逃避



 ***


 呼び止められて振り向いたら、開口一番「結婚してくれ」と言われた。
 脈絡もなく突っ込みどころありまくりだったが取り敢えず「誰と?」と聞き返した。相手は「無論私と」と言い返してきた。
 頭おかしいんじゃないのか、と思いながらも今度は「誰が?」と聞く。相手は真顔のまま「おまえが私と」と言った。
 俺は一度深呼吸をすると、十点満点を付けたくなるほどに見事な九十度お辞儀を披露して「お断りします」と確かに言った。本当は頭の一つでも殴ってやりたかったが、これ以上馬鹿になられると困るので何もしなかった。いろいろとあまりにも面倒だったので、相手の顔は見ずにそのまま走って逃げた。

 ところが翌朝出勤するなり部下たちに次々「お幸せに」とか「おめでとうございます」とか涙目で言われ、挙げ句パーカスにまで「幸せにならないと許さんからな」と大泣きしながら言われた。

 なのでこの俺クラーリィは、今割と本気で恋人・シコードをいっそ亡き者にしてやりたいと考えている。


 ***


 思えばあの時「別にいいよ」なんて変な返事をしてしまったのがいけなかった。
 弁解しておこう。人にごく真面目に「好きだ」と言われたのは初めてだった。真顔で「愛してる」なんて言われたらいくら相手が男だろうが少しは心が揺らぐよな? 反論は認めないぞ。
 今考えるにあの時の俺はあまりにも浅はかだったが、とにかく嬉しかったし、余程のことがない限り自分で自分の身を守れるだけの実力を持つ俺に向かって自信満々「守ってやる」なんて言う度胸があることも素晴らしく思えた。
 不安と期待の入り交じる顔をして俺の返事をひたすらに待っているシコードがやや可愛くすら思えて、俺は一言「別にいいよ」とか言ってしまった。別にいいよ、おまえが俺に好意を持っていても。俺は今のところおまえに好意らしきものは抱いていないけれど、待ってくれるのならそれが双方向のものとなるよう努力する気はある。
 誓って言う、その時は本当に俺にシコードに対する好意らしきものはなかった。どちらかというと、グローリアという国に付随するあまり良くない印象しかなかった。だが同時に「相手側を理解しようとする気持ち」や「彼を好きになろうとする気持ち」のようなものも確かにあって、俺はその後も結構な時間を掛けて極力そうなるよう努力したつもりだ。
 ただ、他に手段がなくなるまで思い詰めた末にとうとう俺に告白してしまったに違いないシコードからすると、俺のそういう努力は微々たるものに過ぎず、亀の歩みの如く見ていてイライラするものであったのだとは思う。簡単に言えば俺の歩み寄りを待ち切れなくなったのだろう。
 かといってこの行動は納得しかねるが。


「謝るからパーカスたちに掛けた変な魔法を解いてくれ……」
 この通りだ、とクラーリィが項垂れる。今日一日仕事に支障が出まくって大変だった。明日までこの状態であるのならば大変に困る。
 しかし今回の騒動の犯人・シコードは相変わらず真顔で首を振った。
「この結婚届にサインして血判押したら」
 クラーリィは黙って頭を抱えた。この男の冗談と本気の境界がクラーリィには分からない。最近ようやく分かったことのうちの一つ、シコードは冗談だろうが真面目な話だろうが全部同じ顔で喋ること。
 昨日のアレを本気に取らなかったらこれだ。昨日の唐突な「結婚してくれ」はかなりシコードの本気寄りだったらしいが、クラーリィにはどう考えても冗談にしか思えなかった。男同士だぞ? 国籍も違う。お互い重い役職がくっついている。そんな気軽に「はい分かりました」と言えるようなものではない。

