嘘をつく。・1



 ***


 後ろ姿を見つけた途端心臓が跳ねた。いい加減サックスは心を決めなくてはならない。
 彼の名を呼ぶ。先を一人で歩いていたクラーリィはあっさり振り向いた。なに、と彼は首を傾げる。
「そ、その、つ、……付き合ってくれ」
 クラーリィはやや間を取ったあと、ごくあっさりと「いいよ」と返した。

「えっ?」
「……ごめん、何の話? どういう意味で?」
 二つ返事をしたことにサックスは驚いてしまったらしく、逆に快諾したクラーリィが狼狽えた。快諾してはいけないような問いだったのだろうか、自分はそんなにケチではないからサックスの頼みとあれば大抵のものごとには付き合うつもりでいたが……
「え、あの、ごめんその、……レ、レンアイ的な意味で」
 クラーリィは黙った。取り敢えず、廊下で呼び止めてあっさり言ってしまうような話ではないと思った。

 サックスは幼馴染みたちとのくだらない賭けに負け、その結果彼らの言うことを聞かなくてはならなくなった。未だに王様ゲームなんてものをやっている、腐れ縁のような幼馴染みたち。彼らが提示した案はごく簡単、クラーリィに付き合ってくれと言うこと。勿論、買い物にとか生易しい理由付けはダメ。その上でクラーリィから「気持ち悪い」と罵って貰えと彼らは笑った。
 子供染みたくだらない遊びからクラーリィが足を洗って久しい。一人だけ抜きん出た地位を手に入れた彼は、相対的に幼馴染みたちより忙しくなり、一人だけ遊びに加わってくれなくなった。幼い頃から家族のように身を寄せ合って生きてきた友人だ、構ってくれなくなったことが純粋に寂しい。そして未だ幼い気分の抜けない友人たちは、随分と子供っぽい手段でクラーリィを呼び戻そうとした。無理矢理にでも巻き込んでしまえば、怒るという形態であれこの輪の中に再び混ざってくれると考えたからだ。

「……別にいいんじゃない?」
 確かに先程のサックスの台詞を聞いたはずのクラーリィは、その顔にやや落胆すら乗せて呟いた。サックスは目を丸くする。
「え!? え、え、えっとその、」
「サックス……場所を選ぼうぜ」
 サックスの動揺をよそに、クラーリィは落ち着いていた。落ち着き払っていた、と表現した方が正しいかもしれない。振り向いた姿勢のまま、据わった目でサックスのことを眺め、淡々と言葉を続ける。
「そういうこと言うなら、ちゃんと場所と時間を選んで俺を呼び出さなきゃダメなんだぜ。雰囲気って重要なんだ。雰囲気に流されるってパターンもあるだろ。だからおまえいつになっても恋人できないんだよ」
 クラーリィは申し訳なさそうな顔すらしてサックスの落ち度を指摘する。返事に迷ったサックスは項垂れていた。確かに、クラーリィの指摘は当たっているかもしれない。簡単に言うと空気が読めていないんだと思う。
「俺はおまえがどっか行きたいから誘ったのかと思って、すぐ『いいよ』って言ったんだけど」
「……けど?」
 サックスは顔を上げた。なんとなく、続く言葉があるような切り方をした。クラーリィはなんとも形容しがたい顔をして、サックスを眺めている。
 クラーリィは少し眉を顰めると「これ以上廊下で話していたくない」と呟いた。

 流れでクラーリィの自室に移動することになってしまった。お説教でも喰らうのだろうか、とサックスは気を揉んでいる。くだらないことに俺を巻き込むなとか、いつまで馬鹿げたことをやっているんだとか、真っ当に大神官業をこなしているクラーリィが言える文句の数は多い。所詮彼の部下に過ぎないサックス以下幼馴染みたちが、上司であるクラーリィに向かって構ってくれなくて寂しいなんて言うのは身の程を知らないにも程がある。
 それともサックスは、先程のクラーリィの「いいんじゃない?」という曖昧な返答を、ごく真面目に許諾と捉えなくてはならないのだろうか。だとしたら尚更まずい。
 久しぶりに入った気のするクラーリィの部屋は、記憶と比べていくらかものの配置が変わっていた。入れよ、と言われたもののサックスはその入り口で固まっている。
 彼に悪いことをしているという意識が確かにある。なのにずかずか彼の私室に入っていけるほど、サックスの神経は太くない。
「……サックス?」
 入らないのか、変な遠慮をするなよ、なんてクラーリィ。サックスはこれ以上足を動かせない言い訳に困った。サックスの先程の言葉が嘘であるとクラーリィは気付いているのだろうか? その上で、あの返答が来たのだろうか? それとも先程のやり取りに「クラーリィの嘘」など一片も混ざっておらず……
 サックス、ともう一度彼は己の名を呼んだ。小首すら傾げて、どうしたんだ、とクラーリィは問い掛ける。サックスは動けなかった。
「……あれ……もしかして、罰ゲームか何かだった」
 サックスは黙っていた。嘘だらけの否定も、たった今彼を傷付けると確信できた肯定も、サックスにできるわけはなかった。
 しかし、重苦しい沈黙は消極的肯定を意味する。じわじわとクラーリィの表情が変わっていくのを、サックスは眺めなくてはならなかった。

