やくそく


 ***


 クラーリィの部屋で黙々と模型作りに勤しんでいたら、いつの間にか部屋の持ち主がすぐ隣にいて手元を覗き込んでいた。
 サックスは顔を上げる。
「ん、用事とかいうのは終わったの」
 クラーリィは黙って頷いた。中身は知らないが、やっていた様子からしてそこまで大事な何かではなかったような気がする。だが、クラーリィ本人はきりのいいところまで終わらせたいと思っていたのだろうし、何より今日押し掛けたのはまったくのサックスの勝手だったので、サックスはじっとそんな彼の作業が終わるのを待っていた。
 開口一番「帰ってくれ」と言われないだけ幸いだった。それでなぜかクラーリィの部屋に置きっぱなしの模型作りなんてして時間を潰していたというわけ。

 伺い見る横顔がなんだかきりりとして格好良かったので、お仕事中よろしく「良かったですね」なんて言ったらしかめっ面をされた。
「おまえさ」
「ん?」
「俺に一々敬語使っててむかつかないの?」
「なんでむかつくの?」
 サックスの予想通りこの言葉にむしろクラーリィはむかついたらしく、ぱこんとデコを叩かれた。デコピンにする心の余裕はなかったと見える。
 苦情は「いてぇな」と呟く程度に留めておいて、机一面に散らかした作りかけの模型やら道具やらを片付けにかかる。クラーリィはその様子を不満そうに眺めているだけで、一切手出しはしない。
 むかつかせるような言い方を分かっていながらした点は謝ってもいい。だが最初にケチをつけてきたのはクラーリィの方だし、プラスマイナスしたらたぶんゼロだ。だからこれ以上サックスが下手に出る必要はないはず。
 サックスがしばらく黙ってお片付けに専念していると、クラーリィはもぞもぞと隣に移動してきた。隣というか、斜め下というべきか、サックスの手が届きそうで届かない絶妙な距離にクラーリィは腰を落ち着かせる。こんな些細な境界をもしっかり保とうとするのだから小憎たらしい。
 そのうちクラーリィは痺れを切らし、「だって」と切り出した。
「だっておまえ……俺年下でよ、昔は切磋琢磨してた仲でよ、それどころかもっと昔はちょっかい出して苛めてたような相手によ、現にプライベートではこんな無礼な物言いしてるくせによ、むかつかねえのかよ」
「なにサラッと無礼とか言ってんだよ偉っそうだなーおまえ」
「偉いもん」
「だろ? おまえは偉くて俺の上司なんだよ、敬語使って当然だろ」
「……? あれ?」
「俺は部下にタメ口きかれてる大神官とかヤだけど」
 な、とサックスは畳み掛ける。クラーリィの横顔から先程のかっこよさは残念なことに消え失せていて、サックスには見慣れた困惑したような顔。
 クラーリィはソファの前の空間に沈み込んで、低い目線から片付けられる机を眺めている。せめてクッションの一つでも敷いてから座れば良かったのに。お尻冷えないの、なんて聞こうか迷ったけれど結局諦めた。
「昔連んでたおまえが偉くなったからむかつくっていうその理論がそもそも分からねえな。上司がおまえなお陰で俺は随分楽をしましたよ? ご贔屓とかそういうんじゃなくて、上が手際いいと下は仕事がしやすいのよ。俺正直そういうの無理だわ。素直におまえの方が向いてると思う。
 それに、おまえにむかついてたらこんな時間にこんな場所にいねー」
「ま……まあな……って、こんな場所で悪かったなオイ」
「言葉の綾じゃねーか揚げ足取んなよクラぽん」
 語尾にハートでもつけてみたらきっと面白い顔をするだろうというサックスの思惑は見事に的中した。クラーリィは変な顔してぷるぷるしている。さっき誉められたお陰で率直に罵倒することもできず、どう出るべきが迷っているらしい。
 ただの照れ隠し。そりゃあ昔はちょっぴり羨ましい気持ちもあったし、何より天賦の才の違いなるものを見せつけられたときはそこそこ凹んだりもしたけれど、全ては過去の話だ。いかに相対的敗者であろうと、サックスはこの世にたった一つクラーリィの心を掴んだという点において、追随を許さない唯一無二の勝者。
 こんな感じに開き直れたその瞬間から、サックスの人生は結構薔薇色だ。職場で毎日腐るほど顔を合わせるから会えない日々なんて切ない言葉にはほとんど縁がない。仲のいい幼馴染みだからべったりくっついてどこかへ行っても誰も怪しまない。それどころか朝一緒に出勤してきても「昨日夜遅くまで一緒に飲んでた」の一言で片が付く。

