距離



 ***


 胸にちくりと嫌な感じの痛み。恋とか愛とかいう名前の、最近サックスを悩ませている感情。あの日を境に急にクラーリィがサックスにだけ優しくなってしまった。

 冷たくなってくれて構わないのに。いっそ憎まれ罵られた方が幾分気は楽だ。そうすれば同じくこの胸を刺す罪悪感とか自己嫌悪と呼ばれるやつらが、少しは軽くなってくれるかもしれないのに。
 酒に酔って死ぬまで胸に秘めておくつもりだった積年の想いを吐露してしまった挙げ句押し倒し、彼の返答も待たずにそのまま一通りやってしまった。お互い酔っていたのは事実だが、実力差からいってあの状況であれクラーリィは抵抗しようと思えばいくらでもできたはずだし、何よりその後のクラーリィの態度が事実を物語っている。彼は彼でサックスの予想とは裏腹に、満更でもなかったというわけだ。
 現実がこんなものならもっと早くに正当な手段でもってクラーリィに己の想いをきちんと伝えるべきだった。煮え切ってとうとうあんな手段に出てしまう前に、いくらでももっと良い方法はあったろうに。

 たぶんサックスは、どうしても聞きたかった言葉を聞く機会を永遠に失ってしまった。


 ***


 なあ、とクラーリィが肩を寄せる。サックスは「うん」とやる気のない返答をする。
「つれないのおまえ」
「この状況で俺が釣れたら逆にちょっとやばいなって思わない?」
 思わない、と真顔でクラーリィは言った。
「俺はもう少しおまえが俺に優しくなったっていいと思う、サックス」
「や、優しくないわけじゃない、それは断じて否定する! いや、あんまりがっつき過ぎるとっていう、俺なりの反省……」
「過ぎたことを気にしてどうにかなるのか?」
 その通りだとサックスは思った。なので特に何も反論できなかった。それにしても「過ぎたこと」とかあっさり言ってしまえるクラーリィは心が広い。とても広い。
 サックスはまた、小さな声で「ごめんね」と呟く。
「それ聞いた。もう何回も聞いた。おまえは一体何回言えば気が済むんだろうね」
「……分からない」
 頭がぐるぐるする。クラーリィは何度でも「許してあげる」と言ってくれる。たぶん本当にクラーリィはサックスを憎んだりしていないのだと思う。どこか妙に合理主義なきらいのあるクラーリィのこと、楽観的に「手順を少々間違えたが正しい結果に導かれた」くらいには思っていそうだ。
 確かに二人でふらふらどこかへ遊びに行くのは楽しい。夜遅くまで顔を付き合わせて缶ビール片手に下らない話に興じるなんて涙が出るほど最高だ。あの腕を掴み、普段彼が人に見せない肌に触れて、心の底から抱き締めたり。柔らかな金色の髪が己の首筋に触れ、耳に微かに熱っぽい吐息が吹き掛かるところなんて夢心地そのもの。その瞬間のサックスは、間違いなくどんなお伽噺の主人公よりも幸せになっている。
 現状に不満なんてない。むしろこの現実は過程さえなければサックスの思い描いた夢物語そのもの、それを壊そうなんて思ったことは一度もない。強いて言うなれば手順を間違えた過去の己が憎くて仕方がない。クラーリィは許してあげると宣うが、逆に誰からも責められないがゆえに自責の念が消えてくれない。他人が誰も自分を責めてくれないから、仕方なく自分で自分を攻撃している。
 一度でいい、クラーリィが涙と共に思いっきり殴ってくれればいくらか変わっていただろうに。目覚めた直後に昨晩の一部始終を思い出し真っ青になったサックスに、クラーリィは一言普段と全く変わらない様子で「おはよう」と言った。サックスが口をぱくぱくさせている間ずっと下を向いていて、そのうち今度は「これからよろしく」と呟いた。それから怒ってないとかそういう系統の言葉が続いたが、とにかくクラーリィは一度もサックスを怒らなかった。不愉快そうな顔もしなかった。当日朝に限らず、クラーリィはこれまで一度もサックスを責めてはいない。
 ある意味、サックスがエゴイストなだけなのかもしれない。いっそ責めてくれれば楽になれるのにとクラーリィに責任転嫁しようとしている。だからいつまでもクラーリィに甘くなれない。いつか彼に酷いことをしたという事実を忘れて幸せになってしまいそうな自分の存在が、いつまでもいつまでも許せない。
 ただ単にサックスが己を許せないだけで、何度でも「許してあげる」と言ってくれるクラーリィの気持ちなんて、その実考えていない。