 クラーリィは再三魔法を解いてくれと頼み込む。しかしシコードは「この結婚届にサインすれば解いてやる」の一点張りで、ちっとも解いてくれそうにない。
 一応まともな書類だ。しかもグローリア式、スフォルツェンド式両方揃っている。法的なあれこれはよく分からないが、たぶんクラーリィがサインをして役所に届ければきちんと成立する。
 しかも、こっそり変な魔法まで紙に組み込んである。変な、というか、ある意味気持ち悪い、というか。恐らく隠す気はないからこそこうやってクラーリィの目の前でヒラヒラさせているのだと思われるが、何にせよ命と引き替えでもない限り破ることのできない強力な呪縛付きの血判結婚届なんてロマンの欠片もない代物だ。
 これだけ綿密に重厚に魔法を組み込むのに何日掛かったのだか知らないが、シコードは随分お暇な生活をなされているようだ。その時間を使ってもっと別のことをすれば良かったような気がするが、とにかく「本気」であることがよく分かるだけの重さがこの薄い紙には込められている。ゆえに、クラーリィといえど容易に解除することは叶わない。せめてパーカスたちに掛けられた魔法だけでも解除できればだいぶ事は優勢に進んだろうが、それも叶いそうにない。
 この状況、多くの部下やこれまで何かとクラーリィの面倒を見てくれたパーカスを盾に取られているに近い。いっそ殴ってしまいたい、目の前の馬鹿男。

 両国の用紙を揃えてきたということはクラーリィに提出する国を選択させてくれるつもりなのか、それとも呪縛付きの血判がゆえに役所に提出なんて考えはなく、ただお互いが一枚ずつ持てばよいという精神の元の二枚なのか。
 どちらにせよシコードは頑なにクラーリィの要望を拒否していて、忌まわしい呪い付きの結婚届を今もクラーリィの目の前でヒラヒラさせている。
「シコード。頼むよ」
「では私も頼む。サインしてくれ。そしてぽちっと血判を押してくれるだけでいい」
 ほらほらと催眠療法が如く随分気軽に紙を振っているが、脅迫されているクラーリィ側が心配になるほどそれは気軽に振り回せるものではない。クラーリィはぶんぶん首を振った。
「そんな簡単にそんなもの押せるか。ぽちっと気軽に俺の魂まで呪縛する気なのか」
「何だ気付いてたのか。とっととサインしてしまえば良かったものを」
「そりゃあ気付く、俺を馬鹿にしてるのか? その紙からふよふよ気持ち悪い魔力が漂ってきてるじゃないか」
 頼むよ、とクラーリィは繰り返す。サインをすれば一見解決するが、シコードが心の底から本気だろうが何だろうが、こんな唐突に魂を売り渡すような契約を結ぶことはクラーリィにはできない。
 パーカスには昔から面倒を見て貰っていたんだ、老体なのに魔法で操るなんてかわいそうだ、と揺さぶりに出てみたがのれんに腕押しだった。クラーリィの訴えを一通り聞いた後、シコードは全く同じ調子と表情で「ほら」と急かす。
 一応は聞く素振りを見せていたが、恐らくは右から左でちっとも聞いていなかったに違いない。
「……人の話聞いてないな」
「聞く気がないからな」
「いいかシコード、これは脅迫だぞ」
 恋人にそんな真似するんじゃない、という論調で諭そうとしたクラーリィだったが、ふと口を閉ざす。すっとその顔から「不真面目」が消えていく。
 己を見るシコードの視線。いくら表情が変わらないと言ってもこれくらいは分かる、背筋が凍るほどに込められた、一見静かな水面下の波打つ感情の蠢き。冗談めいたクラーリィの言葉こそ本質を表すかのような、少しばかり冷えたそれ。
 クラーリィの台詞にも一切動揺する気配を見せず、シコードは勿論否定もしない。そして次の一言が、何より酷い決定打になった。
「ああそうとも、私はおまえの大切な部下やらを盾に脅迫しているんだよ。分かっているじゃないか。聡明なおまえ様ならばこの先何をしなければいけないのかも、分かると思うのだが?」

 一番に「まずい」とクラーリィは思った。次に「どうしよう」と悲鳴に近い声が頭の中をぐるぐる回った。
 黙り込んだクラーリィを、シコードは「私は『お願い』なんて一度もしてない」と突き放す。その全くもって真摯な瞳が、冗談なんて言っていないという無言のうちの圧力が、ただひたすらにクラーリィを追い詰める。
 ここまできてようやく、クラーリィはこの状況が考えていたよりももっと深刻なものであることに気付いたのだった。駄々を捏ねていればいつか魔法を解いてくれるだろうなんて考えは甘い。最終手段を簡単に引っ込める馬鹿はいない。冗談のように見えるこれらの遣り取りもシコードなりのオブラートに過ぎず、肝心の包まれているものは洒落にならないほど深刻な代物だ。
 クラーリィがこの世で一番大事にしている妹を巻き込まなかった辺りがシコードに残った僅かな優しさなのだろう。彼のしようとしていることは、コルを盾にクラーリィを脅すことと本質で違いはない。その方がより早くクラーリィにサインさせられたろうに、恐らくは真実クラーリィを愛しているが故にシコードがその手段を選ぶことはなかった。