 本当に、自分は何をやっているんだろう。二十歳を越えて、未だに愚にもつかぬようなことをやっている。こんな意外な展開を招いてしまうくらいなら、……いいや、この表現は恐らく間違っている。意外? バカバカしい、見ない振りをしていただけで、サックスは既にクラーリィの気持ちに薄々と気付いていた。
 だからこんなにも気が乗らなかったのだ。もっと考えるべきだった。幼馴染みとのくだらない約束は反古にしてもその後いくらでも挽回することができる、でもこの二人の長年保ってきた距離感はそうはいかない。少しでもいい、よく考えればサックスがどちらを優先すべきなのかいかにバカだろうと分かっただろうに。
「ああ……何か……ごめんな」
 目の前のクラーリィは泣きそうな顔をしていたが、やがて俯き、次に顔を上げたときには笑顔になっていた。なあんだ、と不自然にも思える明るい声で彼は笑う。
「おまえが自然な感じで言うから、すっかり騙されちゃったじゃん! 俺のぬか喜び返せよな」
「ク、クラーリィ」
 流石のサックスも「おまえやっぱり」なんて言うほどバカではなかった。ただし、言い掛けはした。それに気付いたのか気付いていないのか、「あーあ!」と明るい声でクラーリィは独り言を言い続けている。
「折角好きになった奴と付き合えると思ったのになー! 残念」
 この胸を刺す感情を罪悪感という。よく幼馴染み連中に「おまえバカだな」なんて言われるが、その比ではない。二人の間で長年保たれてきた感情の橋を崩した。慎重に慎重に、それこそ二桁に到達するような時間を掛けて二人で築いたものを、クラーリィが一生懸命守ってきたものを、サックスが一方的に壊した。
「ほら、今なら許してやるからあっち行けよ。俺かわいそうだわほんと、かわいそう」
 ほら、とクラーリィは小動物でも振り払うかのような手の動き。サックスは動けない。せめて一言謝りたいけれど、軽い謝罪で済まされるようなことでないことも分かっている。
 そしてぐるんぐるんと悩んだ挙げ句、最終的に「ごめん」なんて簡素な言葉を絞り出すので精一杯だった。いつの間にやら下げてしまった顔を上げる訳にはいかない。足下を、己の爪先をじっと見つめて、たった一言。その爪先はテコでも動きそうになかった。
「……そうだな。タダで許すのもあれだし」
「え?」
 咄嗟にサックスは顔を上げる。やけに冷静な声、ぱっと見上げた先には笑顔の消えた無表情のクラーリィ。
「サックスおまえ、女の子とキスしたことは?」
 にじり寄る、という表現が相応しいクラーリィ。サックスはヘビに睨まれた蛙のように、その場に釘付けとなったまま。真摯に見据えてくる緑の瞳がサックスの足を刺しているかのように、動けない。
「な……ない」
「そっか。ごめんな」

 触れたのは一瞬。そして、視界がぼやける寸前に見えたクラーリィの悲しそうな顔も、一瞬。

 クラーリィは軽くサックスを突き飛ばすと、またさっきの貼り付けたような笑顔に戻って「俺の心を弄んだ罰だよバカ。ほら、今度こそ行っちまえ」と笑う。
 サックスはまた「ごめん」と声を絞り出した。足が動かない。握り締めすぎた手が真っ白くなって震えている。
「ご、ごめん、俺」
 動かないサックスに痺れを切らしたのか、クラーリィの表情からまた笑顔が消えた。すっとその顔に不愉快が表れ、文字通りサックスを突き飛ばす。今度は先程のように手加減してくれなかった。サックスは強制的に部屋から追い出される形になる。
「……何流されそうになってんの? キスしたりして悪かったよ」
 ばたん、と鼻先でドアが閉まる。
 突き飛ばされた衝撃ですっころんだサックスはゆっくりと身を起こす。すぐに聞こえてきた板一枚挟んだ泣き声にサックスは何もできなかったし、何か行動を起こす、起こせるような権利はないと思った。


