なみのおと



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 波の音がする。こんな北の外れに珍しい。
 ピックは顔を上げる。部屋の隅に人影、感じるのは慣れた気配。
「よう」と、ヴォーカルは言った。

 ヴォーカルはそれきりピックの反応など無視してこちらへ近寄ってくる。ピックの貴重な読書の時間を邪魔したことや、そもそも部屋の主に何の断りもなく部屋へ侵入したことについて、何ら反省はしていないらしい。まあ、分かりきったことだ。ヴォーカルが斯様な芸当を身に付けたら、それは天地が滅ぶ前触れか、或いは中身が別人か。
 渡した鍵、使うということを覚えてくれたようだ。入ってくる音に気付かなかったということは、今回はドアを蹴破っての乱暴な侵入はしなかったということになる。

 先程の波の音はヴォーカルの持つ箱がその発生源のようだった。箱は紙製なのだろうか、あまり品質の良い代物には見えないが、中に何か入っているらしく彼が歩く度さわさわと珍しい音を鳴らす。
「……何ですか、それ」
 持ち主の柄に似合わずずいぶんと風流なものを持ってくる。北の都も大陸の外れまで行けば海があるものの、ピックの居城付近に海はない。……波の音を聞いたのなんて実に何十年ぶりといったところ。
 ヴォーカルはピックの問いには答えず、ただ「いいだろコレ」と言って笑った。自慢したいようだ。
 読書の時間を邪魔された怒りはあるものの、珍しいお土産に免じて許してやってもいい。何だかんだいって見つけてきた新しいものを満面の笑みで真っ先に見せびらかしにやってくる年下の恋人を、ピックはどこか楽しみにしている面がある。
 この悪魔らしからぬ心の広さを、是非に感謝して頂きたいところだ。
「どうしたのです? 波の音がしますね」
「拾った」
「盗んできたのではなく?」
「持ち主はもう死んでるんだからどうでもいいんだよ」
 ピックは黙った。死んでいたのか、それとも殺したのかは知らないが、まあ大差ないことだろう。こんな風流な代物を作る魔族なんてほぼいない。制作者は人間だろう。廃墟から見つけてきたのか、それとも殺戮先にこれが置いてあったのかは知らないが、まあどちらでも構わない。ピックにとって人間の生き死になどどうでもよいことだ。
 ヴォーカルはピックより少しばかり距離のある机の近くで立ち止まった。机の上に置いてある何かを彼は黙々と眺めている。何を置いたのか忘れてしまったがそう面白い代物ではなかったはずだ。彼は意図的にこれ以上ピックに近寄ろうとしないらしい。
 詳細を見たいと思ったのなら、これ以上はピックの方が距離を詰めねばならぬようだった。相変わらずヴォーカルは、一方的に己が与える側には回りたくないという分かりやすい自己表現をしている。己の持ってきたものに興味があるのなら、それに相応しい行動を取ってみろという主張。ヴォーカル曰く、一から十まで理性的で隙のない動作をされると腹が立つらしい。まるで馬鹿にされているかのように思うのだとか。
 言葉にはもちろん、顔にも出さずに「やれやれ」とピックは息を吐く。読んでいた本を横に置き、ピックはソファから立ち上がる。
 つかつかとヴォーカルに近寄っても彼は逃げる素振りを見せなかった。ぴたりと目の前に立ち止まると、ヴォーカルはご親切にももう一度箱を傾け、あの音を鳴らしてくれた。
 何とも形容しがたい音色。ただの箱にしか見えないというのに、深い波の音が聞こえる。
「風流ですね。いい音です」
「だろ」
「その箱、開けてみましたか」
 ヴォーカルは首を振った。ピックの言葉に興味をそそられたのか、箱を机の上に置くと四方を見回して開けられそうであることを確認する。どうせ勧めても座らないだろうと思ったピックは黙ってその辺の椅子に座った。頬杖をついて、箱相手に遊んでいるヴォーカルを眺めている。彼がいわゆる「子供っぽい」類の存在なのか、それとも己が達観を気取っているからなのかは分からないが、やっぱり彼は力を持て余している節があるように思う。ケストラー様の膝元にいる安心感からちっともこの場所を動こうとしない己とは違い、彼は世界各所に出掛けては見聞を広めているらしい。まあ「見聞を広める」なんて言葉が似合うような文化的な訪問はしていないだろうが……だが、少なくとも本の中身で満足している己より幾分健康的だろう。百聞は一見にしかずなんて言葉もある。本ばかり読んで内外に博識と思われているこの己よりも、ヴォーカルの方がより詳しい事例が実はたくさんあるかもしれない。今日だって見たこともないものを持ってきてくれた……
 だからこそ、「これ」と付き合うことが楽しい。

