火を



 ***


火をつけろ、
燃え殻が灰になり風に吹かれて消えるまで、
火をつけろ、君の心臓に、銀の盆に載せられた君の心臓に。

「マッチ棒ならここにある」
「無駄口は結構」
「いや、そういう続きなんだよ」
「あ、そうなのか、そりゃ悪かった。続けな」
 黙って不満げな顔をするシコードのことを、クラーリィは最初から徹底的に無視する気でいた。賭けを言い出したのはシコード、条件を提示したのもシコード。賭けに勝ったのはクラーリィだ。文句を言われる筋合いはない。
 シコードは視線を落とした。手元の分厚い児童書に視線は注がれている。かなりの年代物で、ところどころ古の言語が紛れ込んではいるのものの、シコードの知識量なら難なく読むことができるだろう。
 クラーリィが読み聞かせの材料としてチョイスしたのは随分と埃を被った児童書の類。児童書にしては分厚いし内容が暗いものの、その辺は全て考慮した上でシコードに渡してある。
 読み聞かせには最適だ。過去はこうしたクソつまらない内容の読み聞かせが英才教育の一環として行われていたのだろう。クソつまらない内容――とはいったものの、実際読む人間により読み聞かせられる人間が受ける印象は大きく変わる。将来その子供が魔導の道に進むかどうかはその読み手の力量にかかっていたといっても過言ではない。今でこそ廃れてしまったが、随分昔に行われた「読み聞かせ」という行為そのものはとても意味のある儀式のような存在だったのだ。これは児童書のかたちをしているだけで、本来の用途はそれではない。児童書らしからぬ魔力がこの本には込められているし、文字はきちんとした規律に則って並んでいる。本来は言葉に出すときの抑揚だって決まっている。この本がその子供の興を惹けば、それは即ちその子供に合った系統の魔法だということ。
 さぁ、とクラーリィは迫る。
 このクソつまらない児童書の形をした魔導書を、おまえはどこまで俺に興味を持たせるように読むことができるのか?
 俺は過去に、実におもしろおかしくこの本を読めた人のことを知っているよ。

 私はきみを貶める、と続けるシコードの声が随分と暗い。

「私はきみを貶める。きみは私を憎むだろう、恨むだろう、炎のように注ぐ言葉が、氷のように凍える声が、私の心を震わせる。
 きみが魔道に堕ちていくのを、私はただじっと見つめてこちら側で待っている。きみの目が開けるその瞬間を、絶望を、私はいつまでも待ち焦がれてやがて心臓をも火にくべてしまうだろう」
 こんなつまらない話を聞いた子供のうちの何人が、この文の中に潜む魔導に気付き心を奪われたことだろう。言うまでもなく、クラーリィは奪われた側の人間だ。あの瞬間の燃えさかるような熱を、何もかもを凍り付かせる冷たさを、きっと一生忘れることはないだろう。
 この文章を仕込んだ人間が憎いとすら思う。暗い児童書を装って、魔導に転がり込む人間を何人も何人も作ってしまった。きっともう生きていないし、歴史にだって名を残すことはなかったのだろう。けれど同時にありがたいとすら思う。本当に魔導に愛されて生まれた子は、この児童書を聞いて何かしらの反応を示す。今や教育者の立場となったクラーリィは、そういった反応を示す子供を重点的に育て上げればいい。それだけで魔法兵団はより強固なものへと変貌していく。
 今はもっと簡単にその子に合った系統の魔法を探し出す術がある。過去とは違い、努力すれば己が得意としない系統の魔法だって習得できるようになった。けれど、重厚に何段階にも編まれたこの本だからこそ発掘できる才能もある。
 この本に組み込まれた魔法はクラーリィの得意系統とは違う魔法だ。それでもこの本はクラーリィに強く強く影響を与えた。だからわざわざ書庫をひっくり返してこの「児童書」を探してきたのだ。この本に出会わなければ、あるいは今クラーリィはこの立場にはいなかったかもしれない。ここまで多種に亘る魔法を使いこなすことはできなかったかもしれない。
 これは、子供のような無邪気さを装った悪魔の書だ。

