暴食 1
 我が名は暴食。人はみな生きるために食べねばならぬ。


 ***


「お腹が空いたよ」とシコードは言う。
 ぽろぽろと涙を零しながら、無様にもクラーリィにしがみついて、彼は「お腹が空いた」と繰り返す。
 クラーリィはそんなシコードのことを哀れみの視線でもって見下ろしていた。放っておけばこいつはいずれ死ぬだろうし、それはスフォルツェンドにとってとても好都合な話だと思った。こいつの弟はまた大暴れするだろうが、今度こそ息の根を止めて見せよう。既にグローリア勢の勢力のほとんどを把握した。だから、潰そうと思えばいつだって潰せる。今はただ単に、国際社会の中で批判されないような絶好の機会を待っているに過ぎない。
 彼の願いを聞き入れてやるつもりはなかった。このまま朽ち果てろ、と心の底から思っていた。シコードが、次の一言を吐き出すまでは。
「もう、人を殺したくないんだ」

「なんだって?」
「苦しい、お腹が空いたよクラーリィ、助けてくれ、どうか助けてくれ……」
 シコードはクラーリィに縋り付いたまま動かない。先程何度か追い払おうとしたため、最早彼はクラーリィの信奉者のように項垂れた姿勢でなおクラーリィの服の裾を掴んでうずくまっている。
 クラーリィの怒声に近い声は、なぜかシコードにはほとんど影響を及ぼしていないようだった。
「シコード答えろ、貴様人を殺したのか!?」
「お腹が空いたよ」
「答えろ!!」
 ゆっくりと、シコードが顔を上げる。涙に濡れた瞳。くまができている。そういえば今日シコードはただ単に懺悔がしたい、グローリアにそういう風習はないから、スフォルツェンドの神官たる君に、という口実でやってきたような気がする。
 懺悔。懺悔の理由……クラーリィは脳内で、最近報告のあった殺人を可能な限り思い出す。どれだ。どれにこいつが関与している。国境付近のあの事件か? 国内で騒ぎになることを恐れ、なるべく祖国から離れたところで犯行に及んだか? それとも、こいつは愚かにもグローリア国内で殺人を犯したか。その場合は彼の弟の手によって隠蔽されているのだろうか?
 シコードは相変わらず、ぽろぽろと涙を零している。そして、ゆっくりと話し出した。クラーリィが先程聞き流していた断片のような意味の分からなかった話。彼が順番を滅茶苦茶にして喋っていただけで、本当は一つの話だったらしい。シコードももう相当錯乱してしまっているようだ。ぼろぼろの布をたぐり寄せるように、ゆっくりとシコードは記憶を辿る。
 下手な横槍は状況を悪化させるだけと思い、クラーリィは忍耐強く彼の話に耳を傾けることにした。
「砂の味しかしない。何を食べても砂の味しかしない。栄養にもほとんどならないみたいなんだ、もの凄い勢いで痩せてしまって。弟が心配して、あの手この手を尽くそうとするんだ。いや、したんだ、それで毎日のように干渉されて疲れてしまって、ある日逃げ出した。見つからないように、森の方へね。そこで、はぐれたらしい家畜の羊に出会った。その時、血が騒ぐ感覚がして。
 気がついたら羊を殺していた。そしてその血を飲んでいたよ。おいしくはなかったが、少なくとも人間の食事よりはいいものだった。腹もそこそこ満たされたしね。それで、それで、それで。
 気がついたら妖精を殺していた。ダメだった。しかも個体が小さくて、複数殺す羽目になってしまった。たぶん、彼女の一族を全員殺してしまったよ。申し訳ないことをした、彼女たちは何も知らず、私を見つけて親しそうに話しかけてくれたのに。そう、話しかけてくれたところまでは覚えている、けれどその瞬間ぞわっとした感覚があって、気がついたら目の前が血だらけだった。はは、そう、鱗粉がそこら中にまき散らされていて、地面が虹色みたいになっていてね。凄惨な現場なのに随分とメルヘンチックだったんだ。その上にバラバラになった羽根と、まき散らされた血とがね。キラキラと、そう、光を受けて……
 気がついたら魔族を殺していた。ちょうど残党に出会ったんだ。嬉しかった。きっと美味しいと思ったから。でもこれもダメだった。近いけど何かが違う。少し泥のような味がした。
 出会い頭に天使を殺した。でもこれもダメだった。羽をむしるのが大変だった……こっちは魔族とは違ってなんだか酸っぱかったな。ちょうど中間がいいと思ったんだ、中間が。
 でもこの頃には体調もだいぶ良くなって、弟を安心させられるようになってきたんだ。私はひとりで最善策を探していた。このままじゃこの近辺の家畜も妖精も残党魔族も皆殺しにしてしまう。それに、彼らはそこまで美味しくない。
 出掛けるのは皆が寝静まった夜にしていたんだ。ただ、あまりにも私が荒らしまくったものだから、近辺に何も居なくなって、かなり遠出をしなくてはいけなかった。そして、随分と寂れた村を見つけたんだ。山奥の、ほんの数件しかない集落のような小さな村。仄かな獣避けの灯が見えて私は喜んだ。それで」
「殺したんだな」
「……」
 シコードは何も言わなかった。相変わらず泣いていた。けれどその表情に若干の笑みが浮かんでいることに気付き、クラーリィは背筋が寒くなるのを感じた。諦めか? ようやくひとりで背負ってきた荷物から解放された喜びか? それとも彼は、最初から懺悔する気なんてなかったのか?
「その村はどこにある。生存者は」
「先日、大火事で消失してしまった。残念だね」
「全員殺した上に、放火までしたのか!」
「君もしただろう。放火」
 しれっと言うシコードは、相変わらず涙目ではあったものの、その顔からは表情が消え失せていた。無表情で殺人を語る。放火を語る。クラーリィのそれと、シコードの犯罪を同列に語る。
「俺は殺人の罪を犯していない」
「君は生徒を死なせたね。似たようなものじゃないかな」
「……」
 シコードは無表情のままだ。それでも、クラーリィに縋り付くことをやめない。いや、今や立場が変化し、彼はクラーリィを離さない。
「放火をし、地図から村を一つ消したね。騒ぎになると困るから。私もそうだよ、騒ぎになると困るから火を放って、山火事ということにしたんだ」
 クラーリィは最近あった山火事による村焼失の報告を思い出す。一件ではない。確か三件。いや、もっとあったかもしれない。乾燥している時期だし、似たような地域にあるから、大気がそういう傾向にあるのではないかという報告があった。被害者は……被害者の状態までは報告に上がってきていない。
 もしや、とクラーリィはシコードを睨み付ける。クラーリィの表情の変化の意味に気がついたのか、シコードはしばらく涙目で微笑んだ後「そうだよ」と言った。
「残念だけど総数は覚えてない。でも、複数消したよ。村を。お腹が空いたから」
 すり、とシコードは何かの動物のように頭をクラーリィの足にすりつける。助けてくれ、と彼は言う。
「彼らでもダメだった。私はようやく気付いたんだ、いろんな動物、妖精、魔族、天使、さいごに人間を殺してようやく。この中だと人間が一番美味しい。その中でもいちばん腹を満たしてくれるのは、魔力の高い人間の血なんだ。ひとり、魔法使いと出会ってね。独学の、見習いレベルの君の足元にも及ばないような少年だったけれども。あの時は彼だけでかなりお腹がいっぱいになって幸せだったよ。それでも足りなかったから、結局」
 クラーリィはもうシコードが何を言わんとしているのか、彼がなぜ己の元にやって来たのか、完全に理解していた。そして、その上でシコードを殺そうと思った。一刻も早く。一秒でも早く、この邪悪の忘れ形見と化した「昔シコードだった者」を葬り去らねばならない。
「クラーリィ、お腹が空いたよ。君は純血の人間の中でたった一人、最高の魔法使いだね」
「シコード、俺は今からおまえを殺す。今すぐにだ」
「……君には無理だよ」
 シコードは手を離さない。
「君には無理だよ、クラーリィ。もしそうなったら私は逃げる。そして今まで通り、夜な夜な餌を探すのだろうね。でないと死んでしまうから。私もね、二度も三度も死にたいと思うほど世を儚んではいないから。それに君は優しいから、私を殺すことなんてしない。できないはずだよ。だって君は、慈愛の国スフォルツェンドの代表じゃないか」
「俺の国の慈愛は、おまえのような狂った輩には与えられない」
「そんなの不公平だ。全ての人間を救ってくれ。君たちの教義はそうだろう? 人であるのならば誰にでも救われる権利があって然るべきなのだろう?」
「おまえは人をやめた。おまえは化け物だ」
「君が作った。君の抑圧が私の弟を狂わせた。そして私が出来上がった。だから私は、君が作った」
 ただ裾を掴まれているだけなのに、クラーリィは一歩もこの場から動けなくなってしまった。
 シコードの瞳がじっとこちらを見つめてくる。口にした狂気の垣間見えない、救いを求める、縋るようなその瞳。クラーリィがこれまで生きてきた中で何度も何度も、数えきれぬほど見てきた類の顔だというのに、クラーリィの心を絡め取って身じろぎ一つ許してくれないような、そんな視線。
 嫌な汗が背筋を伝わるのが分かった。
「クラーリィ」とシコードは呟く。
「君が欲しい。君が欲しくなった。君の顔を思い出した瞬間から、私は君のことしか考えられなくなってしまった。空腹は増すばかりで涙が出そうだ。助けてくれ、クラーリィ、私の世界にはもう君しかいない」
 そうして最後に彼は、まるで思い出したかのように「愛している」と呟いた。
「知っているよ、この感情の名前を。愛というんだ。私は君が、君の全てが欲しい。けれど我慢する。どうか、少しでいいから、囓らせて欲しい」
 いいや、とクラーリィは首を振った。足が固まってしまって動かない。まるで何か蔦のようなものに絡め取られたかのように、ぴくりとも動いてくれない。己の拍動がばくばくとうるさくて、背筋には相変わらず嫌な汗が浮かんでいる。
「……おまえのそれは、愛とは呼ばない」
「人は歪んでいると言うのだろうね。けれどクラーリィ、これは『愛』だよ。私は君を殺したい訳じゃない。私と君を引き裂く者がいたら何人であれ排除すると誓おう。君を害する全ての者から君を守ると誓おう。私はただ、いつまでも側にいて欲しいだけなんだ」
 クラーリィはシコードを見下ろす。彼の瞳に燃えるそれは、愛を囁く情熱ではなかった。ただの渇望、飢えた獣のそれ。
 冷ややかに「食料としてな」と、クラーリィは付け足した。
 シコードは微笑んだだけだった。



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