 ヴォーカルは浮きかけの蓋と思わしき部分にそろりと指を引っかける。案外簡単に箱は開いた。
 ――中にはたくさんの小豆。
 たったそれだけだった。この箱が波の音を奏でていたたった一つの理由は小豆だったらしい。ヴォーカルは他にも仕掛けがないのかと蓋の裏や箱の底やらをしばらく調べていたが、結局何も見つからなかった。
「……なんだコレ。食い物か」
「小豆という豆の一種ですよ。人間の食料です」
「食い物なのか」
「おいしいとは思えませんが……もう傷んでいるかもしれませんよ」
 ピックの話もそこそこに早速一粒摘み、まさに口に放り込もうとしていたヴォーカルだったが、ふとピックの顔を見るなり彼は手を止めてしまった。
 妙なばつの悪さを感じたピックは思わず「何です」と呟く。
 あからさまに嫌そうな顔をしたヴォーカルはそのピックの反応に舌打ちをする。失礼な男だ。理由を話してからでも良かろうに。
「なんだよその顔」
「……何がです?」
「なんかその、なんだ、むかつくから止めろその顔。一粒くらいいいじゃねえかよ。なんだその顔」
 ピックは反応に困って咄嗟に上手い切り返しができなかった。とにかくヴォーカルにとって今の己の顔は、一言では言い表せないほど不愉快にさせられる顔をしていたらしい。全く自覚がなかったが、余程自分は小豆を食うなという顔をしていたようだ。
「法皇様とか自称してるくせによー、豆一つでンな顔すんじゃねーよ……まだいっぱいあるじゃねーかよ。第一俺が持ってきたんだぞコレ」
「そんなに残念そうな顔をしていましたか」
「ああっ? 喧嘩売ってんのか? おまえのそういう顔はよ、俺がそのまま豆食ったらまるで馬鹿みたいなそういう顔だからホントにむかつくんだよ」
「そうですか……ですが、お腹を壊すでしょうから食べない方がいいと思いますよ。火も通っていないようで……」
「あーあーあー分かったよ分かったよ食わねえよ分かったよ。うるせえなあ分かった分かった」
 ピックの忠言を遮って、ヴォーカルは摘んでいた豆を箱へと戻す。ここまで言われて逆に意地になるほどヴォーカルも子供ではないらしい。散々食い下がるピックに嫌気が差してしまったようだ。
 だって。だって、この豆が波の音を醸し出した理由が分からない。本当に何の仕掛けがなかったのかもしれないし、気付かないだけで豆に何か細工でもなされているのかもしれない。それなのにヴォーカルにほいほい食べられてしまったのではピックの好奇心は満たせない。もしこの制作者がこの世にたった一人で、その一人をついさっきヴォーカルが殺してきてしまったのなら、この箱を最後にその真相が閉ざされてしまうことになる。
 そりゃあ一粒二粒減ったところでなんの問題もないだろう。この箱の中には底を埋め尽くすほどの小豆が入っているわけで、ほんの少し摘む程度ならばほとんど何の影響もないだろうと思う。だから、食い下がったのはピックの我が儘。そして他人相手なら完全に無視して口の中に放り投げていたところを、わざわざ食べる直前に顔色を窺ったのは、その恋人ヴォーカルの持つ微々たる配慮。
 ヴォーカルはしばらく箱の中を見つめると、これ以上変な気を起こさないようにとでも思ったのか蓋を被せてしまった。
「おまえはコレのこと知ってんのか」
「いいえ。初めて見ました。食料としてならばこんな箱には入れないでしょうから、これは当初思った通り波の音を楽しむための楽器……なのかもしれません」
 どこで見つけたのですか、とピックは問い掛ける。しばらくヴォーカルは考えて、素直に「山の方」というアバウトな返答をしてきた。
「何か関係あるのかよ」
「人間の命は短いですし、我々のように強い力もなければ空を飛ぶことすらままなりません。山の方に暮らしているのなら、海なんてそうそう見には行けないでしょうね。もしかすると、一生涯海を見ないなんて人間もいるのかもしれません」
 突如始まったピックの解説をヴォーカルは半ば面倒そうな顔で聞いていたものの、幸いにして今日は機嫌がいいらしくそこそこ耳を傾けていた。まあ、元々ピックにお土産を持参してくれるくらいなのだから、今日のヴォーカルはえらく機嫌がいいのだろう。
 ああ、とかふん、とかいう適当な相づちを挟み、ピックは自説を展開する。
「そんな人間たちが、せめて気分だけでも味わおうと波の音を再現してもおかしくないでしょう。海に焦がれた山の人間が、こんなもので海に思いを寄せていたのかもしれませんね」

