インソムニア


 ***


 サックスは悩んでいた。

 小さい頃の彼にこんな癖はなかった。……と、思う。少なくとも記憶の限り、こんなに苦しめられた思い出はない。
 折角恋人になれたのだし、一緒にいられるこの貴重な時間はできるだけ削りたくない。できるだけ側に居たい。彼の温もりを感じていたい、とサックスはそう思う。
 けれど、日に日にサックスの不眠は加速していくばかり。幸いなことに自制心がそこそこあるので就業中居眠りなんてお話にはならないが、それにしたってやはり集中力は落ちざるを得ないし回りにだって迷惑を掛ける。
 まさかこんなことで悩まなければならないとは思っても見なかった。クラーリィの隣の幸福な時間を取るか? それともひとりぼっちの安眠を取るか? だなんて。

 クラーリィは寝癖が悪い。昔はそんなことなかったので、きっとこれは最近の話だと思う。昔はそれこそ川の字になって幼馴染み連中揃ってのお泊まり会なんてこともよくやった。その時はこんなことされなかった。
 隣で寝ていると蹴られる。そのままベッドから蹴落とされることも多々ある。
 ちょうどいいし、なんていう不思議な理由でクラーリィの部屋のベッドをキングサイズに買い換えたのに、彼はその中央に収まって左右どちらにもサックスの入れそうなスペースを作ってくれない。
 暑いのだろうかと思ってひっつくのをやめてみたり、空調などをいじってみたりしたが効果はなかった。別に暑くてサックスを蹴落としている訳ではないらしい。

 あんなにしっかりと蹴っておきながらも、彼に自覚はないらしい。一昨日辺り、三度蹴落とされたサックスはとうとう諦めてソファに移動した。それまでが寝ていないようなものだったので、爆睡。目覚ましもクラーリィの居座るベッドに一つきりだったので予定時刻を過ぎ軽く寝坊。起きて初めて隣のサックスが居ないことに気付いたクラーリィはリビングまでやってきて、ぐうすか寝ているサックスの耳を引っ張りながら「こんなところで何寝てんの」と説教を始めた。
 彼の説教からするに、サックスが深夜トイレに起きてそのままベッドまで辿り着けずにソファで眠ってしまったと考えていたようだ。
「どうしてこんなところで寝たんだよ」
「心当たりないの?」
「……さあ?」
 知らない、とクラーリィは言った。その顔から嘘の気配が一ミリも感じ取れなかったことだし、たぶんクラーリィは己の悪い癖を知らない。

 一度蹴られたところが悪く痣のようになってしまったことがある。二、三日で治ってくれたが、流石にこれはと思いサックスは「ねー見てよコレ」なんて主題を話さずにクラーリィに見せびらかしてみた。そうしたら酷く心配そうな顔をして「どうした」なんて言ってきた。そのまま「誰にやられたんだ」とか「最近どっか怪我しそうな所に飛ばしたっけ?」なんておろおろし始めた。なので「おまえが犯人」とはとても言えなかった。それどころか心配するその顔があんまりにも可愛いんで許してやろうという気になった。
 もっとも、その後部屋に戻って寝転がった時の鈍痛に我に返り、やっぱりどうにかしなくてはという結論に達したのだが。

 別に普通に「おまえに蹴られる」と言ってもいい。ただそうすると自尊心の強いクラーリィのこと、少なからずショックを受けるだろうし直るまではサックスと一緒に寝てくれなくなるだろう。蹴られるのは痛いし、ベッドから追い出されるのも悲しいけれど、ようやく得られた二人ぼっちの時間を失うのはもっと悲しい。
 贅沢は言わない。ただ一緒にいる時間を失いたくない。手を繋いで同じベッドに収まれるだけでも幸せなのに。今や誰にも見せない力を抜ききったその寝顔を、たった一人サックスだけが独占できる時間なのに。
 その日一日どんなに辛くとも、夜クラーリィの寝顔を眺めることを目標に、それだけを目標にしてもサックスは十分に頑張れるのに。
 でもやっぱり痛いのはやだな、とサックスはため息をつく。

