかった薄い桃色で、結構しっかりと作られた陶器製のものだった。蝋燭がなくなったあとも、別の蝋燭を入れて使えそうだ。初心者向けの商品の癖になかなかの売り上げを誇っているのは、こういう点もあるのかもしれない。
 クラーリィは黙って手を伸ばし、サックスの出してきた容器に蝋燭をはめ込んだ。長い髪に隠れ、顔にはっきりと明暗が現れている。
「マッチ取って」
「はい」
 先程のサックスの言葉に反省したのか、クラーリィは自分で火を点けることにしたらしい。大人しく渡された専用のマッチを手に、クラーリィはサックスを見やる。彼は黙って残った最後の照明を消した。
 ほぼ同時に、ボッと微かな音を立てて橙色の光が灯る。マッチの火はすぐに蝋燭に移され、消されてしまった。
 マッチが点けられてから消されるまでのその微かな間、サックスはじっとクラーリィの腕を眺めていた。なんだろう、半袖から覗く腕がマッチの橙の光に灯されて、やけに魅力的だった。こう胸の辺りが、じんと熱くなる感じ。少しだけ憂いを秘めたクラーリィの横顔もさることながら、なぜかよく分からないけど剥き出しの腕にときめいてしまう。
 そういえば最近下世話なちょっかいを出していなかったようなとか、この頃ようやく暖かくなってきて露出嫌いのクラーリィがほんの少しだけ肌を晒すようになって、恋人としては嬉しいんだか寂しいんだか複雑だったとか、そんなことを考える。

 雑多な念に囚われているサックスとは対照的に、クラーリィは黙って揺れる炎を眺めていた。魔法で作り出すものとは違う、頼りないけれど温度の感じられる暖色の光。真っ暗な部屋の中、頼る灯りがこれだけとは随分心細いはずなのに、クラーリィはちっとも寂しいとは思わなかった。
 それはたぶん、一人ではないから。隣に座るサックスは思い出したように「綺麗だよね」と呟く。
「匂い付きってのがこいつの売りのポイントの一つだった気がしたんだけど、分かるのは最初だけで、すぐ鼻が慣れちゃってあんまり分からなくなるね。大人しい匂いで好印象でしたみたいなこと言ったらどうだろう」
 はっと現実に呼び戻される。若干慌てて視線をやると、サックスはまじまじと蝋燭を眺めていた。
「……うん。いや、……気が利くなおまえ……」
「例のご婦人に伝える感想捻ってよって、おまえの顔に書いてあったもんだから」
 当たり、とクラーリィは頷いた。
「あと、そーだなあ、心が落ち着きましたとか? 普段こんな、じっと暗闇に蹲ってるなんてないし、たまにはこういう非現実的な雰囲気に浸ってみるのもいいよね。即物的なのもいいけど、雰囲気重視もいいと思うよ俺は。なんつーか、時間の流れが遅くなる気がするし」
 サックスは呑気に「クラーリィと居られる時間が増えちゃう」なんて一人で喜んでいる。

「……普段俺とおまえはこういうことしないよな」
 原因の八割はクラーリィかと思われるが、職務柄忙しい身分なのであまり時間を掛けて何かをするということがない。恋人とこういう雰囲気をわざわざ作るなんてことも滅多にしない。いや、たぶんしたことがない。
「俺は別にしてもいいと思ってるけど、クラーリィ結構嫌がるじゃん。こういうの。嫌がるってか、恥ずかしがってるのか知らんけど」
 クラーリィは静かに頷く。サックスの言葉に間違いはない。たぶん原因は、クラーリィが短気でこういう雰囲気に浸れないからだろう。お互いを探り合っている時間にあまり魅力を感じない。十の時間を掛けて手を握るより、三の時間で肩を寄せたい。
 前言を撤回しよう。職務柄なんていうのは言い訳で、単にクラーリィの性格なのだと思われる。

 しばらくぼうっとしていると、黙って隣のサックスが目を擦りだした。程よい暗さに加えやけに落ち着いたこの香り。心地のいい暗闇の住人が手招きをするのも仕方ないというものだろう。
 それを見たクラーリィはごく自然にサックスに寄り掛かった。寄り掛かられたサックスは黙ってクラーリィの肩に頭を乗せる。彼ははじめ真面目な顔をしていたものの、すぐに耐えきれなくなって笑い出した。
「なに、素直」
「同意の気持ちを表しただけだろ」
 同じく眠いし、とクラーリィは小さく呟く。今日も一日よく働いたものだ。二回ほどサックスを怒鳴り付けたような記憶があるが、その辺物わかりのいいサックスはきちんと水に流してくれただろう。……たぶん。
「クラーリィが寄り掛かってきたよ〜」
「照れるなよ」
「だって」とサックスが返す。そして続きを言う代わりに、少しふらついた手つきでクラーリィに手を回す。
 恋人を引き寄せたサックスは、抵抗するわけでもなく黙ったままのクラーリィの首筋に顔を埋め、それは幸せそうに息を吐いた。
「……」
 クラーリィの右手が僅かに持ち上げられる。何度か浮いては沈みを繰り返したあと、その手はそろそろとサックスの背に回された。腫れ物を触るかのような緩慢な動きで、顔を埋めたきり動かないサックスの背をさする。己の不器用な指の先、微かに伝わる熱が言葉に代わりこの想いを伝えてくれるようにと。