 ヴォーカルは返事をしなかった。そもそも話を聞いていたのかどうかも分からないが、とりあえずピックの話が終わったことだけは分かったらしく、再び箱を手に取るとゆっくりと傾ける。さらさらとまたあの音が聞こえてきて、やがて空気に溶けて消えていく。
 数回傾けることを繰り返したのを見届けて、ピックはヴォーカルの名を呼んだ。
「あ?」
「で、これ、くれるんでしょう?」
 ヴォーカルは一旦反論しかけたと見え、中途半端に口を開けたもののそこから先の言葉がなかった。こんなもの持っていてもヴォーカルには何の得にもならない。けれど、素直に「おまえにやるよ」なんて言う可愛げも持っていない。
 うんともすんとも言わないヴォーカルから黙って箱を受け取って、ピックは笑いながら「ありがとう」と言った。
 ヴォーカルに動作が戻ってくる。
「おい、てめえ、悪魔のくせに礼なんか言ってんじゃねえよ」
 気色悪い、とヴォーカルは吐き捨てる。彼は分かっていないようだ。
 その後もしばらくぎゃあぎゃあ彼は何事か文句を言っていたが、ピックはあまり耳を傾けていなかった。ヴォーカルのあまり品がいいとはいえない台詞を一から十まで聞いていては耳が疲れる。どうせ内容なんてないに等しく、ただの愚痴、もしくは暴言。
 ピックは黙って箱を揺らした。北の都には似合わない涼しげな音がこの部屋に響く。人の開発したものとはいえ、しばらくはこれで遊べそうだ。殺風景なこの部屋にほんの少し心の余裕を呼び込んでくれることだろう。どんなに天気が悪くても、空気が澱んでいても、そして部屋が闇に包まれていたとしても、この箱からは変わらぬ美しい波の音がする。
 ヴォーカルに背を向けて、部屋の隅のソファに腰掛ける。すっかり存在を忘れていたが、ソファには先程まで読んでいた本がぞんざいに放られたままだ。拾い、しおりを挟み、そのままそばのテーブルへ並べる。来客者を無視して続きを読み始めるなんていう手もあったが、なんとなくそんな気分にはならなかった。
 ヴォーカルはというと、しっかり後を追いかけてきて、こちらの手元を覗き込んでいる。
「無視か」
「いいえ。聞いていますよ」
 以前は「無視するな」と言わんばかりの鉄拳が飛んできたものだが、最近少なくなった。むしろ、全体的に口より先に手が出るなんてことが減ってきた。その後しばらくピックが口をきかなくなることをようやく学習したのか、無視されることが思った以上に悲しいことだと彼の中で整理でもついたのか。
 何にせよ、ちょっとは可愛くなったじゃないか、なんてピックは思う。思っていても絶対に口には出さない。そういう虚飾まみれの彼だからこそいいのだ。いかにも強そうな言動をして、乱暴者のような風体をして、なのに本当にたまに、ほんの少しだけ、無意識のうちに彼の本質的な弱さが見え隠れする。まるで完全無欠のような存在でありながら、その実ケストラー様に縋っていないと生き存えることの難しい魔族という一種族を象徴するかのような、そんな一面。彼は事あるごとにケストラー様を嫌う言動を繰り返しているが、彼とてケストラー様に始まる無間の連鎖からは抜け出せないのだから。
