きずあと


 燐光が掠めたと思ったのは本当に一瞬で、気が付いたら視界が回って一面青い空。
 綺麗だなあと感嘆できたのもほんの一瞬ほどで、耳に飛び込む怒声、視界を遮る土煙、そして何より近寄ってくる足音が長閑な思考を見るも無惨に引き裂いた。
 クラーリィの記憶は、頭上にサックスの姿を認めた辺りで途切れている。


 ***


「頭打たなくて良かったけどよ……」
「おーいてて」
 優しくしてくれよ、とクラーリィが言うのをサックスは黙って聞いていた。普段なら文句の一つとともに軽く叩いているところだが、今日ばかりは分が悪い。
 サックスが珍しく大人しい理由に心当たりのあるクラーリィは、ふと真面目な顔になると「ホントは痛くないぞ」と呟いた。
「嘘つけ」
「……痛くない」
 サックスは少しだけ食い下がろうか迷ったものの、結局何も言わなかった。自分の不注意で殺されそうになったことも、それを庇ってクラーリィが怪我をしてしまったことも、サックスの反応を気にして「痛くない」とか嘘をついていることも、全部分かっている。
 分かっている。嘘だというサックスの指摘を、クラーリィが認めやしないことも。
「……おい黙るな」
「はい、おしまい」
 サックスは立ち上がる。とりあえず現地で行える手当てはこれが精一杯で、あとは本国に帰って専門的な治療を受ける他ない。
 クラーリィはとっととスフォルツェンドに帰ればいいと思う。
「おしまい。ですよ」
 一向にクラーリィが立ち上がろうとしないので、サックスはもう一度声を掛けた。聞こえていなかった訳ではないようだったが、念のため。
 しかしクラーリィは、胡座をかいた姿勢のままじっとサックスの顔を眺めている。
「何?」
「そんなに落ち込むなよ、おまえ、サックスのくせに」
「サックスのくせにって何」
「貴様は俺の部下だ。不出来な部下はとちって殺されそうになったが、上司たる俺が飛び出したことで俺の軽傷一つで済んだ。おまえは無傷、俺もすぐに戦線復帰できる。戦力という観点から俺の判断は正しい。
 以上だ。俺の行動に文句を付けるなバカ」
 分かったか、と言うなりクラーリィは立ち上がった。傷のある左手はぶら下げたまま、右手だけで服についた土埃を払っている。

 ……そりゃ、クラーリィの判断は正しいに決まっている。だからクラーリィは大神官になれたのだ。だからクラーリィは誰よりも高い地位にいて、この国は俺が守るだなんて大それた言葉を座右の銘とすることが許されるのだ。
 サックスが気を揉んでいるのはクラーリィの行動の是非ではなく。部下を上司が庇うという逆転の善し悪しについてでもなく。いや、これは少しばかり似ているかもしれない。
 ただただ、恋人をサポートすることすらままならない己が情けない。己の不甲斐なさがどうしようもなく悲しい。
 単純に、それだけ。

 視界に入ってくる傷付いた左腕がやけに痛そうに見えて、サックスは顔をしかめる。そして予想通りに渋いクラーリィの顔を眺め、肩を落とす。
 バカ、とクラーリィは言う。でもその先が何もない。
 サックスはずっと返すべき言葉を探していたが、結局見つかることはなかった。


 ***


 黙々とクラーリィの包帯を替えていたら、唐突に「気持ち悪いな」とケチを付けられた。
「いきなり何だよ」
「その湿気た顔。やめろって言ってんだろ」
 サックスは一度反論しようと口を開きかけて、文句の代わりにぺしりと相手を叩いておくことにした。
「うっさい」
「てめー何すんだ」
「そんな痛かねぇだろ」
 先に喧嘩売ったのそっち、とサックスはクラーリィを指差す。クラーリィが返事をせずにそっぽを向く。湿気た顔しているのもクラーリィだと思ったが、今文句を連ねては当分会話が成り立たないと判断し、サックスは何も言い返さなかった。
 そのまま、また包帯を交換する作業に戻る。

 ふと、クラーリィが何事か呟く。作業に熱中していたサックスは聞き漏らしてしまった。
「何?」と問い掛ける。クラーリィは即座に返事をしない。
「ごめん聞こえなかった。何?」
「……痛い」
 ぴたりとサックスの手が止まる。
 そして、クラーリィはそれきり何も言わない。誰が見ても「湿気た顔をしている」と表現するだろう、そんな表情を崩すことなく、サックスの方をしっかり見ることもなく。息苦しくなるほどにクラーリィはただ黙っている。
 同じく黙ってしまったサックスとの間に、不可解に澱んだ空気。時計の秒針の音だけがやけに響く。蛍光灯が急に寒々しく感じられる。決して部屋の気温は低くないはず。空調だって効いている。
 それに、さっきのちょっかいが本当の意味で痛い訳がない。サックスはクラーリィと喧嘩慣れしている。相手が傷付かない喧嘩の仕方も、ちょっかいの出し方も、そして力加減だって熟知している。この感覚はきっと驕りではない。
 けれどクラーリィが冗談を言っているようには見えない。この真剣そうな横顔に嘘の色なんてない。かといってクラーリィはそこまでまことしやかに嘘をつける人間じゃない。
 だとすれば答えは次のうちのどちらか。物理的に痛い訳じゃない。あるいは、今叩いたのとは別の場所が痛い。
 サックスはしばらく悩んで、結局「俺は謝った方がいいか?」とだけ呟いた。もっと気の利いた言葉の一つでも掛けられるのならその方が良かったけれど、生憎これがサックスの限界だった。
 クラーリィは不満そうに息をついて、いいや、と首を振る。
「でも痛いんだろ」
「おまえのせいじゃない……」
「じゃあその顔。人のこと言えんよそれ」
 どこが痛いの、と優しく問い掛けてみる。なんだか昔に戻ったような気分だ。昔の自分はクラーリィにちっとも優しくなかったけれど、変な形で昔をやり直しているような気すらする。
 昔はこいつひょろかったよなとか、俺に喧嘩で勝てなかったんだよなとか、そういえば年下だったとか、しばらく忘れていた懐かしい感覚。それが急に呼び起こされて、目の前のクラーリィがふと年相応に見えたりする。頼り甲斐のある上司としてではなく、恋人だからという理由でもなく、今のサックスにほんの少しだけ「守ってやらねば」とただただ思わせるような不思議な感覚。
 庇護欲が掻き立てられる、とでも言えばいいのだろうか。
「クラーリィ。人に文句付けときながらおまえが落ち込むなよ」
 唐突な文句は、もしかすると擦り切れそうになったクラーリィの最後の抵抗だったのかもしれない。簡単に言えば強がり。だとすると、サックスはクラーリィを繋ぎ止めていた最後の綱を断ち切ってしまったのかもしれない。それで、こんなにも急に落ち込んでしまったのかもしれない。
 甘えと言えばかわいい。他人には見せられないそれを、サックスのまえではごく自然に晒しているのなら聞こえはいい。これがサックスに対しクラーリィのごく個人的な領域への踏み込みを許す証ならば尚のこといい。
 サックスはくじけない。どれだけ黙られようが、クラーリィが応えるまで何度でも優しく手を差し延べる。それがサックスなりのお返し。たぶん、この二人におけるサックスの仕事。
「……クラーリィ、なあ、どうしたんだよ」
 やっぱりクラーリィは返事をしてくれなかった。今日は言語による返答を求めても意味がないかもしれない。そんな日もある。
 サックスは黙って距離を詰めてみる。クラーリィは無反応だ。嫌そうな顔をしない。避けるような仕草も見せない。その代わり、ほっとしたような顔もしないし、勿論嬉しそうな顔もしない。
 そろりと手を差し延べる。クラーリィはやっぱり動かない。髪に触れる。頬に触れる。少しだけくすぐったそうな顔はしたものの、やっぱり何も言わない。動かない。
 ぎゅっと抱き締めてみる。しばらくクラーリィは微動だにしなかった。その内肩越しにふうと大きく息を吐いたのが伝わってきて、クラーリィが身体の力を抜いたのが分かった。ぐっとサックスに彼の体重がのし掛かってくる。
 ようやくサックスは胸を撫で下ろした。


 ***


「きず、治った」
「ああ」
 交換中に急に元気をなくしてしまったあの日以来、クラーリィは一切包帯を替えさせてくれなくなった。ケチだ。どういう心境の変化があったのかは知らないが、とにかく替え時になるとサックスに近寄らなくなった。サックスには黙って医務室に顔を出して包帯を替えてくる。これまでは「おまえのせいなんだから」とか扱き使っていたのに極端すぎる。
 サックスの予定を一切無視して呼び付けるクラーリィに多少辟易していたのも事実なのだが、それがぱたりとなくなってしまうとそれはそれで寂しいものだ。わがままなことを言っている自覚はサックスにもあるが、今思い返すにあの時間はなかなかに貴重なものだった。失ってはじめて分かるとはこのことだろう。忙しい日々の中、確実に二人っきりになれる貴重な空間があの場所にはあったのだから。
 お陰様であの日を境に、クラーリィの傷の治りがどの程度なのかサックスにはさっぱり分からなくなってしまった。そしてつい先程、サックスはクラーリィの左腕から包帯が消えたことを発見した。

「良かったね」
「……ふん」
 クラーリィは不機嫌そうに左腕を隠す。気付かれたくはなかったようだ。もともと服で隠れていてそうそう包帯の有無なんて分からないのに、サックスはそれを承知で毎日じいっとクラーリィの左腕を眺めていた。
 判別法は案外簡単だ。毎日じっくり観察しなけりゃ分からないものの、右腕と左腕のもっこり具合を比べるだけ。左腕は包帯の分かさが増えて、おまけに少しだけ動きが鈍くなる。普段の身のこなしの軽やかさが災いしたとでも思えばいい。
 それが今日、急にすっきりした。動きもスマートなものに切り替わった。サックスが「包帯が取れた」と判断したのはそういう訳だ。
 ただ、クラーリィからすれば、まさか気付かれるなんて思ってもみなかったのだろう。
「人のことじろじろ見てるなよ……」
「まあ、恋人なんでね、一応」
 最近避けられてるけど、と呟く。クラーリィの様子を窺ったつもりが、彼は無反応。長期に亘り放置されていたこちらの気持ちも少しは推し量って欲しいものだ。
 十中八九、傷口を見られたくなかったのだと思う。だから包帯を替えさせるのもやめて、そもそもサックスに近寄らなくなったのだろう。勿論彼がサックスの部屋に夜遊びに来るなんてことはゼロだったし、サックス側もなんとなく空気を読んで夜クラーリィの部屋に押しかけたりはしなかった。
 包帯が取れただけならまだ傷口は残っていようが、そこまで酷いことにはもうなっていないはずだ。その他のクラーリィの身体に紛れる数多の傷とそう変わらなくなっているはず。あの時軽傷と彼は言ったが、傷は深めだった。だからもしかすると残る傷となってしまっているかもしれないが……どちらにせよ、もうそこまで痛々しいものにはなっていないはず。
 そろそろサックスの謁見を許してくれてもいい。本当ならもう一度くらい謝っておきたいところだけれど、あまり謝るとクラーリィのプライドに傷を付けるかもしれないし、その辺は状況に応じて決めようかと思う。
 なあ、とサックスはクラーリィに問い掛ける。
「包帯取れた記念にお酒の一つでも奢ってあげようか?」
「……」
「ちょうどさ、いいの貰ったんだけど、どうよ、クラーリィ君。俺の部屋でも、おまえがいいならおまえの部屋でも。ん?」
 まだだめかも、なんてサックスは思うが極力表情には出さない努力をする。クラーリィはサックスがたまに爪の垢を煎じて飲みたいと思うほどに公私の区別がしっかりしているから、この事件のあった後も仕事中は全く以て頼れる上司を演じている。動きはてきぱきしているし判断に何の濁りも見られない。だがプライベートになると相変わらず元気がなさそうな素振りを見せる。
 わざと下心の分かりやすい選択肢を並べてみたけれど、これがあんまりいけなかったかもしれない。外出するパターンのみに選択肢を絞っておけばまだ了解が得られたかもしれない? もしクラーリィがまだ「腕の傷を見せたくない」と頑なに思っていたのだとしたら、酔っぱらってそのうちベッドに流れ込みそうなこの選択肢はどちらも選ばぬに違いない。
 しばらく待って、クラーリィがまだ黙りを通すようなら大人しく提案を引っ込めようとサックスは思っていた。数度呼吸。クラーリィは動かない。
 別に無理しなくても、とサックスが言い掛けたその瞬間、意外にも彼は「分かった」と呟いた。
「はいっ?」
「貰おうかな。お酒。折角だし」
「……そう。じゃあ俺の部屋おいでよ。ちと汚いけど、まあ慣れたもんでしょ」
 恋人が来るから部屋を一生懸命掃除しよう! なんて可愛げのある時期はかなり昔に通り過ぎてしまった。そんな気概があったことすら実はなかったかもしれない。なにせ幼馴染みだ。お互いの部屋なんて入り慣れたもの。今となっては恐らく部屋の主よりものの配置を記憶している箇所もあることだろう。部屋にアレ忘れてきた、ちょっと取ってきてくれ、なんて言われてサックスが部屋に取りに走るなんてこともある。サックスよりクラーリィの方が概して忙しいのだから仕方ない。
 こんな展開になるならちっとは掃除しておけばよかったかな、とも思ったものの、今更「部屋が汚い」なんてクラーリィもぶうぶう言わないだろう。思うかもしれないけれど。
 むしろ今日に限っては、言ってくれた方が元気が戻ったとほっとできそうだ。
「じゃあ、今晩。仕事片付けたらおまえのところに顔出すよ」
 迎えに行ってあげる、とサックスは言う。そうすればクラーリィは一秒も無駄にせずにギリギリまでお仕事に励めるという寸法だ。待たせてイライラさせたことが過去何度かあったので、ここ最近はあえてサックスの迎えを待って貰っている。大神官執務室の隅っこに座って、きりのいいところまでと言うクラーリィの真剣な顔を眺めているのもなかなかに乙なものだ。
 クラーリィはごく素直に「ああ、待ってる」と呟いた。


 ***


 もとから具合が悪かったのかもしれないが、サックス比通常の半分ほどでクラーリィが飲まなくなってしまった。飲まなくなった、という表現より飲めなくなった、という表現の方が正しいかもしれない。例によってクラーリィは自分が潰れる一歩手前で飲むのをやめてしまったようだ。そして、その潰れるラインが通常より低いらしい、ということがサックスの推察。
 そうなの? なんて聞いてもきっといい答えは返ってこないだろうし、なによりクラーリィ本人がその明確なる回答を持っているとは思いにくい。
 念のため「具合でも悪い?」とは聞いてみたが、案の定黙って首を横に振られた。
「……無理すんなよ。今更気ィ遣わなくてもいいから」
「気を遣ってたら今頃ニッコニッコして酒飲んでるわ阿呆」
「うわあかわいくない」
 でもちょっとは元気が戻ってきたのかな、なんてサックスはほっとしてみる。相変わらずの顔色だし、飲む量も半減だけれど、皮肉を言うだけの気力がある、あるいは戻ってきたということが分かった。とりあえずの収穫。
 それきりクラーリィは何も言わないので、仕方がないからそっと引き寄せてみたりする。酔った振りをして、じゃれあいたいように装って。まあ、クラーリィのことだからその本心にちゃんと気付いているだろうとは思う。
 クラーリィはふと真顔になって握りしめていた空っぽのコップをテーブルに置いた。ちょっとばかり大きめのため息をついて、ちらりとサックスの方を見て、何も言わずに視線を落とした。
 クラーリィがふうと息を吐く。ゆっくり彼の体重がこちらにのし掛かってくる。
 触れている面はほんの少しだけ、手のひらよりも小さい肩口の一部分。それでもなんだかドキドキするし熱を感じる。たぶんそこに意識を集中しているからだと思う、じんわりと際限なく伝わる熱が二人の思い出とかその辺を連れてくる。ここまで長いこと腐れ縁と付き合って、それでもまだこんな気持ちを止めどなく鮮やかに思い出せるのだから、今も昔も、当分サックスはクラーリィに恋をしているらしい。
「なんか……えーと……」
 サックスは救いを求めるように頭上を見上げる。何かここでかっこいい台詞の一つでも言えたらいいのに。即座にクラーリィが安心して、ぐっと強張らせたこの肩の力を抜いてくれるような魔法の言葉を。
 見上げても視界に入ってくるものなんて、無難な壁紙と、ぎっちり詰まった本棚と、それから隣部屋のベッドの角っこがぎりぎり視界の中。ドアは開けっ放しにしてしまっていたらしい。あとはぜんぶ空気と人工的な明かりで、どこをどうかき回そうがサックスの望む魔法は出てきそうにない。本棚を漁ったところでそんな都合のいい魔法は出てきてくれないことだろう。
 一応魔法使いのくせに、そんな知りもしない魔法に思いを馳せているこの状況はちょっとばかし滑稽だ。
「えーと……まあいいか」
 無理して話さなくてもいいか、とサックスは諦めを付けた。クラーリィはもともと話す方ではない。比べてサックスはお喋りな方だ。黙ったクラーリィの分まで喋ることが多々ある。周囲から足して二で割るとちょうどいいなんていう評価を貰うと正直嬉しい。まあそれはともかく、たとえ恋人であれお喋りなサックスをうざったく思うときもあるだろう。たまには黙ってみるのもいい。
 そうだ、沈黙は金、雄弁は銀なんて言葉もある。詳しい意味はよく知らないけれど、黙っているからこそ伝わるものもあるんじゃないかと自分を納得させる。その分動作などで伝えればいい。百の言葉より一の温もりが恋しい夜もあるというものだ。
 なのでクラーリィを、言葉の代わりに引き寄せる。抵抗はゼロ、すぐに彼はサックスの腕の中に収まった。こてん、なんて表現が似合っていた。そのまま少し腕に力を入れても、ぎゅっと抱き締めても、やっぱり反応は薄い。
 薄い、ということはゼロではない、ということ。サックスにはクラーリィが少しだけ力を抜いたのがよく分かった。たぶんこのままじっとしていれば、そのうちまた前回みたいにぐったり寄り掛かってきてくれるだろう。この状況下ではそのまま寝入られてしまうかもしれないけれど、そこまで贅沢を言うつもりはない。
 元はと言えば、このぎくしゃくはサックスがヘマをして敵方に殺されそうになったところから。そしてその瞬間に上官たるクラーリィが庇いに飛び出して、冗談では済まない怪我をしたから。クラーリィが落ち込んだ原因はよく分からないけれど、とにかく発端がこれであることだけは間違いない。今回ばかりはサックスが全面的に悪いのだ。部下としても、恋人としても、サックスはクラーリィの十分になれなかった。
 けれど、ごめんと謝り続ければ解決する問題でもない。クラーリィの前言通り、表面的にクラーリィの判断は間違ってはいなかった。だがもしクラーリィ側が庇うことに精一杯で自身の回避に失敗していたら、ことはこう上手く進まなかった。現に彼は怪我をしてしまったし、利き手側を負傷していればまた展開が変わってしまっていたかもしれない。渡る橋が危険すぎた。詳細をパーカスに話したらきっとお小言を食らうことだろう。
 サックスが下手に謝り続けると、落ち込んだクラーリィの傷口に塩を塗り込む結果になるかもしれない。

 ぼんやりしていると、飽きてきたのかクラーリィが僅かに身じろぎし始めた。居心地が悪かったのか、微妙に体勢を変えようともぞもぞやっている。邪魔をするつもりのないサックスは一度ぱっと手を離した。
 ただ、手を離していたのはほんの一瞬だった。本当に唐突、言葉が頭に降ってきた。今なら言えそうな気がする。やっぱり黙りこくっているのは自分の趣味じゃない。
 なあ、とサックスは切り出す。いきなり肩口を掴まれたクラーリィは目を丸くする。
「な、……なに」
「俺、おまえのこと信じてるよ、クラーリィ。おまえのことを信じてるし、疑わない。どこへでもついてってやろう。ギリギリ国境でも、最前線でも、地の果てでも、……そうだな、地獄の釜の中でも。おまえに『一人で行け』って言われるとちと考えちゃうかもしれないけど、おまえが『ついてこい』って言うなら俺はどこでもついて行くよ。
 ……うん。ついて行くよ」
 クラーリィはしばらく黙っていた。何のリアクションもなかった。
「……なに、いきなり」
「いや、なんとなく」
「なんとなく、であんなかっこつけた台詞を言うのか」
「まあ励ましたいナーとか元気出して欲しいナーとかそういう思惑はいろいろあるけどね」
 ここでそれをばらしてしまっては言葉の魅力が半減する気がするが、たぶんクラーリィはここまで言った方が安心するだろう。じゃなきゃ頭でも打ったのかとか変な方向に思考を飛ばすに違いない。そういう無用な心配は吹き飛ばすに限る。
「おまえ……バカ」
「いきなり俺が賢くなったらおまえびっくり……ってちょっ、な、なにしてんのねえ」
 いきなりクラーリィが服を脱ぎだした。まあ上半身だけだけど。
 あれだけ隠したがっていたくせに、あっさり左腕の傷跡がお目見えする。まだちょっとだけ生々しい、大きめの傷。でも放っておけばそのうち小さくなりそうな傷ではあった。跡が全く消えるかどうかはちょっと自信がない。
「治った。見ろほれ、治った!」
「み、見れば分かります」
 左腕だけ服を脱ぐとかいう器用なことをする気がなかっただけらしい。幸か不幸か他意はなさそうだ。ほら、と恩着せがましくサックスの目の前に腕を持ってくる。やることが極端すぎる。
「わ、分ーかった分ーかったって……」
「見たかったんだろおまえ。残念だったな……もう治ってしまった……!」
 治ってしまった、なんて言い方はおかしい。治ってしまうのを誰よりも待っていたのはクラーリィ本人だろう。傷口が傷跡に変わるのを、痛みが引くのを、包帯が取れるのを、きっとサックスと同じかそれ以上に待ち侘びていたに違いない。
「フン、精々悔しがるがい……」
「はいはい分かった分かった。よちよち」
 なんとなくクラーリィの虚勢を感じ取ったサックスは、クラーリィの台詞を中途半端に遮って彼の脱ぎ捨てた上着を上から被せた。そんでもって、彼が慌てた一瞬の隙を突いてそのまま上着ごと抱え込む感じに再び抱き寄せた。服に隠されて顔が見えない。なのに肝心の傷跡だけが上着からはみ出て外気に晒されている。
 そしてクラーリィは、サックスの予想通りぴたりと動かなくなる。文句も言わない。
「酒飲んでね、上半身裸でうろうろすると、風邪引くんだよ」
「……」
「風邪引いちゃうよ」
「……やなんだ……」
「ん」
 サックスはじっと残った傷跡だけを眺めていた。らしくない、小さい小さいクラーリィの声。上着越しに背中を撫でてみたりする。折角遮った視界を戻すことはしない。その表情を覗き込むようなこともしない。
 蚊の鳴くような声が、きりきりとこの場の空気を澱ませる。
「いやなんだ……いやだったんだ……」
「ん」
 そろりと這い上がるクラーリィの指先が力なくサックスの服の裾を掴む。不安ならもっとしっかり握ってしまえばいい。サックスに拒否の余地を残したりしない方がいい。それともサックスが拒まないことを知っているからこそこんなにも弱々しく掴むだけなのか……それはサックスには分からない。
「……ごめん」
「謝るなよ、おまえ、……クラーリィのくせに」
 クラーリィは返事代わりに力強くサックスの服の裾を握ってきた。手放す気は失せたらしい。
 背をさする。何も言わずに、ただ受け入れるという姿勢を示す。クラーリィがじっとしているのをいいことに、サックスはひたすらに彼をあやし続けている。好きなだけこうしていればいい。まだ夜明けにはほど遠く、二人に残された時間はたくさんある。
 好きなだけ、クラーリィが飽きるまで、深呼吸を何度も何度も繰り返して、そのうち胸に溜め込んだ鬱憤を涙という形でも言葉という形でも、洗い流してしまえるようになれるまで。

 視界の隅に焼き付いたクラーリィのきずあとは、しばらくサックスの脳裏から消えてくれそうになかった。


 ***END



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