「サックス」
 クラーリィは恋人の顔を覗き込む。……彼は恋人のはずだ。意気消沈しているらしいサックスは、今日もあまり乗り気ではないらしい。クラーリィはしばらく様子を窺っていたが、その内諦めて目を瞑った。
 たぶん、罰が当たった。故意に大量に酒を呑ませて相手から告白の言葉を無理矢理引きずり出して、流された振りをしてやるだけやらせて、次の日まるで天使のような顔をして「許してあげる」なんて偉そうなことを言った罰が当たった。サックスが逃げていかないように、逃げられないように、上手に上手に彼の退路を塞いだずる賢いクラーリィに罰が当たった。
 サックスは覚えていないようだけれど、最初に手を出したのはクラーリィの方だ。思いの丈を言い切って呆然としているサックスを引き寄せた。酔った振りをして倒れかかってその胸に顔を埋めて、最後の導火線に思い切り火を付けたことをクラーリィははっきり覚えている。
 彼が一生言うつもりのなかったことを話し出したのだって、クラーリィがずっと酔った振りしてサックスの言葉や思考を誘導していたからだ。
 もともとあの日酒盛りしようなんて言い出したのもクラーリィの方だった。そしてクラーリィは、サックスが隠しているつもりだった彼の想いを隅から隅までみんな知っていた。きっと一生言ってくれないことを、そして恐らく仮にクラーリィが告白しても「うん」とは言ってくれないことを。現実主義なんて最悪だ。たとえ気持ちは双方向のものであれ回りを巻き込んででも幸せになろうなんて気概はどちらにもなかったし、性分なのかあまり幸せそうな夢も見ていられなかった。
 つまるところ、何らかの強硬手段に出なければ永遠に進行しない恋だと始めからクラーリィは知っていた。サックスがどう思っていたのか今となっては分からないが、とにかくクラーリィはその全てを承知の上で無理矢理にでも一歩駒を進めたいとそう願った。
 そしてごく単純に、彼の方が手を出したことにすれば彼が逃げられないだろうと考えて、実行に移した。たったそれだけのことだ。

 きっと、いや絶対に、サックスは覚えていない。クラーリィの方が先に手を出したことも、あの瞬間のクラーリィの言葉も。そしてクラーリィが思い出すのも億劫になるほどずっと昔から片思いし続けていたことも、彼は知らない。
「サックス、なあ」
「ん?」
「謝るから許してくれって言ったら、どうする?」
「俺が? 誰に?」
 サックスは首を傾げていた。流石にクラーリィも唐突すぎると思い、いくつかフォローを入れた。俺はおまえに悪いことをしたから、とぽつり。謝りたいと思ってるんだ、ともぽつり。
 サックスは相変わらず不思議そうな顔をしている。
「俺、なんか、された、おまえに」
「多分した」
「……してないよ」
 してないよ、とサックスは繰り返す。自己嫌悪が過ぎてクラーリィが口を噤む。
 どこから言えばいいだろう。どうしたら彼は「自分」を許してくれるのだろう。あの現状を打破する手段はクラーリィにはあれしか思い付かなかった。その結果やって来た、やっぱりあまり芳しくないこの現状を打破するいい案はこの世に存在するのだろうか?
 気持ちは双方向性の立派なものだ。ただ、お互い結構思い詰めるところまでいっていて、どうも「恋」なんて素敵な言葉で収めるには違和感のある状態にまでなってしまった。そして二人は大人になって相応の夢を忘れてしまって、頑張れば二人でも大丈夫なんて死んでも言えなくなってしまった。周囲が気になる。周囲を忘れて突っ走れない。
 現実主義なんて最悪だ。
「サックス」
 呼び掛ける度にサックスからはきちんと答えが返ってくる。といっても恐ろしくやる気のない返答だが、それでも黙りにならないところがサックスの優しさ。クラーリィの、彼を昔から好きな理由の一つ。
 こちらも見ずにサックスは微かに相槌を打つ。クラーリィは一度深呼吸をすると、意を決して口を開いた。
「信用してくれないかもしれないけど、俺さ、おまえのこと好きだよ、前も、今も、たぶんこれからも」
 ほんの一、二秒の空白がクラーリィには一分にも十分にも感じられた。若干のタイムラグの後サックスがギギギと効果音が付くほどにゆっくりこちらを向いて、それから何とも呆けた顔をして「え?」と呟いた。


