ぷよった。



 ***


 最近ちょっと太ったような気がする。
 というのも、引っ張り出してきた冬物のズボンがなぜか妙にきつくて、主にお腹のあたりに不自然な圧迫感。測ってないから分からないけど、たぶん去年に比べてだいぶ柔らかになってると思う。
 うん、ちょっとお腹が主に太った。
 そして、早くも次の日にクラーリィに気付かれた。
「あ、サックスなにおまえ、ぷよった?」
「や、やめてよ何それ『太った?』ってストレートに聞かれるよかダメージくるよ」
「うっわーズボンかわいそう」
 ぴっちりしたサックスのお腹あたりを指差してクラーリィは笑っている。いつもならテコでもなかなか動かない癖に、こういうときだけすっくと立ち上がってサックスの方へとやって来る。
「なになに、だめだよお触りは禁止だよ、触り賃取るよクラーリィちょっとこらもー!!」
 サックスの制止なぞ聞く気は端からないらしく、クラーリィは遠慮なくサックスの腹の辺りに手を伸ばした。無論サックスは逃げる。クラーリィがそれを追い掛ける。

 この二人の追いかけっこの勝者は常にクラーリィと決まっている。五分程度の奮闘の末、例外なく敗北したサックスはソファに倒れて項垂れていた。
 そしてその横で、随分とご機嫌の様子のクラーリィがサックスの腹をつまんでいる。
「あーあ、おまえほんとぷよっちゃって。食い過ぎ?」
「遠征量の減少が原因だと思われます、大神官様」
 最近あまり飛ばされなくなったのでサックスの運動量が減った。ただでさえ人使いの荒いクラーリィに幼馴染みにして恋人・サックスへの遠慮は一切なく、ただひたすらに遠方から遠方へと飛ばされていたものの、最近はどういう心変わりかあまり僻地への遠征はなくなり、代わりに内勤の職務が増えた。顎で使われていることに代わりはないが、消費する熱量はだいぶ違う。なのに取っている食事は全く変わらなかったためにこんな事態になってしまったのだろう。
 ひとえに悲しい。クラーリィが若干喜んでいることが尚のこと悲しい。
「なに、折角内勤増やしてやったのに外勤の方がいいのかおまえ」
「そーんなことございませんよ滅相もない。毎日クラーリィの顔を拝めるに値する幸福なんてほかにあるわけないでしょ。俺はただ理由を述べたまででありまして」
 ぐい、とクラーリィが力を入れて腹をつまむ。サックスが「ひぃ」と金切り声を上げる。
「いてて痛いっ」
「なんかむかついた。理由が分かってるなら改善する努力をしろよ」
「するよ。だって気付いたの昨日だもん。これからするよ」
 大丈夫、頑張るから、とサックスは続けた。サックスの腹に贅肉がたまっていようがあまりクラーリィに迷惑がかかることはないだろうが、恋人の口から「改善しろ」とのお言葉を承ったのでそのように努力することが決定した。隣に並んで恥ずかしくない男になろうと心に決めて早十年、をすらかなり昔に通過しているサックスだが、未だ満足のいく結果を得られていない。これならいいかな、なんていう妥協点も見つからない。向上心があっていいなんていうのは表面的な話で、この点クラーリィは随分サックスに優しいと思う。
 お、クラーリィのいいところまためっけ。