 クラーリィがちっとも返事をしなかったのでもう一度可愛く呼んでみたら、またぺしりと叩かれた。一応手加減はされている。
 気持ち悪いから止せよとか言うくせに、クラーリィはあんまり腹を立てているようには見えなかった。


 ***


 怒声、を通り越して罵声。
 クラーリィが相当お冠であることは容易に想像ができたが、生憎サックスには怒り心頭の彼を上手く宥める方法はちっとも思いつくことができなかった。
 時計は午後三時。おやつ時ティータイムと洒落込むことができるのは運のいい日だけで、少なくとも今日は相当幸運の女神に見放されているらしい。もしかしたら睨まれているのかもしれない。
 珍しく立ち上がって唾を飛ばす勢いで怒っているクラーリィと畏縮する彼の部下を視界の隅に入れつつ、ああ今日は帰りが遅くなりそうだなんてサックスはぼんやり思う。当事者ではないサックスに詳しい話は分からなくても、激怒するクラーリィの言葉の節々からなんとなく事情を察することはできる。
 この部下、相当「やっちまった」らしい。ややこしい事態になりそうだ。クラーリィは当分修正に追われることになりそう。自分のところにもそれが飛び火してくるかもしれない。その可能性はかなり高そうだ。
 彼の口から飛び出る「おまえも手伝え」の容易い一言の、なんと拘束力の強いこと!

 原因たる部下は、それはもう見るも無惨に項垂れている。残念ながらやっちまったことはやっちまったことだ。怒りたくなるクラーリィの気持ちも分からなくもないが、これだけしょぼくれているのであればもうお説教の意義は達成されたろうし、これ以上説教に時間を割くよりも事態の打開に努めた方が建設的だと思われる。ここから先はきっとただのクラーリィの憂さ晴らしだ。
 それでもって、いつもならクラーリィに口出しして彼のやり過ぎを防止してくれるパーカスが今日に限ってこの場にいない。
「隊長〜大神官〜」
 ビリビリした空気の中で横槍を入れるのには相応の勇気が要ったものの、この場に横槍を入れられるのは若干一名サックスしかいないようなので仕方がない。ただの部下とはちょっと違うサックスの特権だと思えば勇気の一つや二つ。
 しかしクラーリィの耳にはちっとも入らなかったようで、サックスは数回呼び掛けねばならなかった。降り立たせた勇気がその度にすり減っていくのがよく分かる、絞り出す声がどんどん生気を失っていく。
 結局先に横槍に気付いたのは叱られていた部下の方で、部下の注意が逸れたことでクラーリィはサックスの横槍に気付いたようだった。

 ぴたりとクラーリィの罵声が止む。その代わりに現れたのは、肌で感じることができるほどの怒気、むしろ殺気。それが一直線にサックスの胸元へと飛んできて、ぐさりと急所を一突きにできる瞬間を今か今かと窺っている。
 しばらく睨まれた後、サックスはクラーリィから「黙ってろ」と簡素なお言葉を戴いた。
「とは言われましても、まあ、その、大神官サマ、これ以上怒っても進展ないだろうし、お仕事しましょうよお仕事」
「……」
「その方が建設的だと思いますよ、なんて……えへ」
 もう少し普段から仕事に真面目なキャラを演じておけばよかった、なんてサックスは後悔するがもう遅い。そうすれば今の台詞にもっと説得力があったに違いない。クラーリィがこの言葉を素直に受け止めてくれる訳がないとははじめから思っていたが、救われている立場のはずの部下にまで「おまえが言うな」みたいな顔をされるとはショックだ。
 クラーリィは勿論返事をしない。かといってこれ以上口を滑らせる訳にもいかず、サックスも無理して沈黙を保ってみる。叱られている部下が無言なのは言うまでもなく。
 重苦しい沈黙に息がだんだん苦しくなっていく。怒鳴り声の反響する部屋の居心地もなかなかに最悪だが、こういう無音の世界の居心地もまた最悪だ。呼吸ができないような気がする。吸い込んでも吸い込んでも空気を吸った気がしない。湿った布みたいな微妙な代物で胸を締め付けられているかのようだ。
 それに、サックスはこんな顔をするクラーリィが好きじゃない。
「大神官」
「……そうだな。そうするか。おいおまえ、もういいから」
 しっしっと、まるで虫でも追い払うかのように部下を引かせる。仕方がないのでサックスの方がフォローを入れて、思いだし怒りしないうちに下がった方がいいよとか囁く。張本人はこいつに間違いないが、ここまで事が大きくなってしまった以上こいつ一人でどうこうできる段階はもうとっくに過ぎてしまった。今からこいつができる挽回は少ない。
「おまえ」
 サックスの勧めに従い立ち去ろうとした部下をクラーリィが呼び止める。びくりと肩を震わせて、慌てて後ろを振り返って。帰そうとしたのは拙かったかな、なんてサックスが様子を窺う。
 先程までの怒気はどこへやら、クラーリィはさらっと「二度目がないようにしろよ」とだけ言った。
「失敗は成長のためにある。俺もおまえもただの人間なんだから完璧にはなれん」