 ***

「なんかおまえ最近クマできてね」と、クラーリィに声を掛けられた。
「……そ、そうかな」
「寝不足?」
「……い、いやいや」
「心当たりあるんだな」
 サックスはぶんぶん首を振った……が、その頭をがっしりクラーリィに掴まれた。
 嘘は言うなよ、と彼は念を押す。
「なに?」
「……い、言えない」
 言いたくない、と正直にサックスは言った。嘘は言うなよと念を押されたので正直に。
 だが、当然の如くクラーリィの怒りを買った。まあ予想の範囲内だ。
「なんだよ言えないって」
「だって嘘は言うなよとか言うから」
「気になるじゃねーかよ」
 人通りがゼロではない廊下だというのに、クラーリィは気にせずぐいぐいサックスの髪の毛を引っ張ってくる。余程隠されたことがご不満のようだ。たぶん、折角クマができてることを心配してやったのにこいつ可愛くないとか思っている。そうに違いない。
 抜けるからやめてよ、とか抵抗してみるも効果なし。ハゲになったらどうすんの、と茶化す方向で制止してみたが笑われただけで止めてくれなかった。
「らしくねえな悩み事かよ」
 俺様に相談してみろよ! とかクラーリィは胸を張る。サックスはよくぞここまで「相談しても右から左で何もいいことなさそう」という雰囲気を醸し出せるものだと感心してみたが、変な顔をするだけでは勿論伝わらなかったようでクラーリィに「言ってみろよ」とつんつんされた。
「ろ、廊下はアウト」
「あそ、じゃあおまえの部屋でこの俺がカウンセリングしてやろう」
 袖口を掴まれてずるずる自室に連れ戻されている間、サックスの脳内にはドナドナがずっと流れて止まらなかった。
 どうしよう。正直言いたいのはやまやまだけれども、でもやっぱりクラーリィのショックを受けた顔も見たくない。

 自室に戻されたサックスはドアが閉まるなり「寝不足なのは事実」と呟いた。できてしまったらしいクマの原因はこれ以外にあり得ない。こればっかりは口を閉ざそうにも消極的に断定されてしまうに違いない。
 しょんぼりソファに腰を下ろすと、クラーリィがやっぱり心配そうな顔をして隣に座ってきた。
 言える訳がない。
「……俺の隣で寝てるのに? なんかおまえが思い悩むような事柄ってあったっけ?」
 仕事の話、幼馴染みの話、そういえばこの間喧嘩をしていたのを目撃した話……よくぞここまで覚えられるというほどに、クラーリィはつらつらとサックスの周辺情報を上げ始める。職務的にサックスはクラーリィの数多い部下の内の一人に過ぎないのに、クラーリィはしっかりサックスの職務状況を把握しているらしい。
 その内クラーリィは今日のサックスの朝ご飯の内容までチェックし始めたので流石に止めた。それらはどれも理由じゃない。クラーリィがどんなに考えても答えは出て来ない。
 そしてこの流れでクラーリィただひたすら己を心配してくれているのだということが骨に染みるほど分かったから、最初からなかった真実を伝える気が更に失われた。
 天は二物を与えずなんて言葉通り、完璧すぎるクラーリィに与えられた欠点がアレなのかもしれない。
「んんんー……別に悩んでる訳じゃ……いや悩んでるのかもしれないけど……あ、そう、つまり精神的なあれこれで眠れないとかそういう訳ではないのね」
「じゃあ単に寝付きが悪いとかか? 俺いっつもおまえより先に寝てるのかな」
「確かに俺、結構おまえの寝顔を眺めてから寝てるかな」
「おまえそれが原因なんじゃねえの……」
 おっと、とサックスは少しだけしたり顔。この路線でいけばクラーリィに真実を伝えることなく物事の解決を図れそうだ。そうかも、なんて軽く肯定してみる。おまえの寝顔が可愛くてさーなんて言えば、クラーリィは案外ころっと騙されてくれるかもしれない……

 しかし物事そう簡単に運ぶ訳もなく、クラーリィはここにきて唐突に「もしかして俺寝相悪い?」と首を傾げた。そういえばこの間ソファに移動して寝てたし、なんて忘れて構わない記憶を的確に穿り返してくる。
 サックスは真顔で首を振ったが、クラーリィは騙されてくれなかった。サックスの顔を覗き込み、おまえ嘘付いてるだろ、と真顔で言ってのける。
 だらだら流れる冷や汗がサックスの答え。流石に黙ったままだったが表情で伝わってしまったようで、クラーリィは「そうなんだ」と肩を落とした。
「俺寝相悪いんだ……知らなかった」
「い……いや、えっと、その」
「うわっもしかしてこの間のおまえの痣の犯人……ああそうだったのか……色々と辻褄が合ったぞ」
 こんな展開になるのならわざとらしく見せびらかしたりするんじゃなかった、と思っても手遅れだ。サックスの為す術なく、クラーリィは見る間にしょんぼりしてしまった。
 ごめん、と小さい声で彼が謝る。
「あんな痣まで作って俺最低……」
「い、いやいやクラーリィ、いいんだよ別に、俺怒ってねえし、な、なんというか不可抗力だろ、な、クラーリィ」
 わざとらしいサックスの慰めはあまり効果を示さない。こういう時逆の立場なら、クラーリィはサックスに気の利いた慰めの言葉の一つや二つかけられそうだ。だが変なところで臆病なサックスは、どう言ってもクラーリィの傷を深くするのではないかと危惧して二の足を踏んでいる。
 そして案の定、彼は「しばらく別々に寝るか」と言い出した。
「そ、それはいやー」
「なんでだよ。俺に危害与えられなくていいじゃねえか。クマも治るぞ」
「俺の優先順位は安眠よりおまえの隣に収まることなの」
 そういう問題じゃない、とサックスは力説する。
 そりゃあ安眠は大切だ。人生の3分の1は睡眠時間。できる限り平和な眠りを満喫したいし、朝起きた時の「ああよく寝た!」という感覚は本当に大切だ。
 でもそれと同じくらい、今のサックスにとってクラーリィにひっついている時間も大切。だってようやく恋人になれたのだし。忙しい彼との二人きりの時間だなんて、睡眠中くらいしか普段取れないのだし。
 同じベッドに潜り込んで深呼吸する瞬間に感じるあのたまらない幸福を、きっとクラーリィは分かっちゃいないのだ。

 サックスが握り拳まで作って必死に説得するので、始めは懐疑的だったクラーリィもその内笑い出した。しょんぼりとした表情をやめ、おまえしょうもねえなあなんて呟きながら、サックスの背を軽く叩く。
「おまえに危害を加えちゃ悪いからと思って言ったのに、なんでそんな世界の終わりみたいな顔をして拒否るんだよ」
「俺そんなおまえの優しさ要らないよ」
 世界の終わりみたいな顔をしているかどうかは知らないが、少なくともサックスの望みはクラーリィの提案とはかけ離れている。普段どこか冷血っぽいクラーリィの見せてくれる優しさにサックスは心の底から恋しているが、この場面に限っては別に要らない。欲しくない。
 それより、蹴られてもいいからそのすぐ隣に収まっていたい。

「ううん……仕方ねえなあ。寝る時足縛ればいいのかなあ……」
「何のプレイだよそれ」
「蹴っちゃ悪いからいろいろ考えてるんじゃねえかよ。てめえ蹴るぞ」
 遠慮なくげしげしとサックスの足を小突いてくるクラーリィを止め、サックスは思いっきりクラーリィの前髪を引っ張った。
 痛い、とクラーリィの悲鳴。
「何すんだよ!」
「お返しだよお返し。おまえの蹴り洒落にならねえから」
「む……す、すまん」
「別に怒ってないけど」
 ソファの上に体育座りをして、やっぱり縛るかあなんて物騒なことをクラーリィは呟く。
「縛った状態に慣れればその内この癖直るかな? あーほら、タオルとかで縛っとけば取り敢えず安全だろ」
 サックスは黙っていた。実はこっそりいろいろ調べて、タオルで足を縛るなんて解決法も知っていた。でもなんだかそれを強制するのもどうかと思うし、仮にサックスが賛成の意を示せばクラーリィは必ず実行に移してしまうに決まっている。なんだか偉そうな口調を崩してはいないけれど、プライドの高そうな中身はぐっさり傷付いてしまっただろうし、本心サックスにこれ以上の迷惑を掛けてはならぬといろいろ考えているに違いない。
 だってクラーリィには一言「おまえ今日から自分の部屋で寝ろ」と言うだけの一番安全で簡単な解決策がある。それでも彼は、サックスが必死になって主張する現状維持を現実化させようと腐心してくれている。これまで蹴った分サックスのお願いを聞いてあげなきゃな、なんていう損得勘定みたいなものが絶対に働いている。
 結局サックスの見守る先で、クラーリィはこの案を実行に移してしまうことにしたらしい。
「……で、これで駄目だったらまた別の案、と。おまえいるから直ったかどうか確認すんのすげー楽だな」
 そうだね、とサックスは言う。朝起きてサックスを探して、ベッドの隅っこに縮こまってたら少しアウト。ベッドから転げ落ちて床の上にいたら完全にアウト。諦めてソファに移動してたらレッドカード。朝起きた瞬間に成果が分かる画期的な方法だ。たぶん。
 いっそ蹴られても目覚めないような強靱な睡眠法をサックスの方が身に付ければいいのかもしれない。クラーリィの蹴り癖ばかりを直そうと調べていたが、今度はそっち方面でも調べてみようか。
 クラーリィが努力してくれるそうだし、理想と現実の両立を叶えるためにサックスもまた頑張った方がきっとゴールに近くなる。
 俺頑張る、とクラーリィが意気込んだ。ごく真面目そうなその顔がいっそおかしくて涙が出てくる。
「なに笑ってんだよ蹴るぞ」
「蹴り癖付いちゃって後で困るのはおまえだからな」
 俺はいいけど俺以外の友達みんな消えるよ、とサックスは言う。クラーリィはぴったり止まってそれは嫌だと零した。サックスだけだなんて御免だ、見飽きる、と彼は首を振る。

 早速タオルを探す気になったのか、クラーリィが徐に立ち上がった。あまり協力する気のないサックスはそんな背中を見守っている。タオルで縛るなんてのはクラーリィ本体が傷付く可能性の少ない名案なのかもしれないが、サックスの趣味からはだいぶ外れている。
 クラーリィは真っ直ぐ棚の方へ向かう。サックスの部屋といえどクラーリィはその勝手をよく知っているし、縛るのに使えそうな長さのあるタオルがどこにしまわれているのかもきっと分かっているはずだ。もしかすると、サックスのへそくりの場所すらも知っているかも分からない。たまにクラーリィはサックスの部屋を諸々の隠し場所に利用していたりすることだし、場所によってはサックスよりもずっと詳しいなんてこともあり得るかもしれない。
 タオルタオル、と独り言にしては大きな音声で呟いているクラーリィの背中にサックスはこっそり呟く。俺は別に、おまえの友達が俺一人になっても構わないよなんて。別れる気なんて更々ないし、最悪この蹴り癖が直らなくたって別にいい。どんなに最悪だろうとサックスだけはクラーリィの手を離さない。あんなに掴むことを熱望していたのだから、もう二度と、死んでもこの手を離しやしない。離させやしない。
 そうすればクラーリィが見るのは己だけになる、なんてエゴの塊みたいなことを思っている自分に少しだけ嫌気が差して、何も知らずにごそごそサックスの部屋を漁っている恋人の背に、小さくごめんねだなんて囁きかけてみる。
 幸いにして、クラーリィには何も届かなかったようだった。


 ***END



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