 ***


 翌朝執務室に顔を出したら、クラーリィは随分と腫れぼったい顔をして黙々と書類を読んでいた。サックスは部下らしく「おはようございます」と声を掛けたが、そこから先何かを言うことはなかった。言えるはずもない。
 近寄ってきたサックスに勘づいたのかクラーリィは顔を上げる。無視してくれるのではないかと淡い期待を抱いていたサックスはびくっと立ち止まった。
 窓辺から差す朝日はちょうど二人を分断するように、二人の間だけを照らしている。光のその先、腫れた目をしたクラーリィがサックスを睨み付ける。
「……どうしたのって聞いてくんないの」
 サックスは黙っていた。聞くほど無神経じゃない。サックスは昨日、クラーリィを「泣かせた」ことを知っている。追い出してすぐ、滅多なことでは泣かない彼が声を上げて泣いたことを知っている。泣いた原因が自分にあることを、サックスはよく知っている。
 返事など最初から期待していなかったらしいクラーリィは、サックスを一通り眺めると呆れたように息を吐いた。
「昨日泣き寝入りしたんだ、失恋してさ」
「クラーリィ、俺」
「ずっと好きだったのにさ、神様って酷い」
「……クラーリィ、」
 居たたまれなくなってサックスは彼の言葉を遮る。いつからだったろう、クラーリィの見せる優しさが他人のそれとは違うような気がして、少しだけ他人より優遇してくれるこの状態が何よりも気持ちよくて、素知らぬ振りをしたままクラーリィに甘えていた。何年前からだろう、じわりじわりとサックスの「日常」に組み込まれていったそれは、明確な境界線を持たない。クラーリィの言う「ずっと」がどれほどの長さを持っているのか、サックスには想像することすらできなかった。
 なに、とクラーリィは不愉快そうな声でサックスの制止に答える。
「その、な、泣くなよ」
「誰のせいで一晩泣き通したと思ってんだよ」
 クラーリィの顔に理由もなく「泣きそうな顔」という感想を抱いたサックスはこんなコメントをしたが、それが随分とクラーリィのお気に召さなかったようだった。途端に不愉快を表面に出し、怒りのあまり震える低い声で彼は続ける。
「俺がどれだけ長いこと黙っておまえを好きだったか知ってんのか? おまえは女の子が好きだからずっと黙ってるつもりだったのに、そしたら俺はずっと片想いのままでいられたのに!
 俺があの時どれだけ嬉しかったのかおまえに想像つくのかよ……!」
「ごめん、ごめんなさい」
「もういいもういいよ、話しかけたりして悪かった、放っといてくれ。おまえだって嫌だろ、ほらあっち行けよ」
「……ごめんね」
 椅子に座ったまま顔を伏せたクラーリィにサックスは近付く。そしてそっと肩に触れようとして手を伸ばし、即座に反応したクラーリィの腕に無下に振り払われる。
 クラーリィはサックスを睨んでいた。
「何すんだよ」
「さ、流石大神官。え……えっと……」
 ふらつく中途半端に伸ばされた腕を睨み、クラーリィは舌打ちをした。その手を引っ込めればいい。安っぽい慰めなど要らない。そんなもの慰めにはなりやしない。
 その手が「理由もなく」己に触れることをクラーリィは許さない。
「流されるなと俺は昨日言ったな。何だその顔、同情でもしてくれんのか? 止せよ、俺はおまえみたいなクズに同情されなきゃいけないほど惨めな人生送ってねえよ。可哀想だから優しくしてやろうってか?
 ハッ、反吐が出るね」

