暴食 2
 我が名は暴食。人はみな生きるために食べねばならぬ。


 ***


 取り憑かれてしまった男と、その男に哀れみを見出してしまった愚かな男のお話。

 飢えの苦しみを、クラーリィはあまり知らない。クラーリィは裕福な家に生まれた。父は一個師団を持つ名のある騎士であったし、自らも幼少期から王子や女王に見初められ、特に裕福な生活を送ることができた。
 具体的な何かが欲しい、と願ったことはあまりない。願うほどの欲がクラーリィにはなかった。彼の回りには、願う前から欠けるなにかを満たすに足りるものが溢れていた。本が読みたい、といえば国一番の図書室へ行くことができた。魔法兵団の練習場を覗き見れば実際に発動中の魔法を見ることができたし、彼はいつしかそんな魔法の軌跡を自ら評論するようにまでなっていた。
 あの軌道はよくない。あの足の踏み出し方はよくない。あそこでタイミングをずらして魔法を発動させれば、きっと練習相手は隙を突かれて大ダメージを負っただろう。そんなことを、眺めながらずっと考えていた。
 やがてクラーリィは、学校の主席に登り詰めた。友人もたくさんいた。後に裏切られることにはなるが、少なくとも当時はクラーリィのことをよく理解し、足りぬ部分を補ってくれるよき友であった。
 クラーリィに足りないものはなかった。
 唯一、欲しいと思ったのは仕えるべき主・ホルンの安寧な生活であった。それは随分と大それた願いであったが、しかしクラーリィにはそれを願うことが許される地位にあった。そして彼は、そのために行動できるだけの権力と実力を手に入れた。ただ歯痒い思いをすることなく、彼はそんな鬱憤を溜め込む暇を全て彼女の安寧な生活を作るために使い込んだ。実力に、あるいは身分に阻まれて何もできない者に比べたらよっぽど幸せなことだろう。クラーリィはホルンの、悲しそうではあっても柔らかな微笑みを見ることができた。クラーリィには彼女に労いの言葉をかけることが許されていた。
 だから彼は、本当の意味で魂の飢えを知らない。そんな彼にとって、切々と己の飢えを語るシコードの姿はなにか異様に映った。実際シコードは半ば異形と化していたが、それ以上にクラーリィにとって人外以上の、何とも言いようのない気持ちの悪さを連れてきた。
 クラーリィには彼が、今にも泣き出しそうな声で「血の一滴でいいから」と懇願する理由の本質が分からない。どうしてそんなにも欲しがるのか、欠けた魂の在処を探しているとでもいうかのような様子で懇願するのか、クラーリィにはさっぱり分からない。

 シコードの「愛している」という発言を、クラーリィは試してみようと思った。
 食料としての愛着なのか、それとも彼は食料としての価値のないクラーリィにも愛を注いでくれるのか。
 バカバカしい試みだとは充分分かっていたが、クラーリィは心のどこかでそれと同じくらい素晴らしい思い付きだとも思っていた。
 もし己の仮説が正しければ、クラーリィはシコードの凶行を止められるだけでなく、彼の息をも止められるかも知れない。
 随分と都合のいいストーリーではあったが、成功したときのベネフィットを考えると実行に移さずにはいられなかった。やるしかない。やらねばむしろ損をする。
 早速クラーリィはシコードをこっそりと通信で呼び出す。彼はすぐに応じてきた。
 パーカス辺りに感づかれると不味いから自室だ。本当はこんな奴に自室なんて披露したくないが、仕方がない。
 まるで待ち構えていたのかと問いたくなるような素早さで応じてきたシコードは、「飲ませてくれる気になった?」と顔色一つ変えずに言う。
 そらみろ、やっぱりこいつは地上から消し去ってやるべきだ、その方が「生前のシコード」だって望んでいるだろう、なんてクラーリィは思う。顔には一切出さないが。
「結界解いておいてやるから、俺の部屋までワープしてこいよ。できるだろ? 誰にも気付かれるなよ」
「了解」
 今すぐにでも? と聞いてきたから黙って頷いた。菓子折りの一つくらいは持って来い、と言うとシコードは笑った。
「なにがいい」
「俺の嫌いじゃないもの」
「君の好き嫌いを私は知らない」
「なのに愛だの好きだの、バカじゃないのか、おまえ」
「……ははは。そうだね」
 まるで正常なその笑顔が、クラーリィの目にはやけに眩しく、異様に映った。
「俺はこれから部屋に戻るから……じゃあ、また後でな」
 シコードの返答を待たずに通信を切る。妙な後味の悪さがあった。悪いのはあちら側だと思う。なのに、己が悪さをしている感がぬぐえない。
 繰り返す。クラーリィは悪くない。そのはずだ。