 馬鹿は俺の方か、なんてクラーリィは呟く。
「私はおまえを愚かと罵るつもりはないが」
 シコードは続けて相変わらず随分冷静な声で「おまえは私を罵ってもいい」と言う。
「いい加減私は待つことに疲れた。中途半端な貴様を見ていることにも飽きてしまった。元々浮動因子を残しておくのは好きじゃないんだ。
 いいかクラーリィ、おまえは誰にも渡さない、たとえ国だろうがおまえの主だろうが誰にも何にもだ。文字通り骨の髄まで愛することを誓ってやる。魂どころか貴様の髪の毛一本、誰にだって渡してたまるものか。
 諦めろ、あの時みたいに気軽に『別にいいよ』とサインしてしまえばいいじゃないか。深く考える必要はない、流されてしまえばいい、責任は全て私が取る。おまえは死ぬまで『あの時無理矢理シコードが』と文句を言っていればよろしい」
「……おまえは俺を好きだとか愛してるとか宣うくせに、俺の自由意志を尊重しない」
 酷い独占欲の塊だとクラーリィは思ったが、今更言う気にはなれなかった。恐らく本人にもそれなりの自覚はあるだろうし、その芽は割と昔から見えていた。今更言ったところで詮無き話だとしか思えない。どちらかといえば、ここまで発酵させてしまったクラーリィの方が悪いのだ。全ての発端は真剣なシコードに対するクラーリィの「別にいいよ」なんていう適当な返答に相違ない。

 クラーリィは諦めてソファに座った。何を言おうがシコードが己の話に耳を傾けることはない。永遠にない。説得できるラインはいつかどこかで飛び越えてしまい、今更後戻りは叶わない。クラーリィは彼と同じ目線に立って説得しようとしていたことが急に馬鹿馬鹿しくなってその場を離れた。
 どっかり座り込んで、大きくため息をつく。シコードがとことこ寄ってきて、やっぱり紙を気軽にヒラヒラさせる。
「覚悟は決まったか?」
 クラーリィの意見を聞く気なんて最初から微塵にもなかったシコードは、ややにこやかな雰囲気すら漂わせて隣にちょこんと収まった。目の前の小さな丸テーブルに紙を二枚ひらりと置くと「どうぞ」と呟く。いつの間にやら万年筆まで出現していた。
 橙のデスクライトに照らされる、机とペンとたった二枚のクラーリィの魂をも縛る紙切れ。
 紙面を眺める。恐らく世界中の多くの人が、希望と共に眺めるであろう無機質な文面。既に記入済みのシコードの少し固めの筆跡を、意味もなくじっと眺めてみたりする。どんな気持ちで書き込んでいたのだろう。たぶん初めは、彼も冗談半分でやっていたはずだ。これを見せればクラーリィが笑ってくれるに違いないとか、その程度の軽い気持ちで書き始めたはず。そのうちどこをどう間違って思い詰めてしまったのだか知らないが……
 諦めた後もしばらくどうするかクラーリィは悩んでいたが、そのうち意を決して二枚どちらにもさらさら自分の名前を書いた。懐から短刀を取りだし、親指を軽く傷付けて血判も押してやった。押した直後にどこからともなく妖精さんたちが現れて、あっという間に出血を止めてくれた。痛みが消え血が止まり、嘘のように傷が小さくなっていき、やがて分からなくなった。
 その様子をずっと眺めていたはずのシコードは、一度も口を開かなかった。
 己の記載の真を確かめてからクラーリィは黙って紙をシコードの方に寄せた。いつの間にやら腕を組んでいたシコードは、しばらく紙面を黙って眺めていた。