 サックスはしばらく困った顔をして黙っていた。クラーリィは怒っている。それは分かる。自分はクラーリィを傷付けた。それも分かっている。
 そしてサックスは、クラーリィに謝りたい。
 今まで築いてきた大切な「幼馴染み」とか「親友」とかいう関係を、更地に戻してしまいたくない。己が思っていたそれとクラーリィが思っていたそれは違うかもしれないけれど、お互いの立っていた場所は決して更地なんてものではなかった。そこには感情があったし、お互いへの思い遣りがあったし、何より金銭には換えられない、もう二度と取り戻すことすら叶わない思い出でいっぱいだった。サックスはそれに大きく傷を付けてしまったかもしれない。けれど、これまで築いてきたものの大きさと価値に賭けて、この傷が修復可能なものであると信じている。
「クラーリィ、俺、謝りたいんだ」
 クラーリィは返事をしなかった。返事を待つ必要はない、サックスは一つ深呼吸をし、壁に掛かった時計を見上げる。朝日を受けて煌めく針が示すのは、まだだいぶ早い時間。もともとクラーリィの様子を伺おうと早めにやって来たのだから余裕があって当然だが、部下からそれぞれ書類を貰い受け、それを纏めて持ってくるパーカスがやって来るまでまだ少し時間がある。
「……なあ、クラーリィ。やっぱり俺たち付き合おうぜ。付き合ってくれ」
「はっ!?」
 流石に反応してくれた。ばっと顔を上げたクラーリィは、単純明快、怒っている。
「罰ゲームの続きをしよう」
「……」
 値踏みするような顔をして、クラーリィは黙っていた。呆れているのか、怒りのあまり頭が真っ白になってしまったのか、それはサックスには分からない。生憎サックスには実力は勿論口で勝てる自信すらないから、彼が黙っているのをいいことに言葉を続ける。
「俺のこと嫌いになった? 悪い話じゃないでしょ」
「おまえに同情されるほど落ちちゃいない、と俺は言ったな」
「同情じゃないよ。ただ単に、あいつらに『罰ゲームやらなかったな』って言われるのが癪なだけ。だからしばらく俺の恋人として振る舞ってよ」
 クラーリィはサックスの言葉の真意を探ろうと、怪訝な顔をして黙り込む。サックスは呑気な声で「デートとかしよう」と続けた。
 何となく分かっている。サックスは何となく知っている。クラーリィは己のどういうところが好きなのか。自分がどういう言い方をすると、クラーリィが好意的に受け止めて同意してくれるのか。
 我ながら残酷な話だなんて感想をサックスは抱いたが、同じ意見をクラーリィも持ったようで「おまえ残酷だな」と淡々と言われた。
「……気持ちの伴わないそれを俺が喜ぶとでも思ってるのか」
 サックスは黙って首を振った。
「じゃあ……じゃあ嫌だよ。なんでこんな、辛い思いして薄っぺらい演技をしなきゃいけないんだよ」
「……そのうち本物になるかな、とか思って」
「は?」
「よくあるじゃんそういうの。まあ主に小説とかそういうのの中身で、だけど」
「おまえ、自分が今どれだけ無責任なこと言ってるか分かってんのか」
「分かってるよ。分かった上で提案してる。俺もね、大事にとっといた初キス奪われて悔しいんだ!」
 クラーリィは一瞬目を丸くした後、ばつの悪そうな顔をしてそっぽを向いた。「死ねっ」とかいう微かな罵倒が聞こえてきたが、聞こえなかったと弁解できる程度の小声だったからサックスは知らん振りをすることにした。
「いいじゃん、俺とデートとか。案外楽しいかもよ。あいつらに自慢しよーぜ。驚くぜあいつら」
「……おまえそういえば負けず嫌いだったな。俺に勝てないって分かってるのに負けを認めないし。
 何考えてんの? いくら悔しいからって、好きでもない俺とそんなことして楽しいのか? 趣味でもない男に好きって言われて嬉しいのか?」
「ん? 俺はー……今まで誰かに面と向かって『好き』って言って貰ったことがないから、おまえに好かれてるというのは若干嬉しいけど?」
 クラーリィは一度目を伏せ、何度か視線を泳がせた。しかしやがて意を決したのか、視線がサックスへと戻ってくる。残念なことに先程のような強い感情はもう見えなくなってしまっていた。普段通り、いつも通り、その感情の薄い顔の下で何かを考えかつ隠している。
「俺はもう二度と謝らない。もう悪いとも思ってない」
「あれって謝った内に入るわけ? ……まあいいや。な、それよりクラーリィ、おまえ俺のこと好きなんじゃないの? 絶好のチャンスじゃん。この機会にサックスを振り向かせてやるぞーみたいな気概は、ないんかね」
 クラーリィは黙る。つまり、即答の「はい」でも「いいえ」でもない、という返答。
「普段泣いたりしないのにさー、あんな風に泣かれると心が揺らぐんだよね。庇護欲? っていうかさ。おまえが俺より強くなってからこの方忘れてた感覚っていうか……悪いことしたなって思うし、俺が一方的に悪いわけだから俺が何とかしなきゃって思うし」
 ふと真顔になったクラーリィが、サックスの名を呼んだ。
「はい」
「……す、好きです。付き合って下さい」