 今度こそクラーリィは部下が退出するのを見送った。彼の出て行った後も、執務室はただひたすらに無言。パーカスが軽い出張に出掛けてしまって、サックスが一日執務室に入り浸って仕事をする、という本日の予定が立てられた辺りでこの運命は既に決まったものだったのかもしれない。
 どっと疲れた。肩が重い。二人きりなのにとてもじゃないけど、わあい二人きりだあなんてふざけるだけの心の余裕が今のサックスには残っていない。
「……だいしんかーん」
「あん」
「怖いです……疲れました……」
「おまえそんな仕事してねーじゃねえかよ」
「おまえが大変なのはこれからだ! とか言うんでしょ」
「分かっているな。『お仕事しましょうよ』と言ったのは他ならぬおまえだからな」
「ええ、ええ、そうですとも」
 ほらきた、なんて声に出しはしないもののサックスは黙ってため息をつく。正直自分でも少し「ああ言っちまったな」とは思った。言い出しっぺの法則なんて厄介なものがある。怒られ続ける部下に助け船を出して、クラーリィの愚痴やら憂さ晴らしやらを中断させたのは他ならぬこの自分だ。そりゃいつまでもあの部下に対して憂さ晴らしをして頂くわけにはいかないけれど、彼の言う通りクラーリィだってただの人間、どこかで憂さ晴らしをしておかなくては彼本人がパンクしてしまう。その矛先がサックスに向かうのだとしても、まあ、今回は特に仕方がない……
 ところがクラーリィは、一度ペンを机に転がすと頬杖をつき、あからさまにサボっていますというポーズのまま「おまえバカ」とだけ呟いた。てっきりもっと酷い罵倒でも来るかと思ったのに、随分拍子抜けの代物に留まっている。
「バ……バカとか」
「礼を言おう。やり過ぎるところだった。水を差してくれたことについては感謝する」
 咄嗟に何を言われたのか分からなくて、サックスは数秒もごもごした末に変にうわずった声で「はい」とか言ってまた黙った。珍しい、クラーリィのやつ。ただでさえ日々クラーリィに攻撃されてぼろぼろになっているというのに、サックスのおんぼろな心臓が一瞬止まってしまった。
「だがおまえは言ったな。言ったことには責任を持てよ。俺と一緒に地獄を見るか」
「ヒャー! やだねこんな殺し文句。いやだねぇ! 人が断れないこと知っててこんな言い方するのよ。やだねー!!」
「気持ち悪い照れ方をするな、おまえ」
 うるさいやい、とは言ったけどそれ以上サックスの口からは何も出ていかなかった。クラーリィと一緒に地獄観光だなんて、なんと素敵なお話だろう。できるものなら是非にやってみたいものだ。堕ちる先が同じ地獄とはロマンティックにも程がある。
 まあ今回の「地獄」がそういうもんではないということくらいサックスにだって分かっているけれど、敢えてこの単語を選んだクラーリィにもそれなりの思惑があるはずなのだ。クラーリィは頭がいいんだから。サックスを手玉にとって喜ぶような男なんだから。
 サックスは真っ赤になった顔を隠すように仕事に取り掛かる。ようやく頬杖を外したクラーリィは、しばらくそんなサックスを指差して意地悪く笑っていた。


 ***


 クラーリィのきりりとした横顔を眺めながら、サックスはそっと息を吐いた。あんまり大げさにやって周りに気付かれると「気を抜いている」とか怒られるので、誰にも気付かれない程度に小さく細く。
 吐いた息は小さく渦巻いて前方の空間に溶けていった。そしてその先に、部下に指示を出す小さなクラーリィの横顔。この年齢でありながらも流石と言わしめるだけの纏う気を彼は持っている。勿論積み重なる経験も下地としてあろうが、やっぱりこの辺は天性もあるかと思う。血筋的には全く以て一般と変わらない庶民でありながらも非・庶民の仲間入りができるだけの何かが彼にはあるに違いない。その言葉に見えない力を感じるのは、ただ彼がサックスの恋人だからというわけではなく、大神官という神職を頂いているからだけでもないだろう。
 そんな感情が、いつもあの横顔を眺めると沸いてくる。