 用意するものは簡単だ。料理用の銀のトレイ。新品でないものが望ましい。調理室からくすねてきたが、一つ二つ消えたくらいで大騒ぎにはならないだろう。後に使われることを考えると若干の申し訳なさが際立つが、丁重に洗った後戻しておけば問題にはならないはず。
 それから鋭利な刃物だ。鋭利であればあるほどいい。傷口は刃こぼれした刃物でつけられたものほど治りが悪い。故に、痕跡をとっとと消したいのであればごく新品、研ぎ立て、ついでに聖別したものに限る。そうすればいざ傷を付けた後かける治癒魔法の効きもいい。これは既に負傷兵への対処で実証済みの事実だ。名誉のために言い訳をしておくと、無論人体実験をしたわけではない。傷口に突き刺さった刃物の破片を取り除くため、仕方なしに聖別したナイフで少しばかり傷口を広げて対処にしたにすぎない。彼は通常よりも素早く、そして傷跡もかなり小さい状態で治った。
 治癒魔法、研究しておいてよかった、とクラーリィは心の底から思う。

 ちょうどそれらを部屋に用意し終えた頃、ひょっこりとシコードが姿を現せた。静かにその周囲を鱗粉が舞う。こいつが大量殺戮犯だとは俄には信じがたい。
 そう主張しても、政治的対立からくる糾弾だとまともに取り合ってくれない国も多かろう。それは先の会議でよく分かっている。己とシコード、個人的な対立が国同士の対立にまで発展する? 確かにこの国は俺の独裁国家に成り果てた、それは認めよう。しかしそんな幼稚な真似はしない。幼稚なミスは犯さない。
 あの国を潰すタイミングを間違えた。それも認める。だが確実に潰す。けれどそれはシコードという個人が憎いからではない、スフォルツェンドという国にとってあの国がなによりも邪魔だからだ。
 あの国があの位置に存在することが、なによりもこの世界そのものを支配する上で邪魔だからだ。
 シコードを見据える視界のその先に、先程用意した聖別されたナイフが目にとまる。こいつは既に半分呪われたような身だから、アレでひと突きにしたら蒸発なんて虫の良い話にはならないだろうか。無理だろうな。こいつはそこまでヤワじゃない。火傷くらいはするかもしれないが。もしパーカスたちの言っていた仮説が本当ならば、火傷すらしないかもしれない。
 その後が怖いから、クラーリィは咄嗟の思いつきを忘れることにした。
「さて」とクラーリィは言う。
「お食事だよ、シコード君。その前に言う台詞はまだ覚えているかな」
「……いただきます、だ。我が身の糧となるものに対する感謝と祈りを込めて」
「おおやめてくれ気持ちが悪い、何が祈りだ、祈る資格なぞとうの昔に失った分際で」
「では君に感謝の一言を」
「殊勝だな。今俺を怒らせるとお預けを喰らうからかな」
 クラーリィは嗤った。その言葉には確かに侮蔑が含まれていたし、それをシコードが感じ取れぬはずがなかったが、彼は力なく微笑むだけだった。
「そうともいうね」
「ああ嫌だ。俺には自傷行為の趣味はないんだ。ただでさえこんなに怪我ばかりの人生歩んでるっていうのに……おまえもだ、シコード。おまえが俺の執務室を吹っ飛ばしてくれたお陰で大切な俺のコレクションも何もかも吹っ飛んだし、俺も怪我をしたぞ。俺は案外心が狭い」
「謝るよ」
 クラーリィはシコードを見据えた。彼は真顔だった。
「……謝るべきは俺じゃない。感謝すべきは俺だが。おまえが真に謝るべきなのは、その手にかけてきた数えきれぬ命たちだ。感謝することを忘れたおまえの食料となってしまったものたちに対してだ」
 ナイフを手に取る。それをシコードがじっと見つめている。期待を込めた眼差しで。ディナーを見つめる無邪気な瞳で。
 そこに渇望はあっても、愛情はない。それをクラーリィは確認する。
 振り上げた。ひゅっという、風を切る音がした。
 この音は好きじゃない。
 ざくりと腕にナイフを突き刺す。正直、刺されたり怪我したりという事柄には慣れている。神経も避けて刺したから、見た目ほどの痛みはない。ただ、血管には触れるように刺したから、見るも無惨に赤褐色の静脈血だけが流れ出てきた。
 流石にこんな奴のために動脈を傷付けてやる気にはなれなかった。
 絵本に出てくる吸血鬼の欲しがる美しい赤じゃないけど我慢しろよな。おまえにそんな権利はないさ。絵本の登場人物と違っておまえは汚れてる。
「ほら」とクラーリィは言う。手を差し出す。やっぱり少しだけ痛い、持ち上げると腕が震えた。ナイフの刺さった腕は銀のトレイの上に浮かんでいる。もし零れたら、そこから一滴も残さず飲み干せと命令する気でいた。凝固しようが知ったことか。一滴たりとも、一ミリリットルたりとも、残すことは許さない。
「食えよ」
 もったいないから早くしろ、とクラーリィは急かした。シコードは瞬時に動くかと思いきや、動かない。ぴたりと動作を止めている。
 ちり、とクラーリィの神経が苛立たしさに焦げる。
「早くしろ、クズ呼ばわりしてやるぞ」
「あ、ああ、……」
 バカみたいに動揺している。それがクラーリィの持った印象だった。
 何を動揺することがある? この展開を望んだのは他ならぬシコード本人だろう。流血現場だって飽きるほど見てきた筈だし、こいつは先日自らそんな凄惨な現場をいくつも作って挙げ句に放火までしたと告白したばかりではないか。
 それに比べたら随分と優しい状況だ。何を動揺することがある。
 早くしろ!
 クラーリィの腕から血の最初の一筋が流れ落ちるのと、シコードが動いたのはほぼ同時だった。彼の行動のお陰でクラーリィは己の血をトレイに零し、トレイの掃除に腐心する手間を省くことができた。いくら綺麗にしたところで、人血で汚れたトレイで用意されたものなんか食べたくない。