 サックスが小さく声をあげた。クラーリィは黙って顔をしかめる。この体勢でサックスに話されるとどうしても首筋に息が掛かって、くすぐったいにも程がある。
「せ、石鹸の香り!」
「そうだな」と一言、クラーリィは返した。
 サックスを呼ぶ直前に風呂に入ったのだから別段おかしくはないだろう。もっともサックスの妙にオーバーな喜びようは、厳密にはこれが原因ではないと思われる。
「石鹸の匂い〜」
「……そうだな」
 抱きつかれて上手く身動きの取れないクラーリィは、大人しくサックスの背に手を回したままじっとしている。恥ずかしさが勝り、声を掛けられた時にその拍子で背をさするのはやめてしまった。
「や、なんか、とっても嬉しいんですけど!」
「おまえが使えって寄越したんだろ。飾っとくなとも言ったな」
 サックスは律儀にも、己が誕生日に贈った石鹸の香りをしっかり覚えていたらしい。
「言ったけど……まさかほんとに使って貰えるとは思ってなくて俺……」
 クラーリィが居心地悪そうに咳払いしたので、サックスは素直に恋人を開放する。大方サックスの反応が予想外に大きくて照れ臭くなったのだろう。
「俺の鑑識眼は正しかった! 似合うよクラーリィ。……あ、匂いだから鑑識ハナかな」
 まあいいや、とサックスは呟く。
「プレゼントした石鹸くんが報われるってもんよ。どうだった、使いやすさの方は?」
「普通」
「じゃ日常使いには問題ないってことね。よかったよかった」
 クラーリィはそっとサックスを見やる。たった一言の返事をここまでポジティブに捉えられ、おまけにちゃんとクラーリィの言いたかったことを言い当てているという点で、彼の右に出る者はいないと思う。
 そんなサックスは暫くしてようやく見られていることに気付いたようで、不思議そうに首を傾げた。
「ん?」
「いや、別に」
 クラーリィはとっさに首を振る。サックスはじっとクラーリィの顔を覗き込んだが、すぐに諦めて首を元に戻した。

 いつの間にやら蝋燭の灯は随分と寂しいものになっていた。この様子だとものの数分で燃え尽きるだろう。
「もうちょっとしたら真っ暗だよ」
「そうだな」
「それ本日三回目。もうちょっとバリエーションちょうだい」
 そんなもん数えるな、とクラーリィは呟く。
「俺はこのまま寝る。そのために風呂にあらかじめ入っておいた」
「……ふーん。ふーん」
 どういう切り返しが望ましいのか、相変わらずサックスは迷っているらしい。クラーリィとて余程おかしな事を言わない限りは怒ったりしないのだから、潔く思っていることを言ってしまえばよいのに。今日のサックスはやけに慎重だ。
「おまえはどうするんだ」
「俺? んんーお風呂に入らないと寝られないし……お風呂借りてってもよいかしら」
「『借りてって』?」
 クラーリィの突っ込みどころが不可解だったらしく、サックスはクラーリィの様子を伺っている。
「……えと、お風呂以外にも何か貸して貰えたりする? 主にきみのベッドの面積半分とか」
 そしたら「借りてって」じゃなくて「借りて」に直すねとサックスは言った。
 サックスの読みは当たりだ。借りてそのまま帰る旨の発言がクラーリィのお気に召さなかったことを、サックスはずばり言い当てた。
 ぱちぱち、クラーリィは控えめに拍手を送る。
「クラーリィそういう謎掛けみたいの止めてよ。肝っ玉が冷えるよ」
「それでこそ俺の恋人だ」
 今日のクラーリィはやけに素直じゃないか、と顔を真っ赤にしたサックスが呟く。
「……くっそ、くそー人をときめかせやがって! お風呂借りるからね!」
 サックスは立ち上がった。蝋燭は少し前にその役目を果たし終えていて、部屋は真っ暗。風呂場へ向かうサックスの足しになればと、クラーリィはデスクライトを点ける。
 人工的な白い灯りに照らされたサックスの背中はすぐに、浴室へと続くドアに吸い込まれていった。