 学生の頃は訓示なんてそこそこにしか聞いていなかったくせに、いざ話す側になるとクラーリィの訓示もあまり短くなかった。まあ、長くもないと思う。ただ少々回りくどい表現をすることが多いのが玉に瑕だ。言うときは言うくせに、サックスにはその辺の線引きがよく分からない。間も多いし。
 悶々と考え込んでいる内にクラーリィのありがたいお話が終わってしまった。結局サックスは話半分にしか聞いていない。今後を考えると少し不味い、あとで頃合いを見計らって部下から内容を「再確認」しておいた方がいいかも。聞いていた振りをして、遠回しに聞き込んで。場合によってはバレるかもしれないが、予めクラーリィに告げ口しそうにない部下を選んでおけばいい。
 集中力が低下しているのは十中八九寝不足が原因だろう。
 クラーリィの前に「残業で疲れてて」なんて言い訳はそう通用しない。残業が増えた理由は先日の部下の大ミス。サックスの直属の部下ではなかったからサックス本人に責任と取る必要はあまりなかったものの、手伝うよと言ったのは確かにサックスだし、ここで「やっぱりやめた」なんて言うことはサックスのプライドが許さなかった。その結果がこれ。だが同じ条件のクラーリィは今もこうしてきりりとした格好いい姿で壇上に立っているのだから、サックスのこんな言い訳は通用しないに違いない。
 弱くぬるい風が吹き抜け、クラーリィの髪をゆるやかに浚っていく。きらきらときらめく金糸が本当に綺麗だ。あの黄金色の元に集うことができた我々は恵まれている。正義だとか、理想だとか、そういう青臭い理想を追い求めることのできる力が内に眠っているにも関わらず、而して「庶民」である彼と同じ時代に生まれることができて自分は幸せ者だった。
 恥ずかしいから面と向かってこんなこと言いやしないけれど、サックスはたまに真面目に考えることがある。そんな彼・クラーリィの支えとなれたことは幸いだし、彼が己の実力を認めてくれたことは嬉しいし、隣に立てるだけの実力を得るに至った己を褒めてやりたい。自分だって彼と同じく血統的にはただの人間に相違なく、スタート地点はみんなと一緒。クラーリィには敵わないけれど、彼の足を引っ張ることはない適度な実力が持てて良かったと思う。
 背中を眺めることしかできないのは結構寂しいものなのだ。守って貰う、っていうのもいい。彼の背中を眺めている限りサックスは安全だろうし、クラーリィは強いからそうそうのことでは倒れもしないだろう。世界中のどんな盾よりも強い盾となって、望む人々を守り続けるに違いない。けれどサックスはそれを望まなかった。隣に立ちたいと思った。その背中を預けて欲しいと思った。預けるだけの実力が己に欲しいと願った。
 彼に、どうか己を頼って欲しいとそう思い、決して独りにはならぬよう祈った。

 その結果が今の立ち位置。壇上に上り、部下たちに訓示を述べるクラーリィの横顔をじっと眺めている、中途半端に高い場所。学生の頃はまさか自分がこんな場所に座ることになるとは微塵にも思わなかった。どちらかというと、もし偉くなれたらこんなつまらないイベントはなくしてやるぜなんて思っていた。結局サックスには大人になるまでこういうイベントの重要性が分からなかった。スフォルツェンド魔法兵団は由緒正しき軍隊だ。頭に「大神官」なる聖なる役職を戴く限り、守り続けねばならぬ戒律も多い。
 話し終わったクラーリィが踵を返して戻ってくる。メインディッシュに近い大神官の訓示が済めばこの式典ももうすぐ終わる。終わったらいの一番に「お疲れ様です」と声を掛けようなんて相変わらず脱線した考えを漂わせながら、サックスは司会者の言葉に耳を傾けていた。