 さてどうしようか、とクラーリィは考える。目下の所問題なのは、この身に染みついてしまうであろう血の臭いだ。きっと、いや必ず、デビットに勘付かれてしまう。あいつはそういうのに敏感なのだ。況してや最近クラーリィは怪我をするような何かに遭遇していない。先日も、シェルの幼馴染みの娘にぐっさりやられた大怪我について、後に知ってもう随分治りかけていたというのに大騒ぎされた。あれは心配性なところがある。そして少しばかりクラーリィに依存している。
 手元が滑ってナイフで自分を刺しちまったとでも言っておくか。すぐ引っこ抜いて治癒魔法で傷を塞いだことにすればいい。後でナイフを使うような作業を用意しておかないと。聖別したナイフは良い選択だった。これならば自分が何か手作業で使うに相応しい代物になる。咄嗟に手が滑ったものの、なんとか神経や動脈は回避して刺したこという筋書きでいこう。自分の意思で刺したこと、神経や動脈を避けて刺したことそのものは事実だ。残りは嘘だが、事実が混じっている以上頭ごなしに嘘と決めつけることはできなくなるはずだ。
 いつぞやクラーリィに、嘘をつくときは真実を織り交ぜて、と教えてくれた誰かに感謝しなくては。それがデビットだったら笑い話どころではないが、デビットの性格上クラーリィに上手い嘘のつきかたを教えることはないような気がした。
 誰だろう。クラーリィの亡くした旧友のうちの誰かだろうか。
 腕が本格的に痺れてきた。狭いクラーリィの心は「もう十分だろう」の一言で埋め尽くされた。
 俺は優しくないんだ。
「……シコード。菓子折りは」
「うちの国のものは嫌がると思って、スラーの観光土産ものを持ってきた。親交のある国だし、……これなら大丈夫かと」
「ふん、『グローリアの土産』という大はずれは回避したらしい」
 クラーリィは腕のナイフを引っこ抜いた。思いの外深く刺したのか相変わらず出血し続けている。けれどそれを丁寧に、それは丁寧に受け止める人物が居る。ゆえに一滴も無駄になることはなさそうだった。
 銀のトレイにクラーリィの血が落ちることは、結局一度もなかった。

「満足したか?」とクラーリィは言う。あらかた治癒魔法はかけおわり、傷口もだいぶ小さくなった。銀のトレイは汚れなかったから、臭いを消しておけば大丈夫だろうが、一応消毒しておこう。ナイフも再び聖別しよう。あとは、デビットのための嘘作りだ。クラーリィは人を騙すのが上手い。だからきっとこれも上手くいく。
「食事」の終わったシコードは、その場から微動だにしなかった。クラーリィが机の上を片付けようが、傷口に治癒魔法をかけようが、指一本動かそうとしなかった。息をしていたかどうかも怪しい。それくらい、気配すらも薄かった。
 薄気味悪い、とクラーリィは思った。
 クラーリィの問い掛けが聞こえていなかったのか、シコードは沈黙を守っていた。クラーリィは苛立ち、もう一度「満足したか?」と問い掛ける。
 これでまだ返答がなかったらこいつの頭を本気で殴ってやろうと思っていたところだった。