 シコードの言葉を半分ほど流しながら、クラーリィは回想に浸っていた。それに気付いたのか、ページをめくるついでにシコードはつんとクラーリィの鼻を小突く。
「聞け」
「無駄口は結構、とさっきも言ったはずだ。いいじゃないか、やっぱり素敵だな」
「……こんな内容でか?」
「そいつがいいんじゃないか、分かってないな」
 シコードはこの児童書が魔導書であることに気づいていないようだ。油断しているのか騙されているのか、あるいは気づかない振りをしているのかは知らないが、そんなあからさまに嫌そうな顔をするのを止せばいいのに。
 ちっとも面白そうに聞こえない。
「続けろよ、折角なんだから、最後まで」
「……確かに、負けた私が悪いのだが……」
 ぺらり、とまた一枚ページをめくる。挿し絵は一応あるもののおどろおどろしい絵柄ばかりでちっとも楽しくない。文字は過度に装飾されていて文字を覚えたての子供では絶対に読むことができない。だからこそ大人の出番なのだ。ごく穏便に子供の素質を見定めるための手段の一つ。
「俺はおまえの声が好きなんだ。おまえ、こうでもしないと黙ったままだろう。いいから続けろって」
「なら……ならもっと、楽しい話とか……」
 シコードは渋る。よっぽど「私はきみを貶める」のくだりが気に食わなかったようだ。自身が言い出して負けてしまった賭けの結果なだけに、クラーリィの嫌がらせとでも思ったのかも知れない。確かにこの二人の間をとって「貶める」とはなかなか笑えない冗談だが、クラーリィの本意はそこにない。それどころか、この児童書の表面的な内容に意味なんて一つもない。
 まだ気付かないのか、とクラーリィはため息を一つ。
「内容は暗いし、挿し絵も可愛くないし、話は長いし……どこが児童書なんだ」
「正確には『児童のための書』だ。児童書じゃない。そんでもってこれは、誰かに読んで貰わないとだめなんだ。自分で読んでも効果がない。……俺は昔読んで貰ったことがある。いい加減からくりが分かったか?」
 シコードはしばらく、本と隣に座るクラーリィの顔を交互に見比べて黙っていた。考え込んでいるようだ。
 そんなシコードを、クラーリィは黙って眺めている。早く納得しろ、愚か者。おまえなら集中すればこの本に込められた魔力にくらい気付くこともできように。
「あっ……ああ、うん、分かった。その、クラーリィ、なんだ……」
「ん?」
「趣味が、悪いな」
 クラーリィは黙ってシコードの頬を一発殴っておいた。人様の国の文化に向かって趣味が悪いとは何事か。
 ソファのすぐ隣に座っていたせいで、シコードが反応するよりもクラーリィの拳が届く方が早かった。痛い! とシコードが悲鳴を上げる。
「殺気くらい出せ!」
「別に殺す気はない」
「……気配を消したまま人を殴るんじゃない」
「悪意がないってことだよ。この俺に向かってスフォルツェンドの文化を小馬鹿にしたくせに、拳骨一発で許してやろうというんだから、俺はなんと心が広いのだろう。これも愛故というやつだな」
「……よく回る口だ」
 倒れた体をよいしょとシコードが立て直す。流石にこの本の希少性は理解していたようで、落とさないようにしっかり握りしめていた。
 体勢を崩した拍子にやや閉じかけた本の表紙を、シコードは黙って眺めている。
「おまえが黙ってるから俺が仕方なく喋ってるんだよ。俺が貴様に合わせてやってるんだ。感謝しろ、感謝」
 ちらり、とシコードが視線だけをこちらへ向ける。
「だから、こんな子供が興味を持たなさそうな表紙で、こんなつまらなくて暗い内容で、挿し絵もこんなにおどろおどろしい訳か」
「そうだ。子供本人が興味を持って読んでしまっては困るからな。最悪勝手に魔法が発動して人が死ぬ」
 さっきのは無視か、とも思ったもののそれについてクラーリィは特に文句は言わないことにした。反応がなかっただけでシコードには聞こえていただろうし、返答は今後の態度という形で現れることもある。特に今日ははじめから珍しくも賭けを持ちかけてみたりと妙な行動が多いシコードだから、表面に浮かんでこないだけで何か腹のうちに考えていることでもあるのかもしれない。
「じゃぁ……途中で読むのを打ち切ってしまってはだめなのだな。また初めからやり直しか」
「察しがいいな。その通り、振り出しに戻るだ。さあ頑張れ、また一ページ目からだ。今度は韻にも気をつけろよ」
「分かった。今日は大人しく言うことを聞こう」
 シコードはぱらぱらとページを頭に戻す。これまでの努力が水の泡だ。ただ、今度はその意味を理解しているからきっと先程より少しはおもしろおかしく読み聞かせることができるだろう。
「あ、シコード」
「なんだ」
「おまえが賭けに勝ったら、何をしようとしていたんだ」
「……別に」
「言えよ」
「今日はもう言わない。今日は負けだ、次の機会に回す。急ぎの用でもなし。……次の機会」
 次、とシコードは繰り返した。その言葉に意志を感じて、クラーリィは茶化すのをやめておいた。俺とおまえはもう随分昔に一度「次」を失っているじゃないか。また失うとも分からないのに「次」なんて不確実な約束をすることはできない。
 そうと分かっているからこそ、シコードは「次」と繰り返す。次の機会があるようにと、呪怨にすら近いような念を込める。そうしてこの世界に未練ばかりを塗り込めている。けれど、それは魂が迷った際の道標にもなってくれることが分かった。
 こいつはもう今日は何も言わない、と確信したクラーリィは掘り下げるのを諦めた。何かしら次の約束があった方がシコードは嬉しいのだろう。クラーリィはどちらかというと煩わしいと感じることの方が多いが、生きた時間軸が違ってしまった今の二人では価値観もだいぶ変わってしまった。
 けれど、責任を取ることのできない約束はしないクラーリィは、うんともすんとも言わない。シコードも返事がないことくらい分かっているのだろう、特に不満そうな顔もせずに本の方へ視線を落とした。
「おっと」と、クラーリィが止めに入る。
「ん?」
「隣から覗き込むの、結構疲れるんだよな」
 よいしょ、と問答無用でシコードの膝を押さえるなりクラーリィはその膝上に滑り込んだ。随分と寝心地の悪い膝枕だ。だが贅沢は言っていられない。
 案の定、シコードは「寝る気か」なんて文句を垂れる。
「おまえの話がおもしろかったら寝ない」
「……」
「つまらなかったらぐっすりだ。いいなぁ、おまえの読み方が巧くても下手くそでもどちらにせよ俺が得をするシステムだ」
「そうだな、おまえ様は頭がいいな」
「あっ、台詞取るんじゃない」
 恋人の、クラーリィの好きなその声を子守歌に寝入ることのできる幸せよ! どうせ読むのは下手だろうとクラーリィは踏んでいる。シコードが得意とする魔法はスフォルツェンド魔法とは根本からして少し違う。いくら優れた妖精武闘術の使い手だといっても、スフォルツェンドのある種の技術の結晶であるこの本をすぐに完璧に読み上げることなどできるわけがない。
 寝入ってしまうクラーリィを見てシコードは落胆するだろうか。気付いてくれるのなら幸いだ。過去に何があれ、この「クラーリィ」がそのすぐそばで無防備に寝入ってしまうくらいには今シコードのことを信用しているのだと。

 すう、と小さく息を吸う音。
「火を」から始まる薄暗い物語が、幕を開ける。


 ***END



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