 我らが王ケストラー様は勿論、我が主たるベース様もまたピックにはないすばらしいものを持っている。けれどヴォーカルもまた、おそらくはピックの手に入ることはない、ピックの持つそれとはベクトルの違う何かを持っている。
 さらりと手元の箱を動かす。遠く打ち寄せるような波の音。海の色ですら忘れそうになっていたピックの心に、随分と鮮やかにあの蒼さを思い出させてくれるような音。あの蒼さが、あの海面の燦めきが、今にも浮かんでくるかのようだ。頬に当たる潮の匂いですら思い出せそうな気がしてくる。
 ヴォーカルがすぐそばに突っ立ったまま動こうとしないので、「読みますか」と先程の読みかけの本を差し出してみた。当然のようにごく嫌そうな顔とともに首をぶんぶん振られる。
「そんなつまんねえモン読んでなんかいーことあんのかよ」
「暇潰しにはなると思いますよ」
「なんねえよそんなモン。潰すにしたってもっと楽しいことがいっぱいあんだろー? ハッ、子守歌にはいいかもしんねえなあ? てめえ嫌がらせしてんのか」
「ええ、まあ。私、あなたのその嫌そうな顔が好きなんです」
「はぁっ!?」
 思惑通りの不愉快そうな反応。か弱い魔族ならば震え上がって謝り通すようなこの顔。そして、他人相手ならとっくに殴るか最悪殺されているだろうこの状況。……なのに、ヴォーカルはピックに手を出さない。
「私は悪魔ですからね。嫌そうな顔とか、辛そうな顔とか、大好きですよ。あなたのその嫌そうな顔も好きです。なので、見るためには嫌がらせをしないといけません。ね」
「……返せそれ」
「嫌ですよ。もう貰ったので私のものです。あげませんよ」
 さっきの「ありがとう」だってただの嫌がらせ。そういう言われ慣れないことを言われて変な顔をするヴォーカルを見るのが楽しいだけ。これ見よがしにぎゅっと箱を抱き締めてみたら、流石の彼も怒り心頭に発したらしく自慢の角を掴まれた。痛いですよ、とか言って振り解く。案外簡単に振り解けたものの、今度は腕を掴まれた。仕方がない……ピックは空いた手でそっと箱をサイドテーブルへ安置する。折角の代物なのに、壊されてはたまらない。
「離してくださいよ」
「聞こえねえな」
 これはもう人の意見を聞き入れることはないだろうと察知し、ピックは諦めて上を向いた。ソファに戻ってきて良かったと思う。久しぶりに見上げた天井に向かって今度大掃除をしようかななんて独り言をすると、苛ついてきたらしいヴォーカルにまたも角を掴まれる。「痛い」と文句を言って、結局黙っていることを条件に離して貰った。流石に少し嫌がらせが過ぎたかもしれない。
 視界の隅に、海色の箱。今度ヴォーカルが北の都を飛び出すときには、是非に自分も連れて行って貰おう。そのついでに「海に行きたい」なんて言ってみよう。案外彼は素直に案内してくれるかもしれない。きっとピックが地図でしか知らない場所を、そして地図にも載っていないような素敵な場所を、ヴォーカルはたくさん知っているし見たことがあるに違いない。
 ピックはそっと目を瞑る。耳の奥にまだ波の音が残っているような気がした。


 ***END



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