 一瞬目を丸くして黙り込んだサックスは、すぐに明るい顔になって「わー」なんて呑気な声を出す。手を叩くのは流石に踏み止まった。
「わーわー初めて言われた、小説みたいな台詞」
 クラーリィは少し赤くなった顔を隠すように頬に手を当て、おまえもてないよな、と味気ない感想を漏らす。
「おまえはもてるのにこういうダメ人間に惚れるんだな」
 机に肘を付き、やや上目遣いでサックスを見上げるクラーリィは、困ったような顔をして「いいや」と小さく呟いた。
「……サックスは優しいよ。おまえしか気付いてくれないことって、結構あるし……」
「もっと言って!」
 調子に乗ったサックスに対し、クラーリィは「やだ」と即答した。遂に彼は両手で顔を覆う。
 クラーリィが己のことを褒めてくれるなんて珍しい。ましてや、ここまで手放しで褒めてくれることなんて数えられるほどしかない。いや、厳密にはなかったかもしれない。
 サックスにしてみればこんな滅多にない機会、もう少し堪能していたかったのだが仕方がない。クラーリィは先程の問い掛けに対する返事をずっと待っている。それこそ、精神を擂り潰すかのような気持ちでサックスの短い言葉を待っている。
 サックスは「いいんじゃない?」と言ったが、ぱっと顔を上げたクラーリィに睨まれた。彼は慌てて言い直す。
「分かった、ごめんごめんて、怒らないで。昨日のおまえの真似しただけじゃない! ……よろしくお願いします」
 うん、なんて随分控えめな返事。クラーリィはまた顔を隠す作業に戻ってしまった。
「……あの、クラーリィ君」
「何だよ」
「あっ、えーと、……まずはお手柔らかに……最初っからハードSMみたいのは流石のサックス君も無理よ」
「そんなことしねえよ、おまえ俺を何だと思ってるんだよ朝っぱらから」
「あ、ご、ごめんね」
 ふへへ、なんて変な声で笑ったら釣られてクラーリィも笑った。ようやくクラーリィが笑った。
「そうと決まったら今週末は早速デートだぜ! 元凶のあいつらと約束してた気がしたけどいーや、キャンセルしよ。な、クラーリィ、行こうぜ」
「……楽しみにする」
「うむ! そうそう、素直な方がかわいいんだぞ、クラーリィ」
 クラーリィは返事をしなかった。サックスは「死ね」とか酷いことを言われるんじゃないかと思っていただけに、少し意外。そっぽを向いて、彼は黙っている。

 そろそろパーカスが顔を出す時分だろうか。サックスは部屋を見渡すと、その辺に転がっていたタオルを持って洗面台に向かった。クラーリィがじっと背中を見つめている気配に気付いたが敢えて何の反応もせず、黙々とおしぼりを作成して戻ってくる。
 そして、邪気の抜けた顔で見上げてくるクラーリィに「はい」と手渡す。
「なに?」
「顔拭きなよ、パーカス来るよ」
「……どうも」
 パーカスが来るまでデートの計画練ってようぜ、なんて呑気な事をサックスが言う。腫れぼったい目をごしごし擦りながら、バカ仕事に戻れ昼休みにやれよとクラーリィが呟く。
 平日朝早く。外はいい天気、差す朝日が部屋を黙々と暖めている。窓から外を伺えば、たぶん出勤してくる大量のクラーリィの部下たちが見えることだろう。
 隠し事なんてのも偶にはいい。いい選択をしたと胸を張ることは今のサックスにはできないが、相変わらず丸くなって顔をごしごしやっているクラーリィを眺めるに、これはこれで良い収まり方をしたのではないかと相変わらず呑気に物事を考えている。



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