「取り敢えず来週飛ばされてみるか? 久しぶりに」
「げぇっ、早速!?」
 早速先程の賛辞を取り消したくなったが、サックスが見るにクラーリィは別段嫌がらせがしたくて言っているわけではない様子。安易に非難するのは止めておこうと思った。
「なんだ遠慮するなよ。ちょうど困ってたんだ、ちょうどな」
 人手が足りなくてさ、なんてクラーリィは笑う。その間もサックスの贅肉をつまむことだけは忘れていないのだから悲しくて仕方がない。
 別に、人手が足りないなら文句言わずに行くけど、とサックスは漏らした。文句がないわけではないが、己は行きたくないなんて言える立場ではない。
「飛ばすまでいかないけどちょっと出かけてきてくれよ。実のところ明日ちゃんと頼もうと思ってたんだ、今日のコレとは関係なしに」
「一時間に一回連絡頂戴」
 コルちゃんにやってるんでしょ、ついでに俺も、とサックスは言う。クラーリィは鼻で笑った。
「録音自動音声でいいんなら」
「愛が足りないっ」
「サックス、俺はおまえの贅肉をも愛する自信があるが、おまえの将来に渡る健康を心配して言っているんじゃないか。それにあんまり重いとのし掛かられたとき苦しいしな」
 ぐうの音も出ないという言葉はまさにこういうときに使うのだとサックスは思った。案の定クラーリィは勝ち誇ったような顔をしてサックスを眺めている。サックスは謹んで己の先程の言葉を訂正しなくてはならなかった。
「分かりました……」
「おう、行ってこい、行ってこい。ボーナスは特にない」
 べしん、とクラーリィがサックスの背を叩いた。痛い。
「ボーナスはほっぺにちゅうでいいよ」
「やっすいもん頼むな、いいのかおまえ、ボーナス出したら最後だぞ」
 照れるどころかそんなサックスを最大限に利用しようとしている我が恋人・クラーリィは、今日も釣り針の調節がうまい。サックスはいろいろなものを天秤に掛けて、結局クラーリィの貴重な「ちゅう」を諦めることにしてしまった。餌を撒いたのは間違いなく自分なのに、いつの間にやらそれを握っているのはクラーリィなのだからおかしな話だ。
 笑える程に彼にコントロールされている。
「なんだ止めとくのか、『ちゅう』くらいいくらでもくれてやるぞ」
「俺はもう少し俺を大切にしようと思った。次はもう少しおまえが悩むようなレベルのものを頼む」
 ほんの少しだけ困ったような可愛げのあるクラーリィの顔を期待したサックスだったが、現実はその思惑から大幅に外れ、クラーリィは極めてさっぱりと「そんなもんないぞ」と言い放った。
「なくはないでしょ、一つや二つ……」
「おまえが望むなら何だってくれてやるよ。おまえが俺に求めるもので、俺に払えないものなんてほぼないだろう」
 続けてクラーリィは「試してみるか」なんて言ったが、サックスの耳にはあまり届いていなかった。なんだろうこの恰好いい台詞。いっそ自分が惨めに思えてくるほど輝いて眩しくてたまらない。
「照れるなよ。おまえが『愛が足りない』とか文句言うから俺が珍しく喋ってるんじゃねえか」
「あ、もとを正せば俺が悪いんだ。なるほどなるほど」
 たぶん真っ赤になっている頬を隠して、サックスはぐっと目を瞑った。しかしクラーリィは許してくれないようで、まるで当然とでもいう口調で訴追を続ける。
「おまえが『愛が足りない』とか言うのは、ひとえにおまえがいつもそういうくだらねぇことしか見返りとして求めないからだ。くだらねぇものしか要求しないくせに貰うもんが足りねぇと文句言うバカがここにいる」
「く、くだらねぇとな人のロマンを。まぁいいや、素直に敗北を認めようじゃないか」
 満足したのかクラーリィは鼻で笑った。口は悪いものの、今回悪いのはどうも一方的にサックスのようなので、何か言い返すのはやめておいた。満足げなクラーリィの顔を曇らせる必要性も全くもって見あたらないことだし。


 しばらく世間話に花を咲かせて、いざ帰ろうとサックスが立ち上がったところで珍しくもクラーリィが彼を引き止めた。
「な、なに」
 不意に引っ張られてバランスを崩したサックスは、ソファにもう一度座り込む。クラーリィの顔がすぐ側まで迫っていることに、やけに危機感に似た緊張が走る。
「おまえ今日からこの肉減らす方向でいくんだろ? じゃあ今しかないじゃないか」
「え? え?」
 なに今しかって、とサックスは言ったがその先の文句は喉から上に出ていかなかった。突き飛ばされて半分くらい体が倒れた。そして慌てて起き上がるより先にクラーリィが、えらく幸せそうな顔をしてサックスの腹のあたりに頭を乗せてきた。
 サックスは変なポーズを取って硬直している。
「膝枕。ならぬ、腹枕」
 半ば自棄になって「ぷよっぷよで気持ちいいでしょ」なんて言ってみたが、クラーリィは真面目な顔に戻っていいや、と呟いた。
「ぷよっぷよまでいかねえなあ、ちょっと柔らかい程度だよな。『ぷよ』で充分かな。まあ想定内だ」
 言い返す気力が萎えて、サックスは黙って腹の上にあるクラーリィの頭を撫でた。何がいいのか知らないがやりたいのなら勝手にやればいい、サックスは嫌だとは思わない。こんなことでクラーリィが満足してくれるのなら結構なことだ、それこそいくらでもやって差し上げる。
 覗き込んだクラーリィは、幸せそうな笑みを浮かべたままサックスの上で目を瞑っていた。

 その内クラーリィは寝てしまった。仕方なくサックスはなるべく己に負担のかからない姿勢を取る努力をし、なんとかクラーリィを起こさずに楽な体勢になることに成功した。
(ほっぺたつねっちゃる)
 見返りなんて求めるもんじゃない、とサックスは思った。この奇跡の恋に見返りなんて求めてはいけない。己よりいろいろ多くのものを持っているクラーリィに何か要求すれば、要求した以上のものをクラーリィが寄越してくれることくらいよく分かっていたのに。そして、その度劣等感やら申し訳ない思いやら、そして物品や具体的な行為で満足している己の小ささに哀しみを募らせるばかりだというのに。
 受けたものの大きさや、与えたものの大きさが単純に想いの強さに比例しないことくらい分かっているけれど、もっと欲しい、もっと己のもので彼を満たしたい、そして何よりもっと構って欲しい、という子供じみた独占欲のようなものが未だに心に渦巻いて消えようとしてくれない。
 サックスは目を瞑った。いつか料理の腕を上げて、クラーリィにめいっぱい食べさせて、少しでも腹に贅肉がたまったらここぞとばかりに枕にしてやろう、とまで考えたところで記憶が途切れた。ほんの少しの微睡みがやがて幸福を運んでくるように、目覚めた先もまた平凡な幸福の日々であるように。
 サックスは夢の中、一足先に潜り込んでいるはずのクラーリィを探しに奥へ奥へと潜っていく。


 ***END



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