 サックスはまず第一に「なんで」と思った。でも流石に失礼極まりないしいっそ殺されそうな気がしたので何とか口にすることは防いだ。
 また、サックスの頭がぐるぐるし始めた。
 クラーリィが自分を好いてくれているのはよく知っている。よおく知っている。とてもよく知っている。じゃなきゃこんな展開にはならなかった。襲いかかったあの時に手痛い反撃を喰らって最悪再起不能に陥っていたかも知れない。
 でもそれと、好きだと言ってくれるクラーリィが繋がらない。でもそれと、好きだと言って貰える自分が繋がらない。
 困った顔をして黙り込んでしまったサックスの顔を、クラーリィはじっと見つめている。
「俺が好きだと言っちゃおかしいか?」
「なあんも。おかしくなんか。……何だろ、俺、何か納得いかない。あっ怒らないで、別に喧嘩売ってる訳じゃない」
「別に怒らないけど、おまえが続いて『俺はクラーリィに愛される資格がない』とか『愛する資格がない』って言い出したら怒る」
「……俺怒られる」
 クラーリィは何も言わなかったが、代わりに分かりやすい不愉快を顔に載せていた。ただ、いつもならこのまま罵詈雑言が飛び出してきておかしくないのに口をへの字に曲げてひたすらに黙っている。ここはクラーリィに喋って貰いたかったが、クラーリィはサックスのそんな甘えを許してはくれないらしい。
 文章にならないもやもやの中身を相手に言い当てられるなんてなかなかに寂しい。他人であるクラーリィの方がサックスの奥の方を冷静に眺めている証なのかもしれない。手順さえ間違えなければ、今頃何の引っかかりもなくサックスとクラーリィの二人はいい組み合わせになっていただろうに。
「え、ええと、ごめんなさい」
「聞き飽きた。俺はもう聞き飽きた。中身のない謝罪なんて俺は要らない。おまえの自己満足を達成させるために動いてやるつもりもない。
 悪かった、謝る、って俺さっき言ったよな。だから許してくれ。頼むよ、……頼むよサックス」
 酷いことをされた側のクラーリィが許してくれと言うのはおかしい。サックスは反論しようと口を開きかけて、そしてクラーリィの方を向いて、今度こそ「なんで」と口走った。

 先程の台詞、最後の方は声が震えていてなにやらおかしいとは思った。でもまさか、だって、クラーリィが泣いた所なんてここしばらくサックスは見掛けたことすらなかったのに。