 痺れを切らしたクラーリィが何か言う前にシコードは「約束だ」と魔法を解く仕草を見せ、ありがとうと礼を言い、紙を机の上に置いたまま力強くクラーリィを抱き締めてきた。
 抵抗はしないでやったが、あとで一発殴らせろ、とは言った。意外にもあっさりシコードは「いいよ」と言った後、そのまま冷静な声でもって「一発でなくとも、顔が変形したり骨が折れない程度なら」なんて付け加えやがった。
「魔法解いたか?」
「解いた。すっかり忘れているはずだ」
 蚊に刺されたくらいの違和感は残っているかもしれん、とシコード。脅迫なんていう強硬手段に出たシコードだが、彼にクラーリィにとって大事な人々を傷付ける気は最初からなかったはずだ。恐らく嘘は言っていないだろう、クラーリィはまず一つ大きく息を吐いた。
 しばらく黙って、ふと顔を上げる。
「良かったのか」
「何が?」
 この短文からも本心疑問に思っているらしいことが伝わってきたが、クラーリィにはよい解説が思い浮かばず、もう一度「良かったのか」と繰り返す。言葉にするのが難しい、ただクラーリィは「本当に良かったのか」とシコードに聞いてみたくなっただけだった。
 クラーリィを腕の中に収めたまま動こうとしないシコードは、言葉を選ぶように「血判の話か?」と呟く。
「いや、魔法の方。おまえ本当は、あんな風に……」
 何も言わずに抱える腕に力を込めたシコードは、言葉に詰まったクラーリィに「みなまで言うなよ」と釘を差す。もとからそんなに言う気のなかったクラーリィは完全にその気を失って、ただぼんやりと天井を見上げる。
 首筋を触れるシコードの髪がくすぐったい。あやしているつもりなのか撫でている彼の手のひらの熱が、なんだか妙な違和感を連れてくる。
 あんな風に「おめでとう」だとか「幸せになれよ」だなんて祝福して貰える現実は永遠にやってこない。それは男同士だからどうというより、出身国によるものが大きい。仮に己とシコードの仲がもう少し進展していたとしても、唐突な「結婚してくれ」という前振りがなかったとしても、あんな状況に陥る時点で魔法による嘘だとクラーリィにははっきり分かっただろう。
 おかしなオブラートの正体は、おかしな足の踏み外し方をしたシコードの本質に近い願望。あんな風に幸せにしてやりたいという、永遠に叶わない彼のささやかで海よりも広い愛情の証。どんなにオーバーでメルヘンチックなオブラートも、結局の所シコードが「自分とくっついてもクラーリィはあまり幸せになれない」と思っているがゆえの産物に過ぎない。
 そしてそんな現状認識は決して間違っていない。この二人の幸せを涙を流して喜んでくれる人なんて、この世には一人もいない。

「なあクラーリィ」
「何だよ」
「言ったろう、私はきちんと責任を取るから。幸せに、してやるから……」
 クラーリィは動かなかった。シコードもまた動かない。
 吸い込まれるように空間に消えたシコードの声を追い掛けて、クラーリィはじっと天井を見上げていた。少し、道を踏み外した。歩く道はどこまでも限りなく茨の道で、一般的に幸せと称される未来がなかなか見えてこない。
 部屋には二人しか居ない。黙れば呼吸音やら衣擦れの音やらしか耳には届かない。シコードの背を擦る手を止め、クラーリィは目を瞑った。びくりと動きを止めた彼の手に手を合わせ、そっと握る。先程までとは打って変わり、怯えたようにか弱い力で握り返してくる。
 クラーリィは「任せるよ」と、独り言のように呟いた。
「おまえに任せるよ。契約通り俺の魂まで全ておまえのもの。好きにしろ、……信じてやるから」
 蚊の鳴くように小さな「ごめんな」が耳に届いたけれど、クラーリィは聞こえなかったことにした。
 やるせない現実に思い詰めて思い詰めてとうとう振り切れて暴走して、脅迫までして確かな「何か」を手に入れようと躍起になった。それでも己は彼を許してあげなければならない。痛いほどに突き刺さる彼の己への愛情を、クラーリィはあの時受け取ると決めてしまったのだから。
 一度目を開け、変哲のない天井を確認するとまた目を瞑った。シコードは動かない。動けないに違いない。
 クラーリィは深呼吸を一つ、夢の中で思う存分シコードを殴るべく、汚泥のように重たいこの世とあの世の境界へと逃げていく。


 ***END



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