 クラーリィは黙々と机の上を片付ける。
 わざわざ呼びつけて、貰った石鹸を使って体まで洗っといてやったのに。素で帰ろうとするとか、抱きついたはいいけどそのまま動かなくなるとか、もう一押し。あと一押し足りないんじゃないだろうか。
 マッチの燃えかすやら溶けた蝋燭の残骸やらをひとまとめにする。陶器のほうはまだ使えそうだ、使う機会が訪れる可能性は低い気がするが、一応貰い物であることだし、少なくともしばらくは飾っておこう。
 自然とため息が溢れてしまう。
 たぶん、いや確実に、サックスのああいう態度の原因は己。普段はつれない振りをしていて、いざという時に限って全てお任せというのは都合が良すぎるとしか言い様がない。サックスはこういう時でも普段通り、「常に」あまりやる気のないクラーリィに合わせて機会を窺っているだけなのだ。今日は機嫌がいいからおいで、なんてクラーリィにだけ都合の良い希望は通らない。
 そうしたいと願う何かがあるのならば、クラーリィから身を乗り出して主張しなければ。いい加減優しい恋人に甘えるのは止めよう、とクラーリィは独りごちる。こうしてまた一つ年を取ったことだし。今年一年の抱負は「己の欲を主張すること」にでもしようか。
 あらかた片付け終わったので、クラーリィはとぼとぼと寝室に向かう。部屋の奥の方から、微かな水音が聞こえてきた。たぶんシャワーの音。どうせ使うだろうと思って、バスタオルもサックスが置いたままにしてある寝間着もきちんとひとまとめにして置いておいたのだ。ありがたく使うがいいだろう。



 バスタオルやら寝間着やらが用意されていた事実に感激したサックスが、そろそろと寝室へやって来た。部屋は、枕元の小さな明かりが付いている以外は真っ暗になっている。
 ベッドの上にちょうど人一人分くらいの山。クラーリィは既に布団にくるまって就寝してしまったらしい。足音をなるたけ立てないようにサックスは近づいた。クラーリィは布団から頭だけ出して目を瞑っている。前言通り、彼は律儀にベッド半分に綺麗に収まっていた。
 微かな呼吸音に応じて、布団が緩やかに上下を繰り返している。瞑られた目の上に前髪がかかって、ほんのり朱に染まる目元を上手く隠す。布団の端から少しだけ覗く指先がサックスの心を刺激した。何かを掴みかけているかのようなその形。恐らくはもう夢の中のクラーリィだ、いったい何を得ようとしているのやら。
(お邪魔しますよ)
 サックスはそろそろとベッドに潜り込む。起こさないように起こさないようにと念じた結果、うまくいったようでクラーリィはぴくりとも動かなかった。
 流石に大の男二人が入り込むと、ダブルといえどベッドが狭い。あんまり寝返りを打たないように頑張ろう、とサックスは心に言い聞かせる。
(……おやすみ。おやすみ、良い夢を)
 起こしては悪いと思いつつ、欲求に負けてサックスはそろそろとその手を伸ばした。その頬に触れて、髪を除けて、眠っているクラーリィの表情を伺う。
 いつもと同じ、何の変哲もないただの寝顔。
 そして、サックスの恋人の寝顔。
(大丈夫かな。起きちゃうかな……)
 サックスは手を伸ばす。何かを掴もうとして空を掴んでいるクラーリィの手のひらに指を沿わす。
 何を掴もうとしているのか知らないが、たぶん虚空を握っているより幾分かサックスの手を握っていた方が幸福だと思う。
 少しだけ力を込めた。寝ているはずのクラーリィが、ぎゅっとサックスのその手を握り返す。理由もなく、なぜか酷く安心した。手のひらを通じて伝わるクラーリィの体温が、サックスを急速に安眠へと導く。
 彼はすぐに眠りに落ちていった。


 ***


「……バカじゃないのか」
 目覚めたクラーリィの目の前にサックス。そして、なぜかサックスの手を握っている己の右手。
 がっしり掴まれた手は、クラーリィ一人では解けそうにない。しかし今も尚完璧に寝ているサックスを起こすのは忍びない。なにせ彼は、それは幸せな顔をして寝ているのだから。
「バカ面晒して寝やがって……この甲斐性なし」
 今回に限っては、サックスを待ちくたびれて寝入ってしまった自分にも落ち度はあるだろうが、クラーリィはじっと眠っているサックスの顔を眺める。
「遅刻するよ、サックス」
 空いた左手でクラーリィはサックスの前髪をつんつんと軽く引っ張ってみた。サックスは起きない。
「二度寝しちまうぞ。遅刻したらおまえにも責任が……」
 言い切らないうちに、まあいいか、なんてクラーリィは呟く。ギリギリ出勤は趣味ではないが、たまにはそれもいいだろう。もう少しだけ、もう少し、恋人のすぐ側で惰眠を貪っていたい。
 クラーリィはぐりぐりとサックスの胸元に顔を埋めた。素晴らしいかな、彼はそれでも起きない。
「あと……あと十分。あと十分だけ」
 どうせあと十分もすれば目覚ましが盛大に騒ぎ出す。そうしたら流石のサックスも目覚めるだろう、二人で揃って出勤なんてのもいい。どうせ誰も「相変わらず仲が良いな」くらいにしか思わないだろうから。
 すぐ近くにサックスの寝息が聞こえる。クラーリィは深呼吸を一度、快い惰眠を貪るべく、ゆっくりと目を瞑った。


 ***END



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