「な、なんで泣いてんの、なんで泣くの」
 クラーリィが泣く要素なんて何もないとサックスは思うのに、現実クラーリィは泣いている。たぶんこの涙は先程の「許してくれ」にかかっていると思うのに、サックスはそもそもその「許してくれ」の意味がよく分からない。
「いきなり泣くなよ、なんだよ頼むよクラーリィ」
 珍しく言葉より感情が先走ってしまったのか、クラーリィはぐすぐす言いながら涙を拭っている。しかしながら余程高い臨界点を超えたに違いない、クラーリィに泣き止んでくれる様子はなかった。
 普段彼が涙を見せることなんてほとんどない。悔しさを滲ませて歯をギリギリやるくらいならサックスも何度か見掛けたことがあるが、こんな風に泣かれるなんて滅多にない。取り敢えず、サックスの記憶の中のクラーリィの涙顔は随分幼かった頃のものだけだ。
 そういえば、押し倒した時も、確かやってる時も、そして朝起きた時も、クラーリィは一回も泣かなかった。泣きそうな顔すらしていなかった。……少し、記憶が曖昧だけれども。
 ああようやく泣いたのか、なんてサックスはどこか他人事のような捉え方をしている。上手い対処法が思い付かない。どうすれば泣き止んでくれるのかも、そもそもどうして泣いているのかも、何をしてやれば彼の悲しみが消え去ってくれるのかも、何も分からない。
 ピースが二つしかないジグソーパズルなのになぜかその二つがどうしても噛み合わないような変な感覚が、さっきからサックスの頭の中をぐるぐるしている。
「……クラーリィ」
「バカ、……バカはどっちだ?」
「俺さっきから割とおまえの言いたいことが分からないんだよね」
 クラーリィは顔を上げるとごしごし涙を拭った。少し睨むようにサックスを見て、またすぐ視線を下に落として、手元に言葉が落ちているかのようにしばらく自分の手の周辺を見つめていた。
 仲良くソファに並んではいるものの、その心の距離は手の届かぬほどに遠く離れている。
「姑息な手に出た俺がバカ? それともいつまで経っても納得しようとしないおまえがバカ?」
「……姑息な手って何が?」
「俺が……俺がおまえに酒大量に飲ませて……誘導尋問とかして……おまえが前後不覚なの確認してから、さ……誘ったりして」
「それが姑息なの?」
 もじもじ革張りのソファをつついていたクラーリィの手がふと止まった。珍しく素直に困った顔をする。サックスの返答が余程予想に反したものだったらしい。
「なんで?」
 クラーリィは黙っていた。やっぱりハの字眉毛のまま固まっている。
「俺が気付かないと思ったの? そりゃ、記憶は曖昧だけれども……俺おまえが一方的に誘ってきてるの気付いてたよ。その上で押し倒したんだよ。でもそれとこれとは、話が別じゃん。俺が手順をいろいろすっ飛ばしておまえを押し倒したのは事実じゃん。俺が、……俺がおまえの返事を待たなかったのは事実じゃん」

 クラーリィはしばらく真顔で黙った後、不意に「手順をすっ飛ばしたくて姑息な手に出たんだからそれでいいんだよ」とかずいぶん投げ遣りに呟いた。
 もうやだ、と彼は吐き捨てる。
「いろいろ水に流したくなってきた……」
「げ、な、なに、人が誠心誠意込めて喋ったのになにその反応?」
「俺、さっき『おまえの自己満足を達成させるために動いてやるつもり』はないって言った。俺はおまえが怒ってるのかと思って謝ったのに。俺が作為したことを踏まえてなお気を揉むおまえの気持ちが分からない」
 涙は完璧に引っ込んでくれたのか、クラーリィは随分冷めた表情になってしまった。態度の豹変にサックスは少しだけ怖じ気付く。クラーリィにいつもの調子が戻ってきたことは大変喜ばしいことだが、今のサックスにはやや心臓に悪い。それに、泣いた後の人間というものは得てして非常に冷たくなるもので、サックスはクラーリィからいつも以上に鋭利な文句を浴びせられるかもしれない。そんな展開になってしまえば最後、サックスはいつもより大いに痛手を負う羽目になるだろう。
「悪いけど俺おまえの悩んでるあれこれは正直どーでもいい……気にしないし気にならない。強いて言うなら俺はとっととおまえがおまえ自身を許せばいいと思う。
 俺の描いてる青写真は最初から最後まで終わりよければすべてよし的なハッピーエンドだけ」
 サックスの真剣な悩み事を「どーでもいい」と一蹴したクラーリィはふて腐れたのかやや大げさな振り付けと共に身を倒した。ぐでんとソファに体重を預け、いかにも面倒そうな顔でもってサックスを見やる。けれどその眼差しに、サックスが恋して已まないあの優しそうな光。前髪に隠れてちらちらとしか見えないそれが、サックスの心のどこかをちくちくと刺激する。
「おまえ、俺が今から『いいよサックス』って言ったら納得するのか? 俺がなんて言ったら自分を許すんだ? 俺が持つ解決策はあるのか?
 俺自分で解決できない問題に向き合うの嫌い。おまえの悩み事を綺麗サッパリ水洗トイレに流したい」
「……おまえの悪い所って、変なところで思い切りが良すぎるところだと思う……」
 こちらは真剣に悩んでいるのに選りに選って水洗トイレに流したいだなんて酷い。……でも、クラーリィの言い分も分かる。結局は自分自身の問題で、サックス本人が解決しないことにはどうしようもない。クラーリィという外野がどんなに口を出しても、最終的に決着を付けるのはサックス本人以外の誰でもない。

 クラーリィの提案に乗っかりお互い駒を進めることに同意したのに、それをもってなお後ろを振り返って悩む素振りを見せているものだから、クラーリィは彼なりに「自分が悪かったのか」と気を揉んでしまったのだろう。別にサックスは彼に苛立ちを感じているわけではなかったわけだから、その点に関してはしっかりと謝った方が良い。いや、謝らなくてはならない。
 けれど、あんまりにも「ごめんね」を連呼するとまた彼に呆れられてしまいそうだ。だからサックスは、最低限の言葉でもって改心を伝えようと考える。
 そして彼の恋人クラーリィは、じっとそんなサックスの言葉を待っていてくれている。
「……ええと、クラーリィ」
「ん?」
「お、俺も好き……」
「もっと楽しそうに言うんだな」
 不満そうに鼻を鳴らしたクラーリィは相変わらずあまり可愛くない顔をしている。けれどサックスは、その表情の中に少しだけ満足が入り交じったことに気付いている。
「詫び、代わりに今度俺持ちでどっか連れてってあげる」
 ご飯奢るでもいいし、取るの難しいかも知れないけどどこか休み取って軽くピクニックでもいいし、なんてサックスは続ける。だがクラーリィはサックスの期待を大いに裏切り、あっさり鼻で笑うと「俺より薄給のくせによく言う」とか言った。
 全くもって可愛くない。
 サックスは言い返そうか少しばかり考えたが、ここで絡んでもそういい展開はやってこないと考えて諦めた。ここは年上の余裕でもって受け流すに限る。どうせ言い合いになってもクラーリィには勝てない、実力勝負だって勝てっこない、勝てそうなのは……彼への愛情くらい。
「あ……そうだ、クラーリィ、お願いがあるんだけど」
「ん?」
 クラーリィが素直に続きを聞きそうな雰囲気を醸してくれたので、サックスはそっと胸を撫で下ろした。たぶん今なら頼める。今ならお願いを聞いて貰える、そんな気がする。
 サックスのお願いの内容を聞いたクラーリィはしばらく首を傾げていたが、そのうち納得したのかどうでもよくなったのか、ただ一言「分かった」とだけ頷いた。
 サックスはそんなクラーリィをやや縮こまって眺めている。胸を刺すのは申し訳なさや自己嫌悪や、それからどうやっても止められそうにない彼への慕情。これだけはきっと永遠に変えられないし、譲ることもたぶんできない。
 ふと不敵な笑みを浮かべたクラーリィが腕を広げる。自信に満ちあふれたその笑みに加え、ご丁寧に振り付けまでして頂けるとは結構な話だ。きっと申し訳なさそうな顔をしているサックスを、クラーリィは内心おかしく思っているに違いない。残るもやもやに止めを刺そうと「今からでいいから『いいよ』と言ってくれ」だなんて泣き付くやや情けない恋人に、しょうもないなあなんて思いながらも律儀に付き合ってくれているに違いない。偉そうな笑い方も口の悪さも、結局はサックスの惚れ込んだ彼の優しさを隠すオブラートに過ぎない。
 そのオブラートが完全に剥がれたところなんてサックスは見たことないわけで、想像の域を出ないけれども、きっとそうだという根拠のない確信がサックスの中にはある。

 クラーリィは驚くほど柔らかな声でもって「おいで」と言う。
 ただの同意を飛び越えて、おいで、受け入れてやるから、なんて彼は続ける。きっとこんなことを面と向かって言えば気持ち悪いと一蹴されそうな気がするが、サックスは素直に天使のようだと思った。よくぞここまで心を広くできると思う。彼が己の恋人に収まる気になってくれたのはきっと奇跡だ。
 だからサックスは、その奇跡を大切に守らなくてはいけない。
 サックスが黙って恋人を抱き締めると、身動きの取れなくなったクラーリィは照れたのか何か笑いどころでもあったのか急に笑い出した。けらけら笑いながら、動かなくなったサックスの背中を彼はずっとさすっている。
 バカだな、なんて言われたがサックスは何も言わなかった。反論や同意の有無は関係ない。ただ今この腕の中にある幸せが守れればいい。サックスの手の内に舞い込んできたものの貴重さを、こんどこそ見誤らぬようにせねばならない。
 その内クラーリィは笑うのを止めたが、サックスはその後もしばらく彼を離そうとしなかった。


 ***END



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