 蚊の鳴くような声が聞こえた。
「なんだ? 聞こえない」
 クラーリィはわざとらしくシコードの顔を覗き込む。
「……しない」
「は?」
「もうしない」とシコードは絶望したような顔をして言った。
「もう二度と頼まない」
「ふん、で、人殺しに戻ります、と?」
 シコードは首を振った。その顔には相変わらず絶望が浮かんでいる。
「君が与えないのなら私は死ぬ。そうだ、私は、なにを……人なんて殺したりしたくない。したくなかった。私はただ、身の回りの人が、愛した祖国の人々が、傷付くのが嫌で、それだけでこの身を軍に投じたというのに」
 なにをしているんだ、という言葉はきっと自身に向けられたものだったのだろう。クラーリィは何も言わなかった。
 ようやく気付いたのか、とっとと死ねばいいのに、とは思ったけれど言わなかった。
 ぼろり、シコードの目から涙がこぼれる。
「私は何をしているのだろう」
「本当にな」
「何を、何をしてしまったのだろう……」
 聞いてくれ、とシコードは言う。懺悔がしたいと。発端となったあの懺悔の時の言い方に似ていた。クラーリィは一言「いいよ」と言った。
 心は狭いが、仕事はする。
 口を拭った手の甲についたクラーリィの血を見て、シコードはしばらく固まっていた。それから膝を折る。立っていられなくなったようだった。足が微かに震えている。
 恐怖か、怯えか、後悔か? その全てをする資格はとっくにないと、クラーリィは思っているが口にはしない。
「……おいしかった。ありがとう。これで当分生きていける」
「そいつは残念だ。いや、良かったのか? とりあえず、人殺しにはならずに済むな」
 ぽつりぽつりと、シコードは己の「過ち」を悔いていく。
 大帝を守ることができなかったこと。己が死を発端に弟を狂わせてしまったこと。自由意志を持たない状態とはいえこの手で何百もの人間を殺したこと。世界を壊したということ。
 クラーリィ、君を傷付けた、そう言ってシコードは顔を上げた。泣いていた。クラーリィは可哀想とも何とも思わなかった。
 仕事で話を聞いてやっているだけだ。
「この力は、何かを壊すために身に付けたものではなかった。そんな力を欲したわけではなかった。私はただ守りたかっただけだ。いろいろなものを。私の身の回りのものを。大事なものを。大事なひとたちを。……弟も。大帝も。家族も。祖国も。私が生きたこの世界も。私を愛してくれた妖精界も」
 この力は、そんなことのために身につけたものではなかったということ。シコードは決して許しが与えられないことを知ってなお、クラーリィに懺悔を続ける。彼の血肉は、かの大魔王ケストラーと半ば混じり合い、ケストラーの性質の一部を受け継ぐ形となってしまった。
 己に適合した形の「魔力」が欲しい。つまり、人間の「魔力」のつまった血が欲しい。その身にいつまでも消えぬ破壊衝動を抱えている。彼の肉体を構成する魔族の王・ケストラーの細胞は、彼が生きている限り永遠に滅びない。シコードは結果として魔族の存命に手を貸していることになる。
 クラーリィはそれを黙って見下ろしていた。ナイフを刺した腕が徐々に痺れていくのを、冷たくなっていくのを、ゆっくりと感じながら。やはりまだ治癒魔法は完璧でない。忌々しい。忌々しい!
 こいつが生きているだけで、残存する魔族もまた生き存える。幸せなのは、魔族どもがケストラーの残骸が人間の姿をとってこの場にいるということを知らないことだけだ。
 冷えていくのは腕だけではなかった。目の前にいるのは、もう「かつて友になりかけた者」ではない。弱点を己に握られた憐れな敵だ。それも絶対に滅せねばならぬ敵。人間の形をしているが、本質はそうではない。彼はもう「人」ではない。
 いつでも殺せる。弱点はこちら側にある。ならばあとはこのコマをどう使うかが問題だ。使えるコマは最大限に活用せねば勿体ない。
 けれど、遅くなればなるだけ、魔族側にシコードがケストラーを内包していることを気付かれる可能性が高くなる。本人も然りだ。そうなるとクラーリィとの立場が逆転する。最悪、シコードという人格を突き破ってケストラー本人が現れかねない。その前に始末しなければ。芽が出る前に、全ての芽が地に埋まっているうちに、片付けねば。
「最後だ。愛しているよ、クラーリィ。『愛』の定義を思い出した。だからこそ私はもう頼まない。どんな衝動にも耐えてみせる。……君を傷付けることはもうしない」
 シコードの告白はクラーリィの表面を右から左へとすり抜けていった。
 いつ殺そうか、という言葉だけがクラーリィの頭の中をぐるぐると回っていた。



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