「お疲れ様です!」
「……ああ」
 お疲れ、なんてクラーリィが素っ気ない言葉を返してくる。言葉通りお疲れのようだ。前回の式典の時も似たような反応をされた。いつだか言っていた「訓示なんて俺の性に合わない」というクラーリィの呟きは、存外クラーリィの本心を映していたのかもしれない。
 他にも大勢の部下がいる手前、クラーリィはそれ以上の言葉をサックスには投げ掛けない。仲のいい素振りは勿論、幼馴染みっぽい動作すらしない。
 そんな彼が珍しく、サックスの名を呼んだ。
「……サックス」
「はい?」
「悪いんだがちょっとばかし使いっ走りに行ってきてくれ」
 微塵にも悪いなんて思ってない癖に、とは思ったけれどサックスは表情にすら出さなかった。クラーリィのこういうところは既知の問題点だ。周囲にもしっかりお墨付きの人遣いの荒さ。あとは前述の通りお仕事中になると途端におかしくなる話し方。
 でもたぶん、人遣いが荒いのはその相手がそれを任せてもきっとやり遂げると思っているクラーリィの信頼の裏返しだろうし、異様な間の長さも仮にも軍事最高権力者たる己が何か不味いことを言ってはいけないという慎重さの表れだろうし、ただの欠点だとは思わない。
「了解です」
「サックス」
「はい?」
「すぐ終わるはずだ。素早く行って素早く帰ってこい。寄り道はするなよ」
 一瞬「子供のお使いじゃないんだから」とコメントしそうになって慌てて引っ込めて、サックスは居住まいを正す。
「しません大神官」
「と、言いたいところなんだがもう一つ頼まれ事をしてくれ。指示は中に入っているから」
 そう言うなりクラーリィは何か小さな物体を投げつける。慌てて手を伸ばしたサックスが受け止めたのはごく普通の小銭入れだった。強いて言うならクラーリィの持ち物にしてはファンシー過ぎるかなというくらい。でもよくよく考えればこれは少し年季の入ったクラーリィの私物で、コルにいつだかプレゼントして貰ったものを本人が大事に大事に使っていたもののはず。大事にしているがゆえあまり見かけたことがなかったが、そういえば見覚えがある。
 仕事中にクラーリィの私物?
「ホレ、とっとと行け」
 はじめは部屋で指示を確認しようとしたサックスだったが、クラーリィの声に急かされて執務室を後にする。まあわざわざ紙に書くくらいなんだからあの場で確認するようでは意味がないんだろう。
 財布の中には小銭と小さな手書きのメモが入っていた。サックスは廊下を進みながら珍しい口頭ではないクラーリィの指示に目を通す。
 ――小腹が空いたからアイス買ってきてくれ。

 仕事が済んだらクラーリィの頭を一度叩いてやろうとサックスは決心した。


 ***


「おまえホントあり得ないわ……」
「うまっ」
 クラーリィはサックスの小言など全く聞いていないのか、小休止時を狙って帰ってきたサックスの好意を最大限利用して、奥まった小さな休憩所で賢明にアイスを頬張っている。
 時間的に余裕があるわけではないので、あまり味わって食べているようには見えないが、まあ片手間に買ってこられる安物の普通のアイスなのでサックスが特に文句を言うアレはない。せいぜい「トイレ」とか言って出てきたのだろう、あまりここに長居するわけにはいかないのだろうし。
 クラーリィが冗談抜きで頑張っていることはサックスが知っている。特に今日は朝から式典が一式入っていて、その後もフル稼働で先日の部下の事後処理に追われることが確定している。そのうえ通常の業務もそのままやってくる、こちらに響かせるわけにはいかない。
 だから、これくらいの休憩なら許されて然るべきだ。メモを見つけた当初こそ頭の一つでも叩いてやろうと思っていたが、行って帰ってくる内にそんな気は失せてしまった。

「流石に、はむ、疲れた」
「食いながら喋るなよ行儀わりィな。肩でも揉んでやろうか?」
 クラーリィはもぐもぐしながら首を振る。遠慮しなくてもいいのに、と言ってもやっぱり首を横に振る。
「クラーリィ」
「あむ?」
「……無理して返事しなくていいから……」
 ちょっとばかし真面目な声色にしてみたがクラーリィには伝わらなかったらしい。それどころか相変わらずアイスを片方の頬に突っ込んだ間抜けな顔でこちらを見られたせいで肩透かしを食らった。もう少しタイミングを見計らえば良かった、なんて今更反省したところで手遅れなのだけれど。
 アイスのあらかたがクラーリィの腹の中に消えたところで、もう一度サックスはクラーリィの名を呼ぶ。こんどは真面目に「何だ」と言語で返答してくれた。
「仕事中はさ、偉そうだからあんま部下の俺からこんなこと言えないけどさ……責任も取れないし……」
「ん?」
「無理しないでよね、俺はさ、過労で倒れるおまえとか見たくないからね。部下としても。恋人としても」
「……心配するな。自己管理も能力の内だ。俺は無理しない。こうやってずるい休憩法も取る。偉そうな顔をしてアイスを買いに行かせて、ついでに恋人と息抜きタイムまで作る程度に俺は狡賢なんだ。おまえに心配されるほど煮詰まっちゃいない」
 サックスは若干の間をもって「ああなるほど」なんて素直に感心して見せた。クラーリィの言葉の全てを心から信頼するわけには少しいかないけれど、クラーリィが休息や協力の重要性を認識しているのならまだ安心できる。そして『恋人と息抜きタイム』なんて珍しい表現を使うに至ったクラーリィの心情を推し量るに、ほんの少しだけ罪悪感が昂じ、同時に疼くような胸の痛みを連れてくる。
 クラーリィは立ち上がった。
「さあ戻るぞサックス」
「はいよ」
「……サックス」
 ソファに忘れ物がないか確認していたサックスはふと顔を上げる。珍しく真面目そうなクラーリィの声。だけれども、仕事のそれとは少し違う。ごく些細な違いで、サックスには明確に相違点を指摘することができないけれど、たぶん気持ちのこもり具合がその主たる原因であると思う。今のこの短い言葉には、己の名には、確かにクラーリィの極めて個人的な「気持ち」がこもっている。
 なに、とサックスは返す。
「おまえは、もっともらしいこと言って正当化してたけど、……俺はどっちかと言うとおまえと対等であった方が嬉しい。おまえの言い分は尤もだ、この件に関してはおまえの方が正しい。だからこれは俺の単なる我が儘だ。
 ……なんか意味不明でごめん」
 クラーリィは既にドアの方を向いていて、その背後に立つサックスに彼の表情は伺えない。声色からなんとなく想像することはできるけれど、下の方を向いて、どんな顔をしてこんな曖昧な呟きをしたのかサックスには分からない。
 考えること数秒。サックスは理由のない確信と共に、分かった、なんて呟く。
「なにが?」
「私生活にお仕事モードを挟むのはやめるよ。嫌ならもうしない」
「……」
「やなんでしょ、俺にプライベートまで部下面されるの」
 クラーリィは返事をしなかった。動きもしない。もう一度忘れ物確認したサックスがそっと近づいて、そっと背中を突いて、ようやくまた動き出す。
 廊下へ一歩踏み出すなり「ふう」と彼は大きく息を吐く。
「……なんだおまえ、いきなり」
「違う?」
 当たりでしょ、とサックスは念を押す。こちらも伊達にクラーリィの恋人を自負していない。サックスだって多大なる権力と責任とそして実力を持つ彼の恋人なりに、いろいろ考えたり行動したりしているのだ。侮って貰っては困る。こちらはこちらで、彼に相応しい人間になろうと日々努力しているのだから。
 クラーリィはうんともすんとも言わなかった。そして、否定もしなかった。
 サックスの推測は当たりらしい。
「別にさあ、俺おまえの下僕、とか、俺がおまえに対して感じているのはただの主従関係だとか、そういうのないからね」
「……」
「ごちゃまぜが気に食わないなら改めるよ。おまえは公私において特に線引きはっきりタイプだからな」
 流石に照れ臭くなって「俺おまえの恋人だし!」と付け加えたらようやくぺしりと叩かれた。このくらいでちょうどいい。下手に気落ちされたり真面目な顔をされたりすると、どうも調子が狂っていけない。

 そろそろ廊下が終わってゴールが目の前に現れる。クラーリィは先を歩いているのでどんな顔をしているのかサックスにはいまいち分からなかったものの、少なくとも先程よりはいい顔をして歩いているだろうということは推測できた。でなければこんな足取りにはならないだろう。
 じゃあ、とクラーリィは呟く。おう、とサックスが応える。
「仕事だ仕事。頑張ろうな」
 サックスはちらりと前方を見て、境界線たる執務室のドアを視界に入れつつ黙って頷く。ここはまだ廊下だからクラーリィ式の分類は「私」かもしれないけれど、既にドアの前の近衛兵の耳には届く距離になってしまっているので「公」かもしれない。正しい返答がどちら側のものか確信できないため、サックスは無難に頷くだけという選択をした。
 いつの間にか振り返ってサックスの反応を窺っていたクラーリィは、「ずるい」なんて言って笑